夜空の華




 空が藍色と橙色に交じり合った、夜と夕の狭間の時刻。
 周助は浴衣に着がえて家を出た。彼が着ている藍色の浴衣は、幼馴染で恋人のが縫ったものだ。袖を通したのは今夜で二度目。
 今夜は花火大会があり、浴衣ででかけようねとが言ったので、彼女が仕立てた浴衣にした。
 一度目に着た七夕の夜、浴衣を着ているのを見た彼女は、嬉しそうに笑っていた。その愛らしい笑顔が今夜も見られるといいな、と周助は思う。
「周ちゃん」
 隣家の門前に、の姿があった。
「待ちきれなかった?」
 訊くと、は頷いてはにかんだ笑みを浮かべた。可愛い彼女に頬が緩む。
 洋服だったら抱きしめられるのに、浴衣では着崩れてしまいそうで出来ないのが残念だ。
 そんなことを思いながら、周助は左手をに差し出した。
「行こうか」
「うんっ」
 嬉しそうに笑ってが差し出された手に右手を重ねると、しっかり握られた。
 甘えるように少し身体を寄せてくるに、周助は色素の薄い瞳を細めて微笑む。
 彼女がこういう風に甘えるのは自分にだけだとわかっているから、可愛くてたまらない。友人の菊丸は夏なのに手を繋いで暑くないのかとよく言うけれど、暑さよりも心地よさと幸せが勝るから暑いとは思わない。
「周ちゃんとした花火も楽しかったけど、楽しみだなあ」
 彼女が着ている浴衣――が祖母から送られてきたという白地に赤と青の朝顔柄の浴衣を着て見せに来たのは、三日前の夜。その時に花火をしたくなったから、と彼女は花火を持ってきた。不二家の庭で二人で花火をしたけれど、驚かせたかったと口を滑らせてしまったに「あとが楽しみだな」と言ったから、時々あわあわしていたのを覚えている。花火のあとで、お詫びしてくれるよねとキスをしたら、真っ赤になっていた。何度キスをしても慣れないらしい彼女がとても可愛かった。
「今年は最後に仕掛け花火が上がるらしいよ」
 昼間、部活の休憩時間に花火大会の話が出て、その時に乾が言っていた。
「わあ、どんなのかな?」
 はわくわくとした顔で瞳を輝かせる。周助の予想通りの反応だ。
 可愛らしい彼女に周助はクスクス笑って、楽しみだね、と言った。


 花火がよく見える場所――浜辺にはすでに多くの人がいた。
 だが二人は浜辺ではなく、少しわきにある高台へ歩を進めた。
 浜辺は花火が大きく見えるのだが、風向きによっては燃え尽きた火薬が降ってくることがある。周助は煤でが汚れるのは嫌なのだ。それに、素足で下駄を履いているから、浜辺に落ちている貝殻やガラスの破片で足を切ったらという心配がある。浜辺ではない場所で見ることに関して、周助は後者の理由を一昨年に話している。だから今年も彼女が不思議に思うことはなかった。
 花火がよく見える場所を確保し、並んで待つこと数分。
 暗くなった夜空に小さな花が立て続けに咲き、始まりを告げた。
 周囲からわあっと歓声が上がる。
 ドン、ドン、と大きな音を響かせながら、赤や青、紫など色鮮やかな花火が次々上がる。
 何十発と一斉に上がった花火が眩しいほどに夜空に煌く。
 周助は横目でを見、瞳を輝かせている彼女に頬を緩める。無邪気に喜んでいる顔が、すごく可愛い。
 ドーナツ型や星、二重の花火などの変わった形の花火があったり、スターマインがあったり、様々な種類の花火が打ち上げられていくのを、二人は楽しんだ。
 それから一時間半程経った頃、ふっと花火の音が止んだ。用意のためか何度か花火が止む時間はあったが、今度は今までのそれより長い。
「上がらないね」
「仕掛け花火が上がるんじゃないかな」
 見上げてくるに周助は言った。
 暗闇にぽっと浮かんだ火花が直線を描くように横へ伸びていく。その直線から下に流れるように、花火が落ちて滝を作っていく。
「きゃー、すごいきれい!」
「うん、すごいね」
 眩い花火の滝は、数分して少しづつ火花が消えていく。
 やがて完全に消えると、周囲は暗闇に包まれた。花火の名残の煙が夜風に攫われている姿が夜空にあるだけだ。
「きれいだったね、周ちゃん」
 にこにこ笑うに周助が頷こうとした時だった。
「きゃっ」
 引き上げていく観客に擦れ違いざまぶつかられ、は悲鳴を上げた。転びそうになったが、周助が咄嗟に手を伸ばし助けたので事なきを得た。
、怪我はない?」
 周助はホッと安堵の息をつき、彼女に訊いた。
「っ…、へい、き。周ちゃんが助けてくれたから」
 訊いた直後の一瞬、彼女の視線が足を気にするように落ちたのを周助は見ていた。
「足を捻った?」
 瞳を覗き込んで訊くと、は一拍おいて小さく頷いた。
「でも、少しだから平気」
 そう言っては笑うが、心配させまいとしているのだと周助にはわかる。
 周助はに背を向け、腰を落とした。
、乗って」
 視線をに向け、背中に乗るように促す。
「平気、歩けるから」
「おんぶが嫌なら、お姫様抱っこするよ」
「どっちもやだ」
 なら妥協しておんぶを選ぶだろうと思ったのだが、彼女の反応は周助が思ったのと違っていた。
 周助は立ち上がり、と向かい合うと首を傾げた。
「どうして?」
「だって、明日も練習あるでしょ。周ちゃんの腕がしびれちゃったりしたらやだもん」
 どうしてこう可愛いことばかり言うのだろう。
 抱きしめたくなって困る。
 思わず頬が緩みそうになるのを堪え、周助は笑った。
「平気だよ。を抱き上げただけでしびれるような鍛え方はしてないよ」
 これは本当だ。
「でも…」
を無理に歩かせるほうが嫌だ」
 これ以上の問答は埒が明かない、と周助は両腕でを横抱きに抱き上げた。
「しゅ、周ちゃん…!」
 顔を真っ赤に染めるに周助は優雅に微笑んだ。
「お姫様抱っこって一度してみたかったんだよね」
「お、おんぶがいい」
「ちゃんと掴まってるんだよ」
 言外に却下されたのがわかり、は頷いて周助の浴衣の胸元をきゅっと両手で掴んだ。
 周囲からの視線を感じて、恥ずかしいのだろうが顔を隠すように埋めてくる。彼女ほど羞恥がない――怪我をした恋人を抱き上げているだけなのだから――周助はクスッと笑って歩き出した。


 の両親が今夜出かけていることを周助は聞いていたので、不二家へ彼女を連れて戻った。
 帰宅すると驚いた由美子が救急箱を用意してくれ、周助は慣れた手付きでの足を手当てした。
「軽い捻挫みたいだし、三、四日で腫れと痛みは引くと思う」
「うん。ありがとう、周ちゃん」
 救急箱に包帯をしまい蓋を閉めた周助は、ソファに座らせたを見上げて言った。 
「でも、見学はダメ。こっそり来てもダメだよ」
 明日、テニス部は他校と練習試合がある。それを見学したいとは前から言っていた。だから言っておかないと、少しくらい痛くても、と彼女は来てしまうに違いない。軽い捻挫でも悪化してしまう可能性だってあるのだ。
「………」
 周助の言葉にしゅんとするを見、由美子が口を開いた。 
「それなら、明日私とドライブしましょうか、ちゃん」
「ドライブ?」
 は周助の隣に座っている由美子に視線を向け、黒い瞳を瞬いた。
「たくさん歩かなければいいのでしょう?」
 由美子は周助に向けて訊く。
「悪化しない程度ならね」
「よかったわね、ちゃん。見学できるわよ」
「えっ?」
 由美子はにウインクした。
「行き先は青春学園よ」
 は驚いたあと、嬉しそうに瞳を輝かせた。
「ありがとう、由美子お姉ちゃん」
 はめられた、と周助思ったけれど、がそれは嬉しそうに笑って喜んでいるから、ダメとは言えなかった。
 それに本音を言えば、が応援に来てくれるのは嬉しい。
「周ちゃん、タオルとスポーツドリンク差し入れするね」
「わかった。待ってるよ」
「周ちゃん大好き」
 は許しが出たのが嬉しくて、顔いっぱいに笑みを浮かべて周助に抱きついた。
 周助に甘えると、それに微苦笑しつつ嬉しそうでもある弟に由美子はくすっと楽しげに微笑んで、リビングからそっと出て行った。




END



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