a special day
テニスクラブのバイトが終わると、すでに日が暮れていた。
9月下旬ともなると、秋の気配も濃くなってきている。
自宅近くの公園のイチョウが黄色く色付いているのを、歩きながら見上げた。
微風に葉が揺れている様が、外灯に照らし出されている。
ふと足を止めそうになったが、手に持っている大事な物の存在に心を引き戻された僕は、歩調を早めて彼女が待つ自宅へ急いだ。
約束を取り付けたのは、昨日の夜。
は仕事があるのを分かっていたけれど、どうしても今日逢いたい、と。
「ちょっと遅くなったな」
腕時計の針は9時を回っていた。
バイトが終わるのは19時で、すぐに帰宅すれば20時前には自宅についている。
けれど、今日はとても大事な約束があるから、と早めにバイトを上がらせてもらえるように、オーナーに言ってあった。
ドアノブに手をかけると、カチャッと回った。
おかしいな。
が鍵をかけ忘れるなんて
訝し気に思いながら、僕は扉を開けて家の中へ入った。
玄関にはローヒールの黒いパンプスが一足あった。
ハイヒールが苦手な
は、こういう靴を好んで履いている。
そして、玄関に残る香水のラストノート。
一昨年の夏に、
と神戸へ旅行した時に彼女が作った香水の匂い。
その香水を
が気に入っているのを僕は知っている。
もともと香水が苦手な彼女だから、当時は珍しいと思った。
けれど、この香水は
の優しいけれど芯が強い性格と、彼女の持つ雰囲気ととても合っていて。
花のような香りは彼女が好きな匂いだし、クセのない香りだから、気に入ったのかもしれない。
それに、僕も好きな香りだから。
もっとも僕が一番好きなのは、何もつけていない
自身の香りだけど。
そう言ったら彼女は恥ずかしさに顔を真っ赤に染めて拗ねてしまうことが容易に想像できるから、口には出さない。
でも、そんな
がとても大切で、誰よりも愛しい。
扉を閉めて、鍵とチェーンをかけた。
だが、ドアが閉まった音が聞こえているはずなのに、
は姿を見せない。
明かりがついているから、寝ている訳ではないはず。
「
?」
彼女がいる部屋を覗いて声をかけた。
すると、驚いた表情が僕に向けられた。
「周助。いつ帰ってきたの?」
「たった今。 どうしたの?君が僕に気付かないなんて、珍しいね」
僕が扉を開くと、
はすぐに迎えにでてくれるのに。
そう言えば、鍵も締まってなかったな。
「何かあった?」
確信がある訳じゃないけど、明らかにいつもと様子が違う。
心配になって訊ねると、
は視線を自分の手元へ向けた。
彼女は白く細い手に、何かを持っていた。
近付いて覗き込むと、それは数枚の写真だった。
「その写真は?」
僕は
の隣に座って、改めて写真を見た。
その写真には、僕たちが付き合い始めて間もない頃、
に紹介された彼女の親友が映っていた。
そしてその人の隣には、一人の男性が映っている。
写真の中の二人は真っ白な衣装を纏っていて、それが結婚式の写真であることは、すぐに分かった。
「今日ね、職場に届いたの。 めぐみ、すごく幸せそう」
の言う通り、写真に映る二人は、とても幸せそうに笑っている。
でも、彼女は先月の結婚式に出席したはずなのに、まるでその場にいなかったかのように呟いた。
そして、
の黒曜石のような黒い瞳が一瞬翳ったのを、僕は見逃さなかった。
タイミングを見て言おうと思っていたけど一一一。
「ねえ、
。話が・・・」
「あ、周助。夕飯まだでしょ?温めるわね」
僕の言葉を遮ってそう言うと、
は立ち上がろうとした。
細い腕を掴んで強引にそれを阻むと、
は訝し気に僕を見た。
「周助?」
「夕飯は後でいい。それより、今日は君に大切な話があるんだ」
彼女の瞳をじっと見つめてそう言うと、
は大人しく座ってくれた。
「大切な話?」
首を傾けて、不思議そうに
は僕を見た。
「今日は何の日か覚えてる?」
「え?今日?」
「うん。四年前は雨が降っていたね」
「・・四年前・・・・雨・・・・・・あっ」
考え込んでいた
が、驚いた表情で僕を見つめる。
「私たちが付き合い始めた日?」
「よかった。覚えててくれて」
意地悪く言うと、
は困ったように笑って。
「だから、絶対に逢いたいって言ったのね」
「ああ。それに一一一」
「それに?」
そう言いながら、
は首を傾けた。
またそんな無防備な顏して。
その顔は反則だよ、
。
そんな事を頭の片隅に思いながら、僕は彼女に分からないように深呼吸した。
「
。結婚しよう」
「…え?いま…なんて言った…の?」
黒い瞳が僕を捕えて、微かに揺れている。
「結婚しよう、
。ずっと君を守っていきたいんだ」
「本気…なの?」
「もちろん本気だよ。
は僕が冗談でプロポーズすると思ってるの?」
「思ってない!思ってないよ…。でも…」
「でも、なに?」
「私は周助より年上だし、いつか私から離れていくんじゃないかって不安だったから」
「だから一一一夢かと思っ・・・っ」
黒い瞳から、透明な雫が一筋、桜色の頬を落ちた。
「夢じゃないよ。式は僕が卒業したらになってしまうけど、君の誕生日がある4月に式を挙げたいって思ってる」
そう告げると、黒い瞳から涙が溢れだした。
「そんなに泣かないで・・・」
こぼれ落ちる涙を唇で拭って、華奢な身体を抱きしめた。
すると、腕の中で
は小さく首を振った。
「…ム…リよ。だって、嬉しいんだもの」
そう言いながら、腕の中で顔を上げて、
は涙で濡れた瞳で微笑んだ。
その笑顔は、今まで見たどんな笑顔より輝いて見えた。
「それはYESと受け取っていいの?」
そう訊くと、彼女はコクンと頷いて。
「あなたを愛してるから、ずっと傍に・・・」
その答えに、僕は笑顔を返して、手に持っている黒い小さな箱を開けた。
「
一一一」
彼女の名前を呼んで、左手をそっと取った。
そして、薬指に光り輝く指輪を嵌めた。
「神様に誓う前に、今ここで
に誓うよ」
一一一君を永遠に愛することを誓う
全ての想いをこめて、桜色の唇にキスを落とした。
END
2004.05.21
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