夢を見た。
 とても不思議な夢。

 大きな桜の樹の下に、誰かが立っている。
 近付くとその人影がこっちを向く。
 けれど、顔の輪郭がはっきりとしていないので、誰かは解らない。
 が、その人が呼ぶのだ。

ちゃん一一一』

 何度も、何度も。
 
 確かめたくて、その人に近付くとフッと姿が消える。
 そして は目が覚める。


 あなたは誰?
 どうして私を呼ぶの?


 繰り返す言葉に答える声はない一一一。






眠れない夜を数えて





 微かな雨音がする。
 布団に入るまでは降っていなかったので、おそらく夜中に降り始めたのだろう。
  はふうっと一息ついて、ベッドから身体を起こした。

「また‥‥あの夢だわ」

  が予定より早く留学を終えて日本へ帰国したのは、まだ寒さの残る二月の中頃。
 それから季節が春になって数週間が経つ。
 帰国してから、春雨が降る夜に必ず繰り返し見る夢は、今日で何回目だろう。
 一度見ただけなら、『不思議な夢』という括りで片付けられたかもしれない。
 夢の内容はいつも同じ。けれど、いつも違う所もある。
 彼女の名前を呼ぶ声の主は、夢の中で成長している。
 初めて夢を見た夜、人影は小さかった。でも、今では初めて見た時より倍以上に背が伸びていた。
 そして、初めはっきりしていなかった顔が、克明に見えるようになってきた。
 見えると言っても、表情ははっきり解らない。解るのは、男の人だということ。
 
「‥‥まさか…ね」

 夢で見た人は、彼に似ていた。
 けれど、そんなことがある訳ない。いや、夢だから自分に都合のいいようになっているのだろうか。
  は頭の片隅に浮かんだものを打ち消すように、緩く頭を振った。
 
 薄手の茶色いカーディガンを羽織って、 はキッチンへ向かった。
 夜明けはまだ遠い。だが、今日のように夢を見た日は、目を瞑っても再び眠りにつくことができない。
 さあさあと降る雨は、なぜかとても切なくて。
 今が春だということも、関係しているのかもしれなかった。
 彼と逢わなくなったのは一一一逢えなくなったのは、五年前の春だったから。
 
「あの場所……」

 呟いて、口にマグカップを運ぶ。淹れたばかりの温かいミルクティーが身体に心地よい。
 心を落ち着けるように、再び一口飲んだ。


 大きな桜の樹。あれには見覚えがある。
 黒真珠を思わせるような瞳をそっと細めて、 は記憶の糸を辿り始めた。
 先程見た夢は、今迄に見たそれより克明だった。
 見事な枝振りの桜、それからあれは一一一

「テニスコート?」

 確認するかのように声に出す。
 そうだ。桜の印象が強く残っていたが、近くにテニスコートが見えていた。
 しばし考えて、あの場所は実家の近くにあった場所だと思い出す。
 毎日のように彼と一緒に行った、坂の上にある懐かしい思い出の地。

 でも、予測が当たっているのなら、夢で自分の名前を呼ぶ人は、やはりあの人なのだろうか。
 ありえない、と。都合がよすぎる、と。そう思うのに。
 自分が知っているのは、まだ幼さの残る彼の姿。
 今の一一一高校二年生になっている姿の彼を、 は知らない。
 それなのに、それを真実だと思いたい気持ちが存在している。

 両手でマグカップを握りしめ、 は固唾を呑んだ。
 確認するのは、真実を知るのは、恐い。
 彼は覚えてくれているだろうか。
 何も告げずに留学した自分を責めないでいてくれるだろうか。
 優しい笑顔を向けてくれるだろうか。
 しばし逡巡した後、夢の場所へ行こうと、 は決意を固めた。




 意識も気持ちも不安定なまま、出勤することはできなかった。
 幸いなことに、急ぎの仕事がなかった。
  は出勤時間より少し前に、会社に電話をかけた。
 本来なら急に仕事を休むのは社会人として些かまずいことは解っている。
 急病ならば致し方ないが、明らかに私事だ。しかも、勤めてから数カ月の職場。
 けれど、どうしても、確かめたかった。確かめなくてはいけない気がした。
 ゆえに、有給という形で上司から休みの許可を得た。
 日々真面目に仕事をこなしていたためか、存外あっけなく休みの許可が出た。



「ここを左‥‥」

 誰に言うでもなく呟いて、十字路を左手に折れる。
 昨夜降っていた雨は、今朝上がった。
 アスファルトに残る水たまりを避けながら、緩い坂道を登った。
 昔見なれた、親しみ馴染んだ光景が、彼女の右手側に広がっている。

「‥‥‥え?」

 ふと桜に瞳を向けた は、思わず声を上げた。
 何度も夢で見た光景が、目の前にあった。
 満開の桜の樹の下に、人がいる。
 学ランを身に纏って、左肩にテニスバッグを掛けた人が。
 身体の奥深い場所で、どくんと鼓動が鳴っているような気がする。
 昔の彼と目の前の人の姿が重なる。
 瞳を逸らせずに人影を見つめていると、その人がこちらを向いた。
 
「一一一っ!?」

  の鼓動が跳ねた。
 手が、脚が震える。
 それ以上に、心が震える。
  の姿を捕えた人は、一瞬とても驚いた顔をして。
 ついで、秀麗な顔に笑みを浮かべた。
 そして脇目を振らずまっすぐに、 の元へ走ってくる。

ちゃん!どうしてココにいるの?」

 最後に聞いた声より幾分か低い声。
 記憶に残っている顔より、端正になった顔。
 穏やかな優しい瞳は、少しも変わっていない。
 
「あ…わた…し……」

 自分より高い位置にある顔を見上げて声を出す。
 が、喉の奥が絡まって言葉にならない。
 逢ったら一番に、言う言葉を決めていたのに。

「ごめん」

 戸惑う の耳に、苦笑混じりの声が届いた。
  が驚いて瞠目すると、周助は言葉を探すように首を傾げて。

「あなたに逢えて嬉しくて…つい、ね。
 ずっと逢いたいって思ってたから、初め幻じゃないかって思った。
 だけど、本物だって解ったら一一一」

 声をかけずにいられなかったんだ。


 そう言われて、驚きに の呼吸が止まる。
 彼は一一一周助は、なんて言った?
 逢えて嬉しい、と。ずっと逢いたかった、と。
 そう言った?

「‥‥夢の続きなの?」

「え?」

  の言葉に、周助は柳眉を顰めた。
 夢の続きとはなんなのか。なぜ彼女はいまにも泣き出しそうな顔をしているのか。
 口にしたい言葉を全て飲み込んで、周助は憂いに似た光を放つ黒い瞳を見つめた。

「あるはずないのに‥‥!」

 切ない声が響く。
 周助は色素の薄い瞳をフッと細めて。

「どうしてそう思うの?」

 周助は白い頬にそっと両手で触れて、彼女の意識を自分に向けさせた。
 そして、 の顔を覗き込むように顔を近付けて。

「どうして?なにがあるはずないの?」

「あ‥‥」

  は口を開いては閉じてを幾度か繰り替えして。
 漸くゆっくりと話し出した。







 



「そうだったんだ」

  から話を聞いた周助は、語られたコトを確かめるようにそう言った。
 すると は自嘲ぎみに笑って。

「バカみたいでしょ。そのためにここまでくるなんて」

 彼に本心を悟られないように。
 隠してきた気持ちを悟られないように。
 わざと明るく振る舞う。
 けれども。

「昔から ちゃんはウソをつくのがヘタだね」

 細い肩がびくりと震える。
 それを認めて、周助は自分の憶測が正しいことを悟った。
 彼女がウソをつく時は、瞳を逸らすクセがある。
 いつも人の目を見て話しをする彼女だから、それは周助の目には明らかだった。

「一一一少し昔話をしようか」

 突然そう言った周助に、 は思わず訝し気な視線を向けた。
 しかし、周助はそれを黙殺し、切れ長の瞳をスッと細めた。

「ある所に、とても仲のいい男の子と女の子がいました。
 二人は家が隣同士で、毎日のように二人で遊んでいました。
 女の子は男の子より6歳年上でしたが、男の子は女の子が誰よりも大好きでした。
 それから数年後、男の子は中学生になりました。
 ようやく告白できる自信のついた男の子は、想いを伝えるために女の子の家に行きました。
 けれど、女の子は遠い国へと旅立ってしまっていました。
 それでも少年は、ずっとずっと女の子を想っていました。
 いつか『好きだよ』と伝えられる日を信じて。
 そして、その願いがようやく叶う日が来たのです」

「その二人って‥‥」

 震える声で、ゆっくりと確かめるように。
 秀麗な顔を見上げて、 は懸命に言葉を紡ぐ。
 黒真珠のような瞳から、透明な雫が頬を伝う。

「ずっと ちゃんが一一一 だけが好きだ」

 誰に想いを寄せられても、心は動かなかった。
 欲しいのは、唯一人。幼い頃から一緒に過ごした、彼女。

  がオーストラリアへ留学をしたと知った時は愕然とした。
 彼女は周助に一言もそんなことを言わなかったから。
 いつでも一緒にいたのに、二人で過ごす時間は忽然となくなった。
 その時の気持ちは、言葉に出来ないほど辛かった。
 けれど、望みはついえていなかった。
 留学するだけで5年後には帰国する、という話を彼女の両親から聞いた。
 そして、つい先日。予定より早く彼女が帰国したと知った。

「今日学校が終わったら、貴女に逢いに行こうと決めていたんだ」

 揺るぎない瞳で、周助は を見つめる。
 彼の表情はとても真剣で、冗談を言っていないことは明白だ。
 けれど、 は緩く頭を振った。

「・・・ダメ」

「なにがダメ?」

「私、周助くんより6歳も年上よ?」

「だから?」

「周助くんには相応しくないわ」

 色を失くした唇を固く結んで、 は俯いた。
 固く握った両手が微かに震えている。
 周助はそれを見て、切れ長の瞳を僅かに細めた。

「僕に相応しくない? そんな言葉で片付けないでよ」

 吐き出すようにそう言って、周助は細い腕を掴んだ。
 ぐいっと腕を引かれ、バランスを失った細い身体が周助に抱きしめられる。

「歳なんて関係ない。僕が好きなのは だ。
 ずっと物心ついた時から、 だけを見つめていた。
  だけを愛してきたんだ…!」

「しゅう‥‥っん」

  が言葉を紡ぐより早く、周助は柔らかい唇を奪った。
 優しく触れるキスから頭の芯が痺れるような熱いキスに変わるまで、時間はかからなかった。


「好きだ‥‥


 ゆっくりと唇を離しながら、周助が囁く。
 熱い瞳に見つめられ、優しい腕に抱きしめられて。
 少し掠れた声で紡がれる告白に、 は顔を歪ませた。

「‥‥ずっと…周助くんが好きだった。
 でも、言っちゃいけないって…我慢してたの。周助くんに迷惑かけたくなくて…っ」

 堪えきれずに涙を流す を、周助は優しく抱きしめて。
 小さな子供をあやすように、そっと艶やかな黒髪を梳きながら。

「うん。 でも、もう我慢しなくていいよ?僕が、ずっと の隣にいるから」

 眠れない夜を数えなくていいよ一一一


 情熱の光を宿した瞳はそのままで、先程の告白よりも落ち着いた声で周助は告げた。
 そして、 の目元に浮かぶ涙を唇でそっと拭って。


「もう二度と を離さない」

 
 細い顎を優しく捕えて、周助は赤く色付く唇に自分のそれを重ねた。

 吐息を奪うような熱くて深く激しいキスは、優しくて甘くて眩暈がしそうだった。








END

2005.04.13加筆・修正



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