桜吹雪




 空は青く、ほとんど雲がない。春空らしい穏やかに晴れ渡る空だ。暖かな陽射しは地上へ柔らかく降り注ぎ、心地よい眠気に誘われる。咲き誇る春花が空の青さと相まってより美しく見える、花見日和の天気と言える。


 春の麗かな午後の昼下がり。
 お互いに放課後の部活がなく、早くに下校をした不二とは、帰るには早いので寄り道をすることにした。この時刻――午後二時を回ったばかりで、日暮れまでは充分に時間がある。せっかくのよい天気なのだから、遊んで帰らなくてはもったいない。不二の所属する男子テニス部はほぼ毎日、週末を含めて練習が多いので、今日のように一緒に遊んで帰れる日というのはあまりないのだ。

 彼女のリクエストを叶えて着いたのは、大きな桜の樹がある山上公園。山上と名がついてはいるが丘程の高さに位置した公園で、有名なところではない。遊歩道が整備され、四季を通じて花が咲く樹木が植えられている、素朴なところだ。有名な桜の名所での花見もいいと思うけれど、こうした公園のほうが賑やかな場所よりゆっくり花見を楽しめる。
 桜の樹まで行く間に擦れ違ったのは、ジョギングをしている人や散歩をしているほんの数人だった。
 公園の奥、隅にひっそり花をつけている桜の近くに、花見をしている人影はない。
 一昨日の夜に降った雨で散った桜の花びらが地面にピンク色の絨毯を作っている。けれど、枝にはまだたくさんの花が咲いており、花見をするに充分な見ごたえだった。
「よかった、まだ咲いていたね」
 桜から隣の彼女――手を繋いでいる恋人に視線を滑らせ、不二はにっこり微笑む。せっかく来たのに散っていたのでは悲しいが、こうしてまだたくさんの花が咲いているのは、不二としても嬉しい。
「人がいないし、二人占めだね」
 が小首を傾げて、嬉しそうに笑う。そんな彼女に不二は色素の薄い瞳を細め、微笑みを深めた。
「周ちゃん、もっと近くに行こ?」
「そうだね」
 不二は応じ、二人は桜の近くまで歩を進めた。
 不意に強い風が吹き、視界が桜色に染まる。数百もの花弁が一斉に散り始め、視界を染めているのだと気がつく。遠くから見たらそれはきれいな光景だっただろう。だがしかし、間近で――眼前に桜の花弁が大挙して押し寄せてくると、桜の花弁に襲われている気分だ。
 時間にして三分程で桜吹雪はおさまった。
「すごかったね」
 その言葉に「ああ」と頷く不二に、は、でも、と嬉しそうに笑う。
「きれいだったね。もっと見たい」
 彼女が本心から言っているのがわかるので、不二は微かな苦笑を秀麗な顔に浮かべた。
「風ばかり吹くと、花が早く散ってしまうよ」
「だって散ってこないと捕まえられないもん」
「………そうだね」
 なんだかものすごくらしいな、と不二は胸中で呟き、繋いでいる彼女の華奢な手を離す。彼女が何も言わずとも、これからしたいだろうことが不二にはよくわかる。
「周ちゃんの分も頑張ってとるね!」
 は鞄を地面に置き、胸の前に両手で小さく拳を握って宣言し、駈けて行く。不二は彼女の後ろ姿を微笑みと苦笑の入り混じった表情で見送った。
 不二の視線の先で、はあっちにいったりこっちにいったり、ちょこまかと走り回っている。例えるなら、散歩に出た子犬が楽しくてはしゃいでいる、といったところか。
 無邪気な彼女が愛しくて、とても可愛い。見ているだけで幸せな気持ちになる。
「……せっかくだし…」
 不二は一人ごちて、テニスバッグから愛用のカメラを取り出した。心のシャッターを切って彼女の姿を心に残すのもいいけれど、フィルムに――写真としても残したいと思ったからだ。それとは別に、あとでに見せたら、驚いたり、むくれたり、拗ねたりといった表情を見られるだろうな、なんてちょっとした悪戯心がないとは言わない。
 ファインダーの中に可愛い彼女の姿を捉え、何度もシャッターを切る。
 は桜を見上げて花びらが落下するところへ走っていくが、ひらり、はらりと舞うように落ちてくる花びらを捕まえるのは容易なことではない。捕まえたと思ったら、手をすり抜けていってしまう。
「フフッ、頑張ってるなあ」
 てこずっているけれど、楽しそうにはしゃいでいるに思わず笑みが零れる。こういう時、彼女は大人になっても無邪気なままなんだろうな、なんて思う。
 が小さくジャンプした瞬間にシャッターを切った時、また不意に風が吹いた。先程のそれより強い。
 花びらが一斉に散り、青空へ吸い込まれるように舞い上がる。
 その風がおさまると、が笑顔でこちらへ走ってきた。
「周ちゃん!」
 弾けるような笑顔に、無事に桜の花びらを捕まえることができたのだと悟る。
「取れたんだ?」
「うんっ」
 見て、というように飛ばないようにそっと開かれた掌に、桜色の花びらが二枚のっている。
「周ちゃんのと私の分。ね?」
 不二はクスッと笑って。
「ありがとう。 けど、、君の髪にもついてるよ」
「えっ?」
「花びらじゃなくて、花がまるごとひとつ」
「ほんと?取って」
「うーん、取ちゃうのはちょっともったいないなあ。髪飾りみたいで可愛いし。あ、でも……」
 不二は長い指での前髪に乗った桜花を取り、彼女の左側の耳上に移動させた。
「こっちのほうが可愛いな、うん」
 瞬間、頬を淡く染めたに不二は満足そうににっこり微笑んだ。
「は、花びらどうやって持って帰ったらいいかな」
 話を逸らす彼女に不二はクスッと笑って、「ちょっと待って」とテニスバッグのポケットを探り、目当ての物を取り出した。
「これに入れるのはどうかな」
 そう言って不二が見せたのは、空になったフィルムケースだった。
「うん、ありがとう」
 不二はが花びらを入れやすいようにフィルムケースのフタを開け、差し出す。が花びらを入れるのを待ってフタをし、ケースを彼女に渡した。
「家に帰ったら小さい瓶に入れ替えて持っていくね」
「いや、僕の分もが持っていて。そのほうが僕は嬉しいな」
「そうなの?」
「花びらも一枚より二枚のほうが寂しくないと思うしね」
「じゃあそうする」
 頷いて、は花びらを入れたフィルムケースをバッグの中へしまった。
「それにしても、楽しそうだったね、
「楽しかった。けど、ちょっと喉が渇いちゃった」
 不二はクスクス笑って、の右手を左手で取ると手を繋いだ。
「何か飲んで帰ろうか」
「桜入りのお茶が飲めるお店とかあるかな?」
「ああ、それなら一昨日姉さんが――」
 それから二人は久しぶりの放課後デートを満喫したのだった。



 そして、デートから数日後、昼休みの教室。
 フフッと楽しそうに微笑みながら、桜の妖精がいたんだよ、と不二に写真を見せられ、呆れ顔で溜息をつく手塚の姿があった。




END



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