プリズム




 大きな入道雲が浮かぶ、青い空。
 紺碧の海がさざなみを響かせ、遙か彼方まで続いている。
 足元に広がるのは、白に近い色の砂浜。
 地上へ降り注ぐ太陽の光が眩しい。

 吹き抜けていく風にの長い黒髪が踊る。
「すごーい。ほんとに人がいない。貸切みたい」
 満面の笑顔で振り向くに不二はクスッと微笑んだ。
「みたいじゃなくて、貸切なんだよ」
 部活が休みの今日と明日を利用して、二人は南の島へ遊びに来ている。
 二人がここに来ることができたのは、がデパートの抽選会で特賞を当てたからだった。
 その特賞というのが豪華なもので、宿泊代はもちろん現地までの交通費も含まれている。
 宿泊先というのはペンションで食事は自炊になるのだが、食材は事前手配で届くことになっている。ちなみに食材費も賞の中に含まれている。
「周ちゃん、早く泳ごうよ」
 今にも走り出しそうなの手を不二は素早く捕まえた。
 そしてしっかりと手を繋ぐ。
 砂浜の上なら転んでも大した怪我はしないだろうが、念の為だ。
「荷物を置いて食事をしたらね」
 荷物を置いたらすぐにでも着替えて飛び出しそうなに釘を刺す。
 は少しだけ残念そうな顔をしたが、素直に頷いた。
「ねえ、周ちゃん」
「なに?」
「楽しみだね」
 首を傾けてが微笑む。
 その愛らしい微笑みに、不二は切れ長の瞳を細めた。
「そうだね。せっかくの休みだし、めいっぱい遊んで行こう」
「うん!」
 そうして二人は宿泊場所である、ペンションへ向かった。


 海面が太陽の光を弾き、ゆらゆらと揺れている。
 緩やかに波立つ水面に向かって、プリズムのように光が降り注いでいる。
 身体をほぐした二人は、波打ち際へ近づいた。
「わ、水が透明」
 掌に海水をすくって、が感嘆の声を上げる。
 海に行きたいと言っても不二がなかなか連れて行ってくれないので、海に来たのは二年振り位だ。
 不二がを海に連れて行きたくない理由があるのだが、が気づいているわけもなく、その理由を訊いても不二は上手くかわしていた。ゆえには、夏の海に遊びに行かない、というより行けない理由をいまだに知らない。
 友達と一緒に黙って行っちゃおうかな。
 そう考えたこともあり、実際に計画を立てたことがあるのだが、いつも不二はどこから知ったのか、計画は露見してしまい、失敗に終わる。
 そんなことが何度かあって、は不二以外の人と夏の海へ遊びに行くというのを諦めていた。
 もっとも不二といられるのは嬉しいので、それはそれでいいのだが。
「うん、キレイだね」
 と同じように、不二も海水を掌ですくってみる。
 火照り始めた肌に冷たさが心地よい。
 海の中へ一歩、また一歩と踏み出すに、不二は口元を上げて微笑んだ。

 愛しい人の名を呼んで、恋人がくるりと自分の方を見た、その瞬間。
「きゃっ?」
 思いがけない出来事に、は思わず瞳を瞑る。
 それと同時に肩と胸のあたりに冷たさを感じた。
 瞳を開けると、くすくす愉しそうに笑う不二の顔が映った。
 はむうっと頬を膨らませて不二を睨む。
「えいっ!」
 気合にしては可愛らしい声で、は掌にすくった海水を不二へ向かってかけた。
 それをよけようと思えばよけることは可能だったが、不二はよけなかった。
 かわりに、右腕を顔にかかるように上げて、目に入るのだけを避けた。
 そして間髪入れずにへ海水をかけ返す。
 それを受けたが負けじと不二へかけ返す。
 そうして二人はしばらくの間、海水のかけあいを楽しんだ。
「びしょ濡れだね、
 濡れないように、とまとめてアップした髪から、海水が滴り落ちている。
 髪についた水滴が煌いていてキレイだ。
 それに見惚れるように、不二は色素の薄い瞳を僅かに細めた。
「周ちゃんだって。…だけど、びしょ濡れでも周ちゃんカッコイイ」
 首を傾げて少し照れた微笑みを浮かべて言われてしまってはたまらない。
 無意識に男を煽るようなことを言う彼女を恨めしくもあり、また可愛らしくもあり、不二は少し困ったように笑った。
「それは光栄だね」
 不二は濡れた前髪を左手でかきあげて、との距離を縮める。
「少し泳いでみる?」
「離さないでね?」
 掌を上にして差し出された不二の両手に自分のそれを重ねて、は上目遣いに不二を見つめた。
 は海は好きなのだが、実はあまり泳げない。2、3メートルならなんとか泳げるのだが、それ以上は掴まるものがないと泳げない。
「……周ちゃん」
「なに?」
「なんだか沖に泳いでない?」
 周ちゃんが泳ぎを教えてくれるのは楽しいな。
 そんなことを考えながら不二に手を引かれ泳いでいただったが、ふと波が正面から来ているのが気になった。
 先程いた深さを泳いでいるなら波は横から感じる筈だし、なにより横目に浜辺が見える筈だ。けれど視界に映るのは、光が煌く水面だけ。
 にっこり微笑む不二には自分の推測が正しいことを知った。
 だからと言って、一人で浜辺へ向かって泳いで帰るのは不可能に近い。
 の脳裏に不二がスキーを教えてくれた日のことが蘇る。あの時も「早く上手になるよ」とかなんとか言われて、上級者コースで滑ったのだ。
 普段は優しいのに、ごくたまに彼は意地悪というか、スパルタだ。それをうっかり忘れていた。
「…周ちゃん、疲れちゃった」
 それほど長い距離を泳いだわけではないが、そろそろ足が疲れてきた。
 不二の手を借りてはいるけれど、浮き輪に掴まって泳ぐより体力を消耗する。
「じゃあ、戻ろうか」
 そう言いながら、不二はの腕を引いて、華奢な身体を自分の方へ引き寄せる。
「えっ、周ちゃん?」
 突然抱き寄せられて黒曜の瞳を瞠るに、不二は優しい笑みを浮かべた。
「頑張ったご褒美」
 そう言われてもわけがわからないは首を傾げた。
「クスッ。連れて帰ってあげる」
「…うん」
 は素直に頷くと、不二の首に両腕を絡めて抱きついた。
 嬉しそうに甘えてくるが可愛らしくて、細い身体に回した腕の力を少しだけ強める。
「周ちゃん?」
 不意に腕の力が強くなったのを感じて、が不思議そうな顔で不二を見つめた。
「なに?」
「な、なんでもない」
 優しい瞳で見つめられて、の白い頬が赤く染まる。
 どうしてだろう。
 嬉しいのに、なんだか恥ずかしい。
 不二はの表情から心情を読み取ったかのようにフフッと微笑んで、をしっかり抱きしめて浜辺へ向かって泳いだ。


 打ち寄せる波の音が響いている。
 目の前には瞳を凝らしても何も見えない漆黒の海。月の放つ銀色の光だけが水面に揺れている。
 けれど、少し視線を上げれば、無数の星が煌く夜空が見える。
「昼間のプリズムもキレイだったけど、星空もキレイね」
「ああ、空気がキレイなんだろうね」
 少しの間並んで星空を見上げていると、不意に左腕に重みがかった。
?」
 名を呼びながら横を見ると、の夜空色の瞳は閉じられていた。
 柔らかな唇からかすかに寝息が聞こえる。
「こんなところで寝たら風邪を引くよ?」
「…ん…」
 全く起きる気配のないに不二はクスッと笑って、華奢な肩を抱きしめるように左腕を回す。
 そして、右手で胡桃色の髪をそっと梳き、ついで柔らかな頬へ長い指を滑らせた。
 がもし起きていたら、顔を真っ赤に染めてうろたえているに違いない。
 その顔を思い浮かべて、思わずフッと笑みが零れる。
 それから無防備に寝ているを起こさないように、左腕を背中に右腕を膝裏へ回してそっと抱き上げた。
「…ん……周ちゃん…大好き…」
 細い身体を抱き上げたのと同時に聞こえた声に、不二は切れ長の瞳を瞠った。
 瞳は閉じられたまま、柔らかな唇からは寝息が聞こえる。
 可愛らしい寝言に、不二は色素の薄い瞳を愛しげに細めて微笑んだ。
「僕も大好きだよ」
 耳元で甘く囁いて、事後報告でいいか、との唇に優しいキスを落とした。




END



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