Partial lunar eclipse




 今日はよい天気で、朝は青空が広がっていた。
 だから、今夜は観られると夜になるのを心待ちにしていた。
 それなのに、夕方になったら空が雲に覆われてしまい、今は空が見えない状態だ。
 曇り空を見上げながら、はむぅっと僅かに唇を尖らせる。
 この前の金環日食があまり観られなかったから、今夜の部分月食を楽しみにしていたのに。
 手を繋いで歩いている左隣の彼女が空を見上げているのに気がついた周助は言った。
、上を見て歩くと危ないよ」
 全く同じセリフを五分ほど前にも周助は口にしたばかりで、これは二度目だ。
「だって周ちゃん」
 わかってるけど気になるんだもん、と顔に書いて、は拗ねた顔をする。そんな彼女が可愛くて、周助の顔に小さな笑みが浮かぶ。
 周助はと手を繋いでいない右手で彼女の頭を宥めるように、よしよしと撫でた。
「金環日食の時みたいに観られるかもしれないよ」
 先日の朝にあった金環日食は、曇り空だったけれど、金環になるその瞬間に奇跡のように雲が晴れて観ることができたのだ。晴天ではないのが残念だったけれど、神秘的なそれはとても綺麗だった。
 今はあいにくの曇り空で月影が雲に透けて見えるだけだが、食の最大となる時間までに晴れるかもしれない。
「…だといいな」
「うん」



 二人は両家の家の前で一度別れ、はカバンをおいて制服から空色のワンピースに着替えて不二家へ向かった。
 欠け始めとなる時間まで、あと数分。
 依然として雲が晴れそうには見えないことにやきもきしつつ、不二家のインターフォンを押す。
 がすぐに来るだろうことは予想できていたらしく、周助がすぐに出迎えてくれた。
 は周助に続いて、二階にある彼の部屋へ入った。
、ちょっと待ってて」
 言いながら、周助は学習机に向かうとパソコンを起動させた。
「何か調べるの?」
 は周助の後ろからパソコン画面を見ながら訊いた。
「天文台が部分月食の中継をしてるんだ。だからもし観えなくても、リアルタイムで見られるからつけておこうと思ってさ」
「きゃー」
 の顔は見えないけれど、嬉しそうに笑っている顔が想像できる。周助は可愛いなあと色素の薄い瞳を細めた。
 そして少しして、周助は目当てのライブ配信を見つけた。
「札幌晴れてていいなあ」
 画面に映っている月はくっきりとしていて、闇の中で輝いている。
 東京と同じで雲っていて見えないところもあるようだけれど、自分の目で月食が観測できる地域は羨ましいなあと思う。
「じゃあ僕たちも観測しようか」
「うん」
 現在の時刻は18時57分。欠け始めるまであと2分だ。
 雲っていた空を見上げた時間から数分では空に変化はないかもしれないけれど、少しの期待を胸にベランダに出た。
 東南の空へ目を向けると、雲を透かして月が見えた。
「…わかんないね」
 しゅんとしょげるの華奢な体を周助はちょっと抱き寄せた。
「中継を見ながら、また見てみようよ。ね」
 食の最大となるのは20時過ぎ。食が終わるのは21時過ぎ。
 あと二時間の間に雲が晴れるかもしれない。
 ベランダから部屋に入ってパソコンを見ると、月食の様子が映し出されていた。
、座りなよ」
「えっ、でも周ちゃんは?」
 周助の部屋には椅子がひとつしかない。だからが座ってしまうと、周助は立っているか、フローリングに座るか、ベッドに腰掛けるかになってしまう。
「周ちゃんのお部屋だし、周ちゃんが椅子に座って」
「じゃあこうしよう」
 にっこり微笑む周助の言っていることがわからず、は首を傾げた。
 周助は椅子に座るとの腰をさらうようにして、自分の足の上に彼女を座らせてしまう。
「しゅ、周ちゃん!?」
「これなら二人とも座って見られるよ」
 ね、と周助はにっこり愉しそうに微笑む。
「や、あの、えっと、そ、そうっ私重いからっ」
「軽いよ。だからこのままで大丈夫だね」
「や、やだ、おりる!絶対重いもん!」
 が叫ぶように言った時、部屋のドアがノックされた。
「はい、どうぞ」
 周助が答えるとドアが開き、由美子が顔を覗かせた。
 由美子は瞳を丸くして二人を見、ついで相変わらずねぇと顔に書いて形のよい唇を開いた。
「周助、ちゃん、御飯よ」
「うん、今行くよ」
「ゆ、由美子お姉ちゃん、あのねこれはっ」
 由美子にいつも通りの笑顔で応じる周助と顔を真っ赤に染めて慌てふためくは実に対照的だ。
「大丈夫よ、わかってるから」
 由美子はに軽くウインクしてドアを閉めた。
、下に行こうか」
 周助の腕が緩んだので、は素早く彼の足からおりた。



 夕食後のティータイムはあとで、と断り、は周助と庭へ出た。
 先程より雲は薄くなったようだが、なんとなく月が欠けているかもしれないと思う程度で、はっきり言って全然観えない。
 東南の空を見上げてむうっとしているに周助は苦笑し、彼女の華奢な肩を指先で軽く叩いた。
「部屋で食べられるようにしてもらって、中継を見よう」
「あ、そっか」
「先に戻ってていいよ」
 周助が紅茶とパイを持ってきてくれるという意味なのがわかり、は笑顔で頷いた。
「うん。ありがとう周ちゃん」
 周助の言葉に甘えて部屋へ戻ったは、パソコン画面を覗いた。
「わあっ、すごーい。いっぱい欠けてる」
 そういえば今は何時だろうかとパソコンの時計を確認した。
「えっと…食の最大は20時3分だから、…あと16分」
 そわそわわくわくして画面に見入っていると、部屋のドアが開いた。
「お待たせ」
「ううん。ありがとう周ちゃん」
 周助は持ってきたトレイを学習机の上に置いた。
「へえ、もうこんなに欠けてきてるんだね」
「あと16…15分で最大になる時間だよ」
 にこにこと嬉しそうに笑うに周助は柔らかな笑みを浮かべて頷く。
「あ、ズームされたよ、
 は周助からパソコンへ視線を滑らせた。
「ほんとだ、嬉しい」
「クスッ、そうだね。 、座ったら?」
「周ちゃ――う、うん、じゃあ座らせてもらう」
 危ない。
 うっかり周ちゃんはどうするの?なんて言ったらさっきと同じことになってしまうところだった。
 考えすぎかなと思ったけれど、「残念」と小さな声が聞こえた。
「あ、あの、周ちゃん。私、床でいいから周ちゃんが座って」
「それは駄目。 裕太の部屋から椅子を持ってくるからいいよ」
 先に食べてていいよ、と周助は言って出て行く。
「……悪いことしちゃったかな」
 周助の足の上に座るなんて恥ずかしいから嫌と言ったけれど、心底嫌なわけじゃない。
 ほどなくして椅子を持って戻ってきた周助は元気がないに首を傾げた。
、どうしたの?」
 の右隣に椅子を並べてそれに座り、周助は顔を覗き込みながら訊いた。
「悪いことしちゃったなって思ったの」
は色々考えすぎるところがあるからなあ。何も悪いことなんてないから、落ち込まなくていいんだよ」
 周助はの額にかかる前髪を長い指で梳く様に上げ、彼女の額に軽くキスをした。
 びっくりして顔を上げたは、白い頬をほんのり赤く染めていた。
「フフッ、元気のでるおまじない。効いた?」
「う…ん」
 ぎこちなく頷いて、恥ずかしさを誤魔化すように周助から視線を逸らした。
「はい、君の分」
「あ、ありがとう。……苺多いよ?」
 周助が寄せてくれた皿を見、は黒い瞳を瞬いた。
 デザートはストロベリーパイよ、と由美子から聞いては楽しみにしていた。
 そのパイの横に苺が三粒添えられているのだが、周助の皿には苺はのっていない。
「姉さんがサービスって」
「嬉しい」
 は頬を緩めて無邪気に笑う。
「でも周ちゃんのはないのね。 はい周ちゃんにも」
 はフォークに苺を一粒のせて、それを周助の皿に移した。
「ありがとう」
 食後のティータイムをしつつ、月食の中継を観ていると、食が最大となる時間がやってきた。
「ちゃんと観られてたら、外暗くなってたかな?」
 画面を見ながらが言った。
「今夜は満月だしそうかもね」
「まだ晴れないかなあ」
 はよほど直接観たいらしい。彼女の顔には大きく不満と書いてある。
「ちょっと観てくる」
 言うが早いか立ち上がり、は部屋のベランダに出た。
 夕飯の前に観た時より雲は薄くなっていたが、月に紗がかかっていることには変わらずよくは見えない。
「どう?」
 部屋の中から問うてくる周助には首を横に振った。
「さっきよりは雲が薄くなってるけど、見えない」
 部屋に入りながら答えて、は窓を閉めて再び椅子に座った。
「早く晴れないかなー」
 ね?と首を傾げては周助に同意を求める。
「そうだね」
 君の嬉しそうに笑った顔が見たいしね、と周助は胸の内で呟いた。
 どんな顔のでも可愛いけれど、やっぱり笑っている顔が一番可愛いと周助は思う。
「お月様が見られるまで周ちゃんちにいようかな。 いい?」
 じっとお願いする視線で言われて、周助はクスッと笑って頷いた。
「いいよ。ついでに泊まっていく?」
「うんっ」
 それから食の欠け終わる21時7分まで、中継を観ながら時々ベランダに出ては夜空を見上げることを数回繰り返した。
 けれど、月食が終わる時間まで雲が晴れることはなく、満月は雲の紗に覆われたままだった。
 満月が見られるまで起きていると言っていただが、お風呂に入ってほっとしたのか、周助を待っている間に彼のベッドに寄りかかり眠ってしまっていた。
「やっぱり。こうなると思ってたんだよね」
 起こすのは可哀相だし、かと言ってあまり動かすと起こしてしまうかもしれない。そう考えた周助は自分のベッドにを寝かせた。今夜は自分が客間で寝ればいい。
 部屋のカーテンが開けたままだったので閉めるために窓際へ行くと、明るいことに気がついた。
 ベランダに出て夜空を見上げると、美しい満月が煌いていた。
 周助は月からへ視線を滑らせて、部屋の中に戻ると愛用しているカメラを手にし、再びベランダへ出た。


 翌朝、が目を覚ますと、綺麗な月の写真を周助から手渡された。




END



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