街路樹が赤く染まり始め、秋の気配が色濃くなってきた。
 あと数週間もすれば、風は肌を差すように冷たくなってくるだろう。
 
。出掛ける用意はできた?」

 寝室を覗いて、周助が声をかけた。
  は少し大きめのバッグを閉じて、部屋の入口に立つ夫を振り返った。

「うん、いま終わったところ」

「じゃあ、そろそろでかけようか」

  はコクンと頷いて立ち上がった。
 まとめた荷物を手にして、二人で玄関へ向かう。

「ね、周くん」

 呼び掛けられて、周助は靴紐を結ぶ手を止めた。
 そして、 へ目を向けて、首を傾げた。

「ん?どうしたの?」

「ホントにいいのかな?」

 そう訊くと、周助はクスッと笑って。
 
「せっかくの招待なんだし、たまにはいいんじゃない?」

「‥‥そうね。由美子さんと手塚君に逢うのも久しぶりだものね」



 

差し伸べた手



 

 純和風という言葉がしっくり当てはまる門をくぐる。
 庭木は整然と手入れがなされていて、この家に住む人物を表しているかのようだ。
 当主という意味では違うけれど、いずれ彼が継ぐことになるのだから間違いではない。
 その人は頑固で、融通がきかなくて、無口で。
 けれど、本当は優しいことを周助も も知っている。
 そして、二人以上にそのことを知っているのは、彼の最愛の夫人だということも。
 しかし、どういう経緯が合って二人が結ばれたのかは、周助も も知らない。
 
 門から家へと続く石畳を歩いて。
 玄関へと辿りつくと、周助は呼び鈴を押した。
 ほどなくして、ガラガラと音を立て玄関の引き戸が開いた。

「いらっしゃい、 ちゃん。周助も」

「姉さん、僕はついでなの?」

 姉の言葉に些か気分を害したかのような周助は、切れ長の瞳を僅かに細めた。
 すると由美子は、ふふっと微笑んで。

「そんなことないわよ。でも、私は周助より ちゃんに逢いたかったの」

「この前の詫びだって手塚から聞いたけど?」

 二週間前のコトを思い出し、周助の色素の薄い瞳に不穏な光が宿る。
 だが、由美子は笑顔でそれを黙殺し、周助の隣にいる に顔を向けた。

「ゆっくりしていってね、 ちゃん」

「ありがとうございます」

 微笑んで言ってから、 は由美子から周助へ視線を移した。
 すると、周助はその視線に気付いて、目元を和らげた。

「今日は姉さんに譲るけど、明日は僕だけの でいてね」

 約束だよ?

 甘い声で囁いて、赤く色付く唇に触れるだけのキスを落として。
 そして、にっこりと笑った。
  がそれに頷くのと、張りのある声が聴こえたのは、ほぼ同時だった。

「由美子」

 名を呼ばれて振り向くと、両腕を胸の前で組んだ手塚が立っていた。
 手塚は形のいい眉間に微かに皺を寄せて。

「なかなか戻って来ないと思ったら」

「手塚」

 呆れとも仕方ないとも取れるように言った手塚に、周助が声をかけた。
 手塚は僅かに口元を上げて、切れ長の瞳を義弟へ向けた。

「久しぶりだな。 ふたりとも今日はゆっくりしていけるのだろう?」

 幾らか和らいだ表情で、手塚が訊いた。
 先日の詫びを兼ねての招待だから、二人がゆっくりしていけるのか、彼としては気になっているのだ。
 周助たちの予定を聞いてから今日に決めたのだが、わざわざ確認するあたりが手塚らしい。
 問われた二人は同時に首肯した。

「お言葉に甘えてゆっくりお邪魔させていただくよ」

「そうか」

 手塚は二人に家に入るように薦めて、客間へと案内した。
 
「この部屋を使ってくれ。由美子が整えたから足りないものはないと思う。
 だが、足りないものがあれば言ってくれ」

「解った。ありがとう、手塚」

「ありがとう。 ねえ、手塚君。由美子さんはキッチンかしら?」

「食事ができるまでもう少しかかると言っていたからな。そうだろう」

 そう言うと、 は考えるように首を傾けた。
 そして唇に指先を当てながら、口を開く。

「私、お手伝いしにいってもいいかな?」

「え?」

 驚いた声を上げた手塚を は不思議そうな瞳で見つめた。
 そして。

「どうして驚くの?」

 きょとんとした表情で言った に、手塚は真剣な瞳を向けた。

「お前たち二人を招待したのに、 さんが手伝ってどうする」

 至極もっともなことを手塚は口にした。
 すると、それまで二人を傍観していた周助が、楽しそうにクスッと笑った。

「言いたいコトは解るけど、 には通用しないよ」

「不二、話が見えないぞ」

 眉間に皺を刻んで言った手塚を、周助は切れ長の瞳で見返して。

「聞きたければ後で説明してあげるよ」

 そこで一旦言葉を区切って、周助は視線を義兄から愛妻へと移した。
 秀麗な顔に柔らかな微笑みを浮かべて、周助は言葉を紡ぐ。

「いっておいで」

「うん、いってみる」

  は笑顔で頷いて、客間を出ていった。

 彼女の後ろ姿を複雑そうな表情で見ていた手塚に、周助の声がかかる。

はこういう時、じっとしていられない性分みたいなんだ」

「そうか」

「詳しく説明しようか?」

 僅かに瞳を細めて、周助は不敵な笑みを浮かべた。
 そんな義弟に手塚は眉間の皺を深く刻んで、固い声色でこう答えた。

「遠慮しておく。お前のノロケ話は聞き飽きているからな」

「フフッ。言うね、手塚」

「なんとでも言え」

 憮然とした表情で淡々と言う手塚を、周助は面白そうに眺めていた。



 それからほどなくして。
 客間の襖がスーッと滑るように開いた。

「国光、周助。支度ができたから来てちょうだい」

「早かったな。もう少し時間がかかるのではなかったのか?」

「そのはずだったけど、 ちゃんが手伝ってくれたから」

「姉さん、嬉しそうだね」

「ふふっ。だって、 ちゃんたら可愛いんだもの」

 手伝いをしていた の姿を思い出したのか、由美子は嬉しそうに笑う。
 そんな姉に周助は色素の薄い瞳をフッと細めて。

「言っておくけど、 は僕のだよ」

「はいはい、解ってるわよ」

 呆れたような表情で言って、由美子は溜息をついた。
 日に日に周助の に対する独占欲が増しているのは、間違いないだろう。
 由美子は心の中でこっそりそう思った。
 余談だが、手塚は二人のやりとりに眉間の皺を増やしていた。



 ダイニングに行くと、 がちょうど煮物を並べ終えた所だった。
 
「あれ?お義父さんとお義母さん、おじいさんは?」

「昨日から温泉旅行だ」

 ダイニングを見て言った周助の言葉に、手塚が答えた。
 そして夫の言葉を補うように、由美子が口を開く。

「お義母さんがね、若い人たちだけの方が気軽でいいでしょって」


 由美子の手作りである、和食を中心とした料理の数々がテーブルに並んでいる。
 炊き込み御飯にすまし汁、焼き魚、煮物に和え物。
 どれも旬の食材を使ったもので、美味しそうだった。
 想い出話や近況の話、手塚の両親と祖父の行き先など、色々な話をしながら4人で和気あいあいと食事をして。そのうちに手塚と周助、由美子と で自然に話が盛り上がっていった。


ちゃん」

 食後のお茶を急須から湯のみに注ぎながら、由美子が を呼んだ。
 名を呼ばれた は首を傾けた。

「なんですか?」

 訊くと、由美子は皆の前にお茶を置いてから、にっこり微笑んで。
 
「私の部屋でお茶を飲みながら、ゆっくりおしゃべりしない?」

 その言葉に周助は鋭い視線を姉に投げた。
 ちなみに、手塚は黙ったまま、お茶を飲んでいる。
 そして、誘われた当人は笑顔で頷いた。

「ホントですか?私、由美子さんに聞きたいことがあったんです」

「じゃあ、私の部屋で話しましょうか。 後片付けする間ちょっと待ってて」

 その言葉に は頭を振って。
 微笑みながら首を傾け、朗らかな声で答える。

「私も手伝います」

「そう?それならお願いしようかしら」

  と由美子がキッチンに残り、周助と手塚はリビングへと移動した。
 別に座っていてもよかったのだが、二人が話をしている傍らに黙って座っているのは、苦痛以外の何者でもない。周助も手塚も、過日に嫌と言う程それを味わった。
 ゆえに、仕方なしに渋々とであるが移動したのである。

「呑むだろう?」

 利き手である左手に一升瓶、右手にグラスを二つ持って訊いた。
 それに周助はクスッと笑って。

「ああ、たまにはいいね」

 そう答えた周助の向かいに、手塚は腰を降ろした。
 そして、周助の前にシャープなカットの入ったロックグラスを置いた。

「お祖父さんに薦められたんだが、このままでいいか?」

 酒のフタを開けながら訊くと、「うん」と返事があった。

「僕は構わないよ。手塚は?」

「俺もこのままでいい」

 互いのグラスに日本酒を注ぐ。日本酒独特の香りがゆっくりと空気に溶けてゆく。
 グラスを合わせると、キィンと高い金属音が静寂な部屋に響いた。
 手塚家はキッチンとリビングが少し離れているので、扉を閉めると向こうの音が聴こえなくなるのだ。

「珍しいね」

 しばらくの間、黙って酒を口にしていた周助が、ふいに口を開いた。
 グラスを手にしたまま、金茶にも見える瞳で手塚を見遣る。
 彼が自ら酒を薦めてくることは、皆無に等しい。過去を振り返っても、そういったことは片手で足りる程度しか、周助は知らない。
 手塚が酒を薦めてきた時点で、何かあったのだろうと直感的に思った。
 待っていると話すこともあるが、声を掛けないと話さないこともある。
 話しださない所をみると、今日は後者だったようだ。

「お前にも、たまにはそういう日があるだろう」

「まぁね。 もっとも、滅多にないけど」

「当たり前だ。しょっちゅうだったら さんが心配する」

「君もね。姉さんが心配するよ?」

 フフッと笑って言うと、手塚は僅かに目元を和ませて。

「そうだな。 だが、今日は平気だろう」

 手塚はチラリとあらぬ方へ目を遣った。
 彼が視線を向けた先にあるのはキッチンだ。

「姉さんに を取られちゃったからね。 フフッ‥‥ヤケ酒ってとこ?」

 その言葉に柳眉が微かに上がったのを、周助は見逃さなかった。
 だが、手塚は眉間に皺を寄せただけで何も言わない。
 だから周助もそれ以上は何も言わず、再びグラスを傾けた。









 雨の日だった。
 土砂降りでもなく小雨でもない雨。
 朝から天気は良く、山の方も晴れていたので雨が降るとは思わなかった。
 雨雲の切れ間に、うっすらと陽が差している所をみると夕立ちらしい。
 この程度なら、少し待てば止むだろう。
 そう思って、傘を持っていなかった由美子は、手近な店の軒下へ入った。
 その店は定休日のようで、ドアには休みの案内、窓はカーテンが引かれていた。
 ここなら営業妨害になったり、迷惑にならないだろう。そう判断して雨宿りをすることにした。
 だが、しばらく待っても、由美子の予想に反して雨は止む気配をみせない。

「なかなか止まないわね。 もう少し後で出ればよかったわ」

 そっと呟いて、由美子は溜息をついた。
 彼女の職業は占い師。タロットカードを使う占いを得意とし、占い業界では名の知れた存在だ。
 けれど、毎日忙しい彼女にも休日の日はある。今日がまさにそうだった。
 母に夕食の買い物を頼まれ、「あとでいいわよ」と言われたのだが、特に何かやっていた訳でもなく暇を持て余していたので、支度をして家を出た。
 普段は車で出掛けることが多いのだが、買い物の量は多くなかったので徒歩にした。


 フッと目の前が翳った。
 目の前を人が通ったからだ。先程も彼女の前を通過していく人がいた。
 だが。

「不二の‥‥お姉さん」

 耳馴染みのある声がして、視線を向けると手塚が立っていた。
 制服にテニスバッグを持っているのは、学校帰りだからだろう。

「え? あ、手塚君。 どうしたの?」

 そう訊くと、手塚は僅かに眉を顰めた。

「それは俺のセリフです」

 言うと、由美子は一瞬瞠目した。
 けれど、すぐにくすくすと笑って。

「それもそうね。
 急に降ってきたから、傘の用意なんてしていなくて。雨宿りしているのよ」

「それは見れば解ります。ですが、雨宿りをするならもっと広い所でないと‥‥」

 手塚はポケットからハンカチを取り出して、「濡れてるじゃないですか」と、細い肩に腕を伸ばした。
 突然の事態に動けずにいる由美子に構わず、手塚は濡れている服を手早く拭った。
 そして、手にしていた緑色の傘を差し出した。

「手塚くん?」

「どこかに行く途中だったのでしょう?
 俺は家に帰るだけですから、あなたが差していってください」

「ダメよ。それでは手塚君が濡れるわ」

 当然とも言える由美子の言葉に手塚は頭を振った。
 彼は口元を微かに上げて、切れ長の理知的な瞳を僅かに細めた。

「俺は鍛えているから平気です。 だから、由美子さんが使ってください」

「‥‥わかった、使わせていただくわ。でも一一一」

「でも、なんです?」

「手塚君も一緒に、っていうのが傘を借りる条件よ。
 再来週は地区大会の予選でしょう?大事な部長さんに風邪を引かせるわけにいかないわ」

 茶色い瞳は恐いほどに真剣で、無視することはできなかった。
 手塚はしばし無言で由美子の顔を見つめていた。
 やがて、顔にごく僅かな苦笑を浮かべて。

「以外に頑固なんですね、あなたは」

「ええ。これでも周助の姉だから」

「そうですね。でも俺は一一一」

 言いかけて、手塚は口を噤んだ。
 そんな手塚を由美子は無言で見つめたが、答えはなかった。

「行く所があるならそこまで送って、そのあと家に送ります。 それとも家の方がいいですか?」

「家までお願いするわ」

 由美子は即座に答えた。
 買い物は一旦家に戻ってから、もう一度出ればいい。
 そう決めたのは、手塚の表情に色々な感情が浮かんでいるような気がしたから。
 それと、占い師の直感がそう言っているような気がした。
 それに、大事な試合を控えている人を、雨の中歩き回らせる訳にはいかない。
 けれど一一一。
 答えた瞬間、手塚の顔に翳りが走ったのは気のせいだろうか。

 無言のまま、二人並んで歩く。
 耳に入るのは、傘を叩く雨音だけ。大きな通りは抜けたため、車の音も聴こえない。
 その沈黙を破ったのは、意外にも手塚の方だった。

「再来週の試合は、観に来られるんですか?」

 感情の読めない声色だった。
 付き合いの長い弟なら、彼の感情が解るのだろうか。
 そんな事を頭の片隅で考えながら、由美子は口を開く。

「ええ。応援に行くつもりよ」

 初めは、周助と裕太を応援しに行く、そう言おうとした。
 けれど、なんとなく口にしない方がいいような気がして止めた。
 
「そうですか」

「ええ」

 不二家までの道すがら、話したのはそれだけだった。
 玄関の扉の前まで、由美子が雨で濡れない場所まで送り届けて。

「じゃあ、俺はこれで」

「ありがとう、手塚君」

「いえ。 風邪を引かないように気をつけてください」

 そう言って、手塚は踵を返した。
 その彼の背中に向かって。

「試合、応援に行くから。頑張ってね」

 由美子の声に振り向いた手塚は、ひどく驚いたような顔をしていた。
 けれど、すぐにいつもの表情に戻って。

「ありがとうございます」

 そう言った手塚は、目元を和らげて笑っていた。






「それからね。私が国光を意識するようになったのは」

 ガラスで出来たテーブルに頬杖をついて、由美子はにっこり微笑んだ。
 彼女の笑顔はとても幸せそうで、 の顔にも自然に笑みが浮かぶ。

「そうだったんですか。 素敵ですね」

 頬を赤く染めて、 は言った。
 だが、彼女の白い頬が赤いのは、照れている訳でも恥ずかしがっている訳でもない。
 由美子が薦めたワインのせいだ。
 アルコール度は低いのだが、普段からアルコールを口にすることが滅多にない だから、酔ってしまうのも仕方ないことだろう。

ちゃん、大丈夫?」

「ん‥‥平気です」

 そう答えてはいるものの、黒真珠のような瞳はとろんとしている。
 眠そうに瞼を擦る仕種は可愛らしいが、この状況ではそうも言っていられない。

「‥‥とうぶんの間、 ちゃんと話せなくなりそうね」

 リビングにいるだろう弟のことを考えて、由美子は溜息をついた。


 一方、リビングでは一一一。

「俺は声をかける前から、気になっていたんだ。だが‥‥‥」

 言葉を濁らせる手塚を周助は瞳を細めて見つめて。

「僕の姉だから、ためらっていた?」

「・・・・・・」

 無言は肯定していることと同じだ。
 周助は秀麗な顔に笑みを浮かべて。

「責めてる訳じゃない」

「解っているさ。お前がそんな奴ではないことくらい」

「フフッ。それは褒め言葉として受け取っていいのかな?」

「フッ‥‥好きにしろ」

「そうさせてもらうよ」

 愉しそうにそう言ったかと思うと、周助は手塚を食い入るように見つめた。
 いつも穏やかな色素の薄い瞳は、突き刺さるように真剣だった。

「安心しろ。俺が器用でないことは、百も承知だろう」

 周助の視線から寸分の狂いもなく、彼の言いたいことを読み取った手塚はそう言った。
 まっすぐに周助の瞳を見ていった手塚の瞳は、一部の揺らぎも見えなかった。

「ああ、そうだったね」

 そう言って、ようやく周助はいつもの表情に戻った。
 そして。

を迎えに行ってくるよ。それから客間へ行くから」

「それなら俺も行こう」

 立ち上がった周助に続いて、手塚も立ち上がった。

 そうして周助と手塚は、それぞれの愛しい妻のいる部屋へ向かった。
 そこで見た光景に、二人は一瞬硬直して。
 周助がそれは不敵に微笑んで姉を見つめて、 を奪うようにお姫様だっこして客間に戻ったり。
 手塚がなんとも言いがたい固い表情で周助を見て、苦笑を受かべた顔を由美子に向けたり。
 そんなやりとりがあったことを、白い波間で微かな寝息を立てている は、知る由もなかった。






END


58000を踏んでくださった、まりんちゃんに捧げます。
リクは「Scent」の手塚君と由美子さんの出逢いでした。
「手塚くん書いて」には驚きましたが(笑)無事に完成してよかったです。

HOME