好きと言えないから「もう少し」と言う




「不二くん!?」
 驚いた彼女の声は、いまでもはっきり覚えている。
 去年、姉さんが本を出版した。その発売記念のサイン会を手伝っている時だった。
 やや控えめで穏やかなクラスメイトが、驚きに黒い瞳を瞠っている。
「やあ、さん。こんなところで会うなんて、びっくりしたよ」
 私も、とさんがくすっと笑う。
「不二くん占いに興味あるのね」
「なくはないけど、今日はね、手伝ってるんだ」
「手伝いってサイン会の?どうして不二くんが?」
 さんは黒い瞳を瞬いて、不思議そうな顔で首を傾げた。
「本を出したのは姉さんなんだ」
「えっ…あ、そういえば苗字が一緒。お姉さんだったのね」
「おかげで遠慮なくこき使われてるよ」
「ふふっ、不二くんたら。優しいね」
 ゆるく首を傾けて、さんが柔らかく微笑む。
「そうかな?」
「うん。お姉さんが羨ましい」
「え?」
「お手伝い頑張ってね」
 言葉の意味を知りたくて、引き留めるために彼女を呼ぼうとしたけど、出版社の人に声をかけられできなかった。
 それに、ありがとうを言いそびれてしまった。
 彼女のメールアドレスも電話番号もLineも、何も知らない。
 時間差になってしまうけど、明日学校で伝えよう。
 そう考えながら、ダンボールを開封して取り出した本を、姉さんがサインをしているテーブルの端に積み重ねた。




 晴れ渡った真っ青な空が広がっている。
 今日は東京都地区予選があり、試合会場では歓声が響いていた。
 青学は第1シードで、初戦の対戦相手は玉林中だ。
 試合を始める前の整列では気がつかなったけど、準決勝進出が決まりコートを引き上げる時に、さんがいることに気がついた。
 声をかけようとしたけど、それより一瞬早く彼女は踵を返して行ってしまった。
 応援に来てくれていたのだろうか。
 もう帰ってしまうのだろうか。
 準決勝は応援してくれないのかなと寂しく思って、不意に自覚した。

 ――そうか。僕はさんが好きなんだ

 わかると、腑に落ちることがたくさんあった。
 手塚のことをとやかく言えないなと苦笑すると、心の声が聞こえたかのようなタイミングで手塚に呼ばれた。
 柿の木中の試合を視察に行くという手塚に付き合い、別のコートに移動した。
 彼女のことは気になるけど、今は試合だと気持ちを切り替える。


 そして、準決勝の水ノ淵中との試合に青学は勝利し、決勝戦へ進んだ。
 決勝戦が行われるコートには、試合前から人が集まっていた。
 その人波の中、長い黒髪をハーフアップにしている人――さんを見つけた。
 集合までのわずかな時間を使い、彼女との距離を縮める。
 声をかけるなら今しかない。
 さっきのことを考えると、決勝が終わったら彼女は帰ってしまうだろうから。
さん!」
 呼ぶと、びっくりした顔で彼女は僕を見た。
「不二くん」
「ごめん、驚かせて。準々決勝のあとに君を見つけたんだけど、声をかけそびれてしまったから」
「あ…ごめんなさい。試合の邪魔になるといけないから…」
 さんは申し訳なさそうに顔を曇らせた。
「そんなことはないよ。応援に来てくれて嬉しいよ。ありがとう」
 よかった、とほっとした顔でさんが微笑んだ。
 心のシャッターを切って、彼女の笑顔を胸に刻む。
 まだ今は、好きと言えない。
 だから――
「決勝戦が終わっても、帰らないで待っていてくれるかな?」
「え…」
「もう少し君と話がしたいんだ。ダメかな?」
「ダ、ダメじゃない」
「よかった。じゃあまたあとで」
「う、うん。 あ、不二くん」
 呼び止められて振り向くと、さんは胸の前で手をひとつに握りしめていた。
「決勝戦がんばって」
「ありがとう」
 力が湧いてくる声援に背中を押されるように、集合を始めている仲間の元へ急いだ。




 END


 Operaglasses(千春)様
 主催企画【好きと言えないから、……と言う】 「もう少し」という(不二) 寄稿作品


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