髪を切る
11月下旬、よく晴れているある日の昼下がり。
はいつも利用している美容院へ向かった。
腰に届くほど長い髪である彼女は、手入れのため一定期間をおいて美容院に行っている。
だが、今日は別の理由があった。理由と言っても、失恋したとかイメージチェンジをしたくなったとかではない。ただなんとなく髪を切りたくなったという単純な理由だ。
だが、カットすると言っても、ばっさりとショートにするわけではない。毛先を少し切る程度だ。
長年伸ばしているので、短くすると落ち着かないのだ。
もっとも、今日のようになんとなく切りたくなることは滅多にない。
「ありがとうございました」
店先で店員の挨拶に会釈を返して、 は恋人と待ち合わせている本屋に向かった。
駅前の大きな本屋に向かって歩きながら時刻を確認すると、午後4時7分だった。
本屋までは5分もかからずに行けるので、不二との待ち合わせ時刻には余裕で間に合う。
本屋に入った は、スポーツ雑誌が陳列している棚へ向かった。
高校でテニス部に所属している不二は、その場所にいることが多いからだ。
けれど、まだ彼は来ていなかった。
休日のデートの時、不二は必ず より先に来て彼女を待っている。
だが今日は平日で、学生である不二は学校に行っている。だから、来ていないのは当然のことで、 はさして気にする風もなく、手近な雑誌を手に取った。
雑誌をほとんど読むことのない彼女だが、恋人の影響でスポーツ雑誌は見るようになった。もっともスポーツ雑誌と言っても、テニス関係のものしか読まない。
他に読む雑誌と言えば、料理雑誌くらいなものだが、いつも読んでいる雑誌はつい先日買ったばかりだったし、とくに読みたい雑誌もないので、 はここで不二を待つことにした。
そして、雑誌を読み始めて数分後。
「 、待たせてごめん」
そう声が聴こえて、 は雑誌から顔を上げて左側へ顔を向けた。
そこには学ラン姿の不二がいた。
「周助」
「なにを読んでたの?」
言いながら、不二は が持っている雑誌に目を遣って、色素の薄い瞳をフッと細めた。
そして嬉しそうに微笑みながら。
「自分の好きなことを恋人も好きなのって嬉しいね」
「私は別に…っ」
自分を弁護するように慌て始めた恋人に、不二はクスッと笑った。
彼は言ったことに素直に反応してしまう が愛しくて仕方がないのだ。
彼女は頬は勿論、耳までも朱色に染め上げながら、誤摩化すように雑誌を元の位置に戻した。
「クスッ。 ってやっぱり可愛い」
周りに人がいないのを幸いに、不二はにこっりと極上の笑みを に向けた。
それがなんだか気恥ずかしくて、 は不二から視線を逸らした。
と、その時。
「ねえ、 。今日はいつもと雰囲気が違うね」
「…え?」
不二の言っている意味が分からず、 は恋人に視線を戻して首を傾けた。
艶やかな黒髪がサラッと揺れた。
「髪、切ったんだね」
黒曜石のように黒い髪を大きな手でそっと梳いて不二が言うと、髪と同じ色の瞳が驚いたように見開かれた。
そして は数回瞬きをして、恋人の秀麗な顔をじっと見つめて。
「どうしてわかるの?」
訊くと、不二はフフッと笑いながら。
「どうしてそんなことを訊くの?」
「だって…切ったのはほんの数センチよ?切った私は短くなったなってわかるけど、私くらいに長い髪だと、少し切ったくらいじゃ誰も気づかないわ」
「それは僕以外の人が、だろ」
言うと、 はコクンと頷いた。
「職場の同僚なんていつも全然気付かないわ」
「僕はいつも を見てるからわかるんだよ」
そう耳元で囁くと、 は一瞬にして頬を再び朱色に染め上げた。
「周助、ここ外よ」
彼のセリフが恥ずかしくて、咄嗟にそう言った。
すると不二は楽しそうにクスクス笑って。
「じゃあ、 の部屋に行こうか。 久しぶりに君の手料理が食べたいな」
そう言って、不二は白く細い手をそっと捕えた。
驚いてまだ赤い顔を不二に向けると、彼はにこやかに微笑みを浮かべながら。
「家の中ならいいんでしょ?」
「そ、そういう意味じゃ…」
「フフッ。楽しみだね、 」
「も、もうっ!せっかく…」
言おうとして、 は口を閉ざした。
すると。
「せっかく…なに?」
「なんでもないわ」
「そう?まあ、あとでゆっくり聞かせてもらうよ」
言うと、不二は の手を引いて細い身体を引き寄せた。
そして、艶やかな黒髪を優しく撫でながら、 の耳元へ唇を寄せた。
「サラサラな髪にもっと触れていいでしょ? もう二週間も に触れてないんだ」
言葉の中に含まれる不二の真意を読み取った は、コクンと頷いた。
どうあがいても不二には勝てないのを分わっているし、自分も彼と同じ気持ちだから。
すると不二はフフッと笑った。
「ありがとう、 。嬉しいよ」
そして二人は、誰にも邪魔されることなく、翌朝まで甘い時間を刻んだのだった。
END
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