仲直り




 不意に、ふっと辺りが薄暗くなった。
 空の頂に輝いていた太陽が雲に隠れてしまったのだ。足元にくっきりあった影が、ぼんやりとしか見えなくなっている。
「……降る…かな…」
 公園のベンチに座っているは空を見上げて呟く。
 雲は白くなく、灰色。雨雲のように見える。
 雲の切れ間があるが、陽光はちらりとも見えない。
 こうして見上げている間にも灰色の雲が増え、雨が降り出しそうな気配がある。
 いつもなら、雨宿りをするとか、走って帰るとか、濡れないで済む方法を考える。
 けれど今は動けない。いや、動けないのではなく動くつもりが、気持ちがないのだ。
 このままここにいて、雨に打たれたい。
 そう思うのだ。
 そうしたら苦く重い気持ちから開放される気がする。
 まるでの願いに応えるかのように、小さな雨粒が鉛色の空から降ってきた。
 それは瞬く間に数を増やし、ざあざあと音を立て始める。
 乾いた地面は雨を吸い込み色を変えていく。
 その様をは足を抱えて見つめていた。
 顔や手は冷たい雨に打たれ、長い黒髪は雫が滴り落ちるほど濡れそぼり、着ている物もまたぐっしょりと濡れている。
 このままここにいれば――雨に濡れていれば、が望んでいるように風邪を引くなどたやすい事だ。
 家に帰っても誰もいない。だから心配をされる事はないし、怒られる事もない。
 がびしょぬれで帰ったからとて、どうという事はない。
 それから気が済むまで雨に濡れて、は家へ帰った。



 翌日、雨はすっかり上がっていた。地面が乾いているから夜中に止んだのだろう。
 晴天とまではいかないが、そこそこのよい天気になりそうだ。
 その空の下、は学校へ向かっていた。
 昨日あれほど雨に濡れて帰ったにもかかわらず、体調に変化がない。
 濡れた髪を拭いて服を着替えたのがダメだったのかもしれない。けれど濡れたままでは気持ち悪いし、布団が濡れるとクリーニングに出さなくてはならないし、あとで面倒な事になる。
 風呂に入らないのは汚い気がしてシャワーだけだが、入ったのが悪かったのかもしれない。
 は思っていたより頑丈に出来ている自分にがっかりし、いつも通りに支度をして家を出た。
 学校に行きたくないのなら仮病で休むとか、サボるという手もあるが、そうしなかったのは朝練があるからだ。
 テニス部のマネージャーという地味かもしれないが、大変かつ忙しい仕事に誇りを持っているし、なにより好きなのだ。だから、仮病やサボるという選択はしなかった。
 
 予定通りに行かなくて、考えたくない事を考えたまま歩いていたから、は気がつかなかった。校門の前に微笑みを消して立っている人に。
「…
「っ!?」
 校門をくぐろうとすると不意に名を呼ばれ、は息を呑んだ。
 目を向けなくてもわかる。
 耳が声を覚えている。何百回と名を呼ぶ声を。
 今一番逢いたくない人がいるとわかっていて、目を向けられる筈がない。
 はきゅっと唇を噛んで走り出した。
 顔を見たくなかった。
 声を聞きたくなかった。
 朝練が始まれば嫌でも顔を会わせなくてはいけないとわかっていても、せめてそれまでは。
 けれど、僅かに走った所で肩を掴まれ後ろへ引かれた。彼女の華奢な身体は、不二の胸に抱きとめられる。
「どうして逃げるの?」
 普段の不二から滅多に聞くことのない硬い声。
「別に理由なんて…」
「理由がないのに、君は恋人から逃げるんだ?」
 不二の腕がの腹に絡むように回され、彼の吐息が耳にかかる。
「は、離して…」
 は不二の腕に手をかけて、力を込める。
「嫌だ。聞くまで離さない」
 人目が気になるは逃れようともがくが、不二の腕の力は緩まない。それどころか、更に引き寄せられて体が密着する。
「………周助は、私に飽きたんでしょ」
「なんだって?」
 色素の薄い瞳が驚きに瞠られる。
「…見たの。周助が綺麗な女の人とキスしてるの」
 ぼそぼそと紡がれた言葉に藤は溜息をついた。不二の顔が見えないは、彼が「見られたのか」と言ったも同じだと思った。それ以外に溜息の理由なんて思いつかない。
「わかったら離して。もう、いいでしょ」
 か細い声で訴えるが、不二の腕は解かれない。
「誤解だよ。君が見たのは僕の姉さん。キスしてるように見えたのは、目に入ったゴミを取ってたからだよ」
「嘘」
「君に嘘はつかないよ。……どう言ったら信じてくれるのかな、君は」
 溜息混じりの呟きは辛そうで、は不二の言ったことは本当なのではないかと思った。
 もし不二の言葉が真実であるなら、一方的な勘違いで彼を傷つけている事になる。
「……絶対嘘じゃない?」
、帰りに家に寄って」
「え?」
 は思わず不二を見た。唇が触れてしまいそうな距離に彼の顔があった。
「姉さんに会わせるよ。そうしたら君は誤解を解いてくれるはずだ」
「どうして…?」
「嘘じゃないって言葉を重ねるより、100%僕を信じて欲しいから。君を不安にさせたままなのは嫌なんだ」
「…っ、……ごめんなさい…」
 どうして昨日信じなかったんだろう。
 確かめもせずに疑って、勘違いして、酷い言葉で不二を傷つけた。
 こんなに想われているのに、愛情を一瞬でも疑ってしまった。
「僕こそごめん。君が勘違いしてるって気がついたのに、追いかけなかった」
「えっ?」
「君が踵を返して走って行くのが見えたんだ。けど、話せばわかってくれるって追いかけなかった。用なんて放って追いかけるべきだった。そうしたら君を不安にさせずに済んだのに」
「ううん。謝るのはやっぱり私のほう…ちゃんと周助に訊けばよかったのに……。 周助を信じるから、帰りは平気よ」
「そう? でもやっぱり、家に寄って行って欲しいかな」
 首を傾げるに不二はにっこり微笑んだ。
「君と一緒にいたいんだ。いいよね?」
「…うん。嬉しい」
 仲直りをした二人は周囲の事を忘れたかのように手を繋いで部室へ向かったのだった。




END



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