鉛色の空から雨が落ちてくる。
 さあさあと降り出した雨が、ゆっくりとアスファルトに染みてゆく。
 窓越しに外を眺めていた は、形のいい眉を僅かに曇らせた。

「やっぱり降ってきた・・・」

 赤く色付いた唇から微かな溜息が零れる。
 今は梅雨だから雨の日が続くのは仕方ない。
 雨が降らなくても曇っていたりして、晴れの日よりも断然、雨か曇りの日の率が高い。
 天気は自然現象で人の手でどうこうできることではない。
 

「でも、明日だけは一一一」

 どうしても晴れて欲しい。
 とても、とても大切な日だから。

 ベージュのカーテンを引いて、視界を遮る。
 そして、視線をリビングの出窓へ向けた。
 胡桃色の瞳にクリスタルのフォトフレームが映る。
 飾ってあるのは364日前に撮った、一枚の写真。
 
「一年か・・・あっという間ね」

 淋しさを含んでいるような口調とは裏腹に、彼女の顔には笑みが浮かんでいる。
 彼と一緒に暮らしていて。
 同じ空気を吸って、同じ時間を共有できて。
 嬉しくないワケがない。
 幸せすぎて、夢みたいだと何度思ったことか。
 それを口に出すと、彼は決まって言う。


『夢じゃないよ。 ほら…ね?』


 優しく微笑んで、ぎゅっと抱きしめてくれて。
 甘くて蕩けるような熱いキスをくれる。


 不意にチャイムの音が耳に届いた。
  は嬉しそうに口元を弛めて、玄関へ向かった。
 ガチャっと鍵が回る音が響き、扉が開いた。

「ただいま、

 後ろ手で扉を閉め鍵をかけながら、周助が柔らかく微笑む。
 周助の手から鞄を受け取って、 は春の日だまりのような微笑みを返した。

「おかえりなさい。お仕事お疲れ様でした」

 少し背伸びをして、周助の頬におかえりなさいのキスを送る。
 すると彼はクスッと笑いながら、白い頬に手を添えて。
 柔らかな唇に優しいキスを落とした。

「体調はどう?無理してないよね?」

「平気よ。周助は心配性なんだから」

 色素の薄い瞳を細めて訊いてくる周助に、 は苦笑しながら答えた。
 気遣ってくれるのは嬉しいけれど、そんなに心配しなくてもいいのにと思う。
 そんな彼女の心情は、彼には手に取るようにわかる。

「君が無理をしない人ならいいけどね。
 なんでも一人で頑張ろうとするから、僕は心配なんだよ」

「ごめんなさい。気をつけるわ」

 痛い程、彼の想いが伝わってきた。
 本当に愛されているのね、と は改めて実感した。
 それに、思い返せば心配されても仕方ないことをよくしていると自分でも思う。
 だから周助の言い分はもっともだ。




Anniversary




 彼女の願いが叶って晴天となった翌日。
 仕事のある周助を見送って、 はキッチンで夜のために色々と下準備をしていた。
 今日は初めての結婚記念日。
 周助は仕事があるから昼間どこかに行くことはできないけれど、やっぱり人生の記念日は雨や曇りより晴れているのが一番いい。雨は恵みの雨ともいうけれど、今日だけは別だ。
 一年前の今日、永遠の愛を誓った。
 そして、五年前の今日一一一。
 
「・・・覚えてくれてるよね?」

 型に流したレアチーズケーキを冷蔵庫に入れて、 はひとりごちた。
 周助は男の人にしては珍しく、記念日というのをとても大切にしてくれている…と思う。
 彼女の知っている男性は周助だけなので比べようがない。
 けれど、友人たちの話を聴いていると、大切にしてくれていると思うのだ。
 だから、初めてデートした日を覚えてくれている彼なら、きっと覚えてくれている筈。

 しばらくして、玄関のチャイムが鳴った。
 この鳴らし方をするのは周助しかいない。
  は胡桃色の目を丸くして、カウンターキッチンから見えるリビングの時計へ視線を向けた。
 時計の針は、午後3時を僅かに回ったばかり。秒針が動いているから、止まっていたり故障しているわけではないだろう。
 
「もしかして、具合が悪くて…とか」

 呟いた自分の言葉にはっとして、 は慌てて玄関に走った。
 彼女の頭には、周助が昨日言ったコトなど吹き飛んでしまって残っていない。

「周助っ?」

 ドアノブを掴もうと腕を伸ばした瞬間。
 白い指先は空を切った。

?」

 扉を開けた周助は顔色の悪い妻を見て声を上げた。

「無理しちゃダメだって言っただろ」

「ごめ…なさ…」

 急に走ったせいか、気持ちが悪い。
 身体中から力が抜けていく気がする。

「謝らなくていいから」

 優しい声が耳に届いたと同時に、細い身体が抱き上げられた。
 素早く革靴を脱いで、周助はリビングのソファに を運んだ。
 周助の瞳に、ダイニングテーブルの上に飾られた瑞々しい花や、準備された食材が映る。

「・・・ が僕のためにって頑張ってくれるのは、すごく嬉しいよ。
 だけど、それで君が倒れてしまったら僕は一一一」

 秀麗な顔を曇らせる周助に、 は泣き出しそうに顔を歪めて。

「ごめんなさい。 でも、いつもより早いから具合悪いんじゃないかって…私」

 しゅんと項垂れる の柔らかな胡桃色の髪を指で梳いて。
 周助は の頭のてっぺんに軽くキスをした。

「そうかそれで・・・。怒ってごめん」

 謝罪の言葉を口にした周助に、 は緩く首を振って。
 俯かせていた顔を上げて、周助を見つめた。

「周助は悪くないの。私が慌ててたから…ご」
「謝らなくていいんだよ。君を守るために僕がいるんだから…ね」

「・・・私だって周助を守りたいわ」

 ごくごく小さな声の呟きは、しっかり周助の耳に届いていて。
 周助はクスッと小さく笑った。

「わかってるよ。だから、拗ねないで?」

 自分の膝の上に座らせた の身体を抱きしめて、耳元で囁く。
 白い頬を瞬時に赤く染めた愛しい人に色素の薄い瞳を細めて。

「君は笑っている顔がいちばん可愛いんだから」

 ね?

 そう言って微笑む周助に は赤く染まった頬を更に赤く染めて。
 それでも流されてばかりはイヤだから、腕の中から軽く睨んでみせた。
 
「・・・ズルイわ、周助」

 私があなたの笑顔に弱いってこと知ってるクセに。

 胸の内で呟くと、周助は口元を僅かに上げて。

「それはお互い様だよ、

「・・・いつまでたっても周助には叶わないわね」

「フフッ。 ところで、ずいぶん早くから準備してるんだね」

「だって周助が無理するなって言うから…」

 唇を尖らせる に周助は堪え切れないというように、声を上げて笑った。
 こういう可愛いところが溜らなく愛しくて、周助は に軽くキスをして。

「ありがとう。続きは僕がするから、君は休んでいて」

「え?でも、もう気分もよくなったから、平気よ。
 周助は仕事で疲れてるでしょう?あなたこそゆっくりしていて」

 気遣うように顔を覗きこんでくる妻に、周助は仕方ないなとばかりに溜息をついて。

「じゃあ、一緒に用意しよう。今日は僕たちの結婚記念日だからね。
 本当なら仕事を休んで僕が用意したかったんだよ?
 今日は結婚記念日ともうひとつの大切な記念日だから」

 その言葉にドキッとし、 は周助を見つめた。

「僕が覚えてないと思ってる?
 五年前の今日は僕たちが初めて逢った日、でしょ」

「周助…覚えて一一」

「忘れるわけないだろ。だから、結婚式に今日を選んだんだよ」

 初めて聴いた。
 結婚式は偶然同じ日になったのだとばかり思っていた。

 嬉しくて涙が出る。
 心の奥が震えて、言葉が上手くでてこない。

「しゅう…すけ」

 震える唇で愛しい人の名を呼んで。
  は周助の首に細い腕を回して抱きついた。

「ほら、泣かないで。お腹のコが心配するよ?」

 小さなこどもをあやすように、周助は の頭をぽんぽんと叩く。
 そして胡桃色の目元に唇を寄せて、唇で優しく涙を拭った。

「・・・うん」

 頷いて、 は涙で潤んだ瞳で微笑んだ。





 星の煌めきが空に見える夜。

 二人は幸せな結婚記念日を送った一一一。




 そして、周助の誕生日間近、
更なる幸せが二人の元に訪れて。

 大切な記念日が増えるのは、もう少し先のこと。

 



END


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