Heart 「えっ、嘘…」 オーブンを覗き込んだ黒い瞳が驚愕に染まった。 明日はバレンタインで、付き合っている彼にバレンタインチョコを贈りたくて、焼き始めたのは15分程前のこと。生地を作り、型に流して、温めておいたオーブンに入れてあとは焼きあがるのを待つだけだった。 それなのに、覗いたオーブンの中でショコラが無残な姿になっているではないか。 ハートの形に焼きあがるはずが、ハートのセルクルから底代わりにしている耐熱皿に生地が溢れてしまっている。 「やだ、なんで…」 泣き出しそうになりながら急いで取り出したショコラがどうにかならないものかと思ったが、ほとんど焼きあがっているため、どうにもできない。 幸いにして材料はまだあるからもう一度焼くことはできる。けれど、外したセルクルをテーブルに広げたオーブンシートに置いて四方八方から調べてみると、1ミリもないごくごく僅かだが隙間が生じていたから、ハートの形で焼くのは無理だ。 好き。 それを形にしたかったのに諦めなくてはいけないのが悔しくて泣きたいけど、彼に渡せないのはいやだ。 「おはよ…って、暗い顔ね。どうしたの?」 が3年6組の教室に入ると、友人のが問いかけてきた。 「まさかとは思うけど、不二君が以外からチョコを受け取ったのを見た、とか?」 は黒い瞳を数回瞬いて、ようやく言われたことを理解した。 「違う違うっ」 首を横に振って否定する。 「そうよね、不二君に限ってそれはないか。まあそんなことがあったら、が許しても私が容赦しないけど」 「何の話?」 突然割って入ってきた声にとは驚いて、二人は声がしたほうへ反射的に視線を向けた。 「英二くん」 「おはよ、ちゃん。ちゃんもおはよ。 で、二人とも朝から顔つきあわせてどったの?」 首を傾げる菊丸に答えたのはだった。 「が暗い顔をしてたから、どうしたのって話してたところなの」 「ええっ?!ちゃん具合悪いの? それとも不二に苛められた?」 「えっ――」 違う、と言おうとしただが、それが声になるより早く、別の声がした。 「英二」 抗議を含んだ声色に菊丸はにゃははと笑って誤魔化した。 「冗談だよ、冗談。ちゃんが暗いっていうから、励まそうと思ってさ」 「それならもう少しマシな冗談を言って欲しいね」 不二はやれやれと顔に書き、軽いため息をつく。 そして不二は色素の薄い瞳を心配そうに細め、の顔を見つめた。 確かに菊丸の言うように、いつもより元気がない。彼女は日頃から元気いっぱいという人ではないが、朗らかな明るさは持っている。 「おはよう、」 「あ、おはよう」 不二は毎朝がふわりとした笑顔で「おはよう」と挨拶してくれるのが好きだが、その笑顔が今は見られなかった。 「どうしたの?」 やはり気になって不二が聞くと、は泣きそうな顔になって少し俯いた。 彼女の暗さに自分が関係しているのを裏付けるような仕草に、不二は心配になった。 「えっ、ホントに不二が原因だ――」 「英二くんっ!」 は慌てた顔で菊丸の口元を手で塞ぎ、「ごめんね!」と顔の前で空いている左手で拝の形を作り、菊丸の腕を引いて不二との傍から退散した。 「…ちょっと寒いと思うけど、気分転換に屋上でも行こうか?」 の手を迷うことなく取って手を繋ぐ。きゅっと僅かに手を握り返してきた彼女に不二は安堵した。 二人はコートを着たまま、はカバンを、不二はテニスバッグを肩にかけたままで教室を出た。 屋上には誰もいなかった。 まだ二月も半ばであるし、なにより始業時間まで十分もないのだから、誰もいない確率のほうが高い。 コートを着ているとはいえ風は冷たく、気温は低い。 不二はの背中を給水塔の壁側にし、彼女の向いに自分が立った。これで少しは風除けになるだろう。 「あのね…」 「うん?」 「実は失敗しちゃったの」 は不二を見上げて泣きそうな顔をした。 「バレンタインのチョコレート」 「それで暗い顔をしていたんだね」 コクンと頷いて紙袋からベージュの箱を取り出したに、不二は色素の薄い瞳を驚きに瞠った。 彼女は失敗した、と言った。だからてっきりないのだろうかと思って、かなりがっかりしたのだが、早とちりのようだった。 「でも、周助くんにあげたかったから作りなおして…でも、…」 きゅっ、と唇を引き締めるに不二は優しい微笑みを浮かべ、箱を持つ彼女の華奢な手を包むようにそっと触れた。 「僕のために作ってくれたんだよね。すごく嬉しいよ。 だから、君の気持ちごと受け取らせて欲しいな」 「周助くん……うん、ありがとう」 不二は小さくクスッと微笑む。 「ありがとうは僕のほうだよ。ありがとう、」 不二はから赤いリボンがかけられた箱を受け取った。 「開けてみていいかな?」 「えっ?」 「ダメ?」 「ダメっていうか…周助くんのがっかりした顔を見たくないから、その…」 「絶対がっかりしないから開けてみていいかな」 にっこり微笑んで断言する不二にはおずおずと頷いた。 了解を得た不二は嬉々としてリボンを解き、箱を開けた。 薄いパラフィン紙を捲ると、黒い――チョコレートスイーツが6つ入っていた。 マフィン型のスイーツは整然と並べられ、店に売られているものと変わらない出来栄えだと思う。 これのどこが失敗なのかな? それとも形じゃなくて味? はて?と内心首を傾げた不二だが、不意に気がついた。 は自分を過小評価するきらいがある。ゆえに彼女の言う失敗は他人から見ると失敗ではないのでは、と思うことがあるのだ。 だいたい彼女の性格からして、味見しないなんてことはありえない。 だからもしかして、今回もそのパターンなのではないだろうか。 ひとつづつ丁寧にラッピングされたショコラ――だと思う――を不二は手に取った。 「あっ」 ラッピングを解いて食べようとすると、の声が上がった。だが不二は「いただきます」と強引に遮った。 一口食べて、不二はにっこり幸せそうに笑う。 「店で売っているのより遙かに美味しいよ」 「そ、そんな大げさだわ」 でも嬉しい。よかった。 そう言ってはようやく本日初めての笑顔を見せてくれた。 ちょっと照れたように頬を赤く染めているのがとても可愛らしくて、不二は頬を緩める。 けれど、失敗した、というのが少し気になる。 そう思った不二の心の声が聞こえたかのようなタイミングで、が口を開いた。 「だけど本当は大きなハートの形にしたかったの。でもちょっと出来なくて…」 「それが失敗?」 「うん。ハートにしたかったのに」 「じゃあ、来年楽しみにしているよ」 「えっ?」 「来年は君からチョコレートを貰えないのかな?」 「そんな!」 「よかった。じゃあ約束というか、予約させてね」 「予約?」 「そう。ずっとなくならない予約」 不二はの柔らかな白い頬に予約のキスをした。 屋上に予鈴のチャイムが響く。 「あっ、授業が始まっちゃう」 「うん。けど、急いでも遅刻だね」 不二はフフッと楽しそうに笑って提案した。 「二人で遅刻してみんなを驚かせようか?」 「えっ?!」 驚きに黒い瞳を瞠るに不二はクスクス笑って、 「サボリのほうがいいかな?」 「も、もうっ、周助くんっ!冗談ばっかり」 「ごめんごめん。けど、君ともっと二人きりでいたいっていうのは、嘘じゃないよ」 の頬が赤く染まっていく。 「好きだよ、」 「わ、私も…」 「私も?」 「……好き」 消え入るような小さな声で言ったに不二は愛しそうに切れ長の瞳を細めて、彼女の可憐な唇と自分のそれとの距離を縮めた。 END BACK |