君がいるから




 熱気が渦を巻いているような、そんな雰囲気の中。
  は祈るような思いで恋人の試合を観ていた。
 テニスコートを囲うフェンスに掛けた細い指が微かに震える。
 何度もテニスの試合を観てきたが、今日は今まで以上に緊張する。
 見守ることしか、応援することしか出来ない自分が腹立たしい。

「頑張れ、周くん。 頑張って。負けないで」

 呪文のように、口の中で小さく何度も呟く。
 彼の力になるように。
 彼が勝つことを祈るように。

 不二の対戦相手が手塚でなければ、こんな気持ちにはならない。
 恋人の勝利を信じていない訳ではないけれど、目にしている光景は全て真実の出来事。
 だから、不安になる。こんなに一方的に押される不二を、 は見たことがない。
 それは だけでなく、観戦している青学レギュラー陣も同様だ。けれど、彼等に不安はない。
 どちらが勝つか。
 その空気だけが辺りを支配しているようだった。

 左肩の治療を終え完全復帰を果たした、青学テニス部部長の手塚国光。
 底知れぬ実力を秘めた天才と呼ばれる、不二周助。

 どちらが勝つにしても、簡単に終わる筈はない。
 コートの中をボールを追って走る不二を見つめながら、 は唇を噛み締めた。

 つばめ返し、羆落とし。そして、白鯨。
 不二は得意とするトリプルカウンターを全て手塚に封じられていた。
 持ち前のテクニックを駆使して手塚の攻めを防いではいるものの、苦戦しているのは明らかだった。
 彼がどんな想いでプレイをしているのか、 には解らない。
 けれど、諦めて欲しくはなかった。
 高い壁かもしれない。
 でも、それでも。
 眠っている才能が目覚めれば、勝機はあるに違いない。





 5一4と手塚が1ゲームリードした時。
 今まで押されぎみだった不二が、切れ長の瞳をスッと細めた。

「‥‥このまま負けるのは悔しいよね」

 切れ長の瞳に静かな炎が宿る。
 彼のまとう空気がより熱いものへと変わったのが傍目にも解った。

 ラリーの応酬であるのは、先程までと少しも変わらない。
 けれど、不二は手塚の打球を押し始めていた。
 不二が返球するボールが少しづつ速度を増している。

「不二の打球の速度が増してきている。終盤にきてこのスピードとパワーを出せるのか」

 ノートにペンを走らせながら、視線だけは不二と手塚を追って左右に動かしている乾が呟いた。
 その声に重なるようにして、別の声が響く。

「手塚部長を押してるっスよ」

「ああ。いままでとは別人みたいだ」

 喉をゴクリと鳴らして言った桃城に大石が答えた。



 そんなレギュラー陣のやりとりは、 の耳に届かない。
 聴こえないような距離でも音量でもない。
  の耳に届かないのは、彼女の意識が試合だけに一一一不二だけに向けられているからだ。
 汗だくになりながらコートを走ってボールを返球している彼だけに。
 そうすることしか、 にはできない。
 
「周くん、最後まで頑張って一一一」

 切なさを帯びた声が響く。
 その声に回りのレギュラー陣の視線が一瞬だが、 に向けられた。
 だが誰も何も言うことなく、再び試合へと意識を向けた。



 手塚ゾーンを破り、つばめ返しが決める。
 スマッシュを羆落としで返し、点を入れる。
 微かに吹き始めた風を味方に、白鯨を決める。
 そして、試合は6ゲームオールになり、タイブレイクへともつれ込んだ。
 どちらも一歩も引かず、時間だけが刻一刻と過ぎてゆく。
 

 手塚がロブを渾身の力を込めてスマッシュする。
 バウンドする前に着弾点を見極めて、不二はダッシュした。
 けれど一歩及ばす、手塚のスマッシュが決まり、ポイントに2点差がついた。
 手塚の勝利が決まった。
 その瞬間。
 不二はふぅと息を吐いて、空を見上げた。そして、色素の薄い瞳をそっと閉じた。
 それを見て の心が重く沈む。
 はっきりと顔が見える訳ではないけれど、彼が耐えているのが解ったから。
 
 コートの中央で握手を交わして。
 互いに言葉を掛け合った二人がコートから外へと足を向ける。
 コートを囲うフェンスの扉を開けて外に出た不二に、 は駆け寄った。
 
「周くん‥‥」

 彼の名前をそっと呼んだ。
 言葉を探るような様子の恋人を見つめて、不二は口を開く。

「やっぱり手塚は強いや」

 そう言って微笑む。
 だが、 には不二が無理して笑っているのが手に取るように解る。
 でも、何と言葉をかければいいのか解らない。



 どんな言葉をかければ

 何を言えば


 彼を救ってあげられる?

 どうしたら彼の心を支えることができる?




「あの…ね、私‥‥っ?!」

 声を掛けようとした の細い身体を、周助はギュッと腕に抱きしめた。
 そして華奢な肩に額を押し付けて。

「ごめん‥‥少しだけでいいから」

 微かに震える声で紡がれた言葉が、彼の心情を表しているようで。
 抱き締めることで彼を癒せるのなら、そうしたい。

「一一一うん。 お疲れ様、周くん」

 優しい声で囁いて、 は不二の柔らかな髪をそっと撫でた。

「‥‥次は負けない」

「うん」

「だけど一一一」

「大丈夫よ。いつも周くんが私を癒してくれるように、私もあなたを癒したいの。
 だから、いいの」

  がそう囁くと、微かな笑い声がして。
 細い身体を抱きしめている腕に力がこもった。


「君がいてくれて一一一いや、 がいるから」

 これからも前に進んでいけるよ


 不二の心を癒すように、 は彼の背中に腕を回してそっと抱きしめた。


 





END




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