Sky 見上げた空の蒼さに、黒い瞳が細められる。 優しく蒼い空は、あの人を思い起こさせる。 心の奥に閉じ込めた筈の想いが、ゆっくり頭を持ち上げてくる。 穏やかな眼差しと優しい笑顔。 本気を見せる時の鋭利な瞳。 声を殺して笑う姿。 そして、テニスをしている彼の姿。 様々な表情の彼が浮かんでは消えていく。 「…今日は…」 彼の誕生日だ。 厳密に言うと、閏年生まれである彼の本当の誕生日である29日は今年はない。 けれど、の心の中には毎年存在している。 それでいつもより気分が重いのかもしれない。 去年の春先、テニス留学をするという彼を成田から見送った。それから数日後、も日本を離れた。 あれからもうすぐ一年になる。 本格的に勉強したくて、一生続けたいと思っていたから、彼の留学をきっかけに決心した。 一緒にいられないのなら、どこにいても同じだ。 それに彼は世界的に有名になるという確信があった。だから、どこにいても彼の姿を、活躍を見られる、と。 そんな彼に釣り合う女性になりたくて、フォトグラファーになる夢を叶えたくて、ドイツに来てから必死に頑張ってきた。 勉強を兼ねてアシスタントの仕事をしながら、休みの日には撮る腕を磨いて。 そして少しだが仕事を貰えるようになって、数日前に初めての写真集を出すことができた。 「……逢いたいな」 留学してから、彼には――不二には手紙で報せた。 数日して、お互いに頑張ろうと、応援しているよ、という内容の手紙が不二から届いた。 そして今日まで、毎日ではないけれど、メールや手紙で彼から何度も連絡があった。もちろんも毎回返事をしている。 逢いたい。 そう言えば、彼はきっと想いを叶えてくれる。 けれど、彼の負担を考えたら、とても言えなかった。ニューヨークとケーニスベルグはあまりに遠すぎる。 試合や練習、トレーニングで大変なのがわかっていて、言える筈がない。 が逢いに行ければいいのだが、もし予定が合わなかったら、とマイナス面を考えてしまうと動けなかった。 だから、何度も口にでかけたけど、寸前で飲み込んでいた。 こんなのでよく留学を決意したものだ、と自分でも呆れてしまう。 「…こんな気持ちじゃ今日はダメね」 ふうと深く息をつき、視線を空から手元のカメラへ移す。 黒いそれは、不二が愛用していたものと同じメーカーの物。仕事で使う写真以外は、少し古めのこのカメラで撮っている。 フィルムの自動送りがないので、連続してシャッターが切れない。ゆえに、一秒ごとに変化する被写体を写すのにはあまり向かない。それは腕がまだ未熟だからという証拠でもある。 昨日、ボスから薦められて撮りに来たけれど、出直して来ようとは踵を返した。 柔らかな光が差し込む中をゆっくり歩きながら、また空を見上げた。 今日の空の色は、雲ひとつない澄んだ蒼。 この空を背景に、噴水前に咲き誇る花を撮る予定だった。 …やっぱり今から逢いに行こうか? そう考えた時だった。 「――っ!ご、ごめんなさ…」 公園を散歩していたのであろう通行人に、はぶつかってしまった。 謝罪の言葉を口にしながら、は視線を滑らせた。 「クスッ。余所見してると危ないよ?」 「…ッ!?」 瞬間、耳に届いた柔らかな声に息が止まる。 懐かしくて、とても好きな声。 この声で名前を呼ばれるのが、とても好きだ。 「どうしたの?僕のこと忘れちゃった?」 黒い瞳を瞠るに、不二が首を傾げる。 突然のことに声が出なくて、はぶんぶんと首を横に振る。 「フフッ、冗談だよ。が僕を忘れるわけないからね。 驚かせてごめん」 何か言わなくちゃと思うのだが、やはり声が出なくて、再び首を横に振る。 不二を見つめる黒い瞳から涙が溢れ、白い頬を滑り落ちる。 涙で滲む視界に映るのは、逢いたいと恋焦がれていた、恋人。 「しゅ…すけっ」 広い胸に飛び込むと、真綿で包むように優しく、けれどしっかり抱きしめられた。 感じる温もりが夢ではないことを伝えてくれる。 この腕の中にずっと還りたかった。 蒼い空に重ねて、いつも彼のことを想っていた。 本当に撮りたいものは、空でも風景でもなく、テニスをしている不二の姿だ。 「逢いた…かっ…っ」 「うん。僕もだよ。だから君に逢いにきたんだ」 明日の君の誕生日を一緒に過ごすために、ね。 優しく甘い声が耳に届く。 が涙で濡れた瞳を不二に向けると、彼は瞳を細めて微笑んだ。 空の蒼のように、優しい笑顔。夢に見た、彼の微笑み。 は、心の中でどろどろしていたものが、溶けていくような気がした。 「…周助…」 「ん?」 「お誕生日おめでとう。直接伝えられて嬉しい…」 涙で濡れた瞳で、は花が咲いたように微笑む。 彼に逢えたのが――彼が逢いに来てくれたのが嬉しい。 「ありがとう、」 そう言って微笑む不二の腕の中で、突然困ったようには眉を曇らせた。迷った末に選んだプレゼントを、日付指定をして航空便で送ってしまっていたから。 こんなことになるのなら、プレゼントを持って逢いに行くべきだったと後悔した。 もう少し勇気を出せばよかったと思っても、すでに遅い。 「ごめんね、周助。私、プレゼント送ってしまったの」 一年振りの再会なのに、情けなくて不二の顔をまともに見られない。 申し訳なさそうに視線を逸らすに、不二は微笑んで言う。 「ありがとう。楽しみだよ」 「でも、今、贈りたいの」 その言葉に不二は切れ長の瞳を瞠って、ついで愛し気に細めた。 しなやかな長い指で、の絹糸のような黒髪をそっと梳く。 それから透き通るような白い頬に触れた。 「それなら、君の唇を…」 囁きが聴こえたのと同時に、キスで唇を塞がれた。 触れるだけのキスは、すぐに頭の芯が溶けてしまいそうな熱いキスに変わった。赤く色づく唇を割って、柔らかな舌が入り込み、彼女の舌を絡め取る。 の膝が耐え切れずに崩れ落ちそうになった瞬間、不二はキスから恋人を解放した。 息を弾ませ、が潤んだ瞳で不二を見上げる。 「…しゅ…う…」 「…やっぱり唇だけじゃ足りないみたいだ」 だから、をちょうだい? 耳元で囁いて、不二は細い身体を横抱きに抱き上げる。 「やっ…待っ…て」 朝早い時間と言っても、人がいないわけではない。ここは公園で、今も散歩している人がちらほらいる。日本とは違うのでキスしてるくらいでは注目されないけれど、この体勢はさすがに目立つ。知人や友人に二人でいるところを見られても困らないが、この状態は見られたくない。気を失って運ばれているのならまだいいけれど、意識はハッキリしている。だから、嬉しさより恥ずかしさが大きいのは当然だった。 「こうしてれば大丈夫だよね」 不二はの後頭部に回した手で、彼女の顔を自分の胸に埋めさせる。 その行動に下ろす意思はないと悟ったは、おとなしく従った。ジタバタ騒ぐ方が余計に人から見られる。 「…愛してる…」 細い身体を抱く腕の力が僅かに強くなる。 こんな時にズルイと思う。けれど、自分も同じ想いだから。 不二が恋しくて、気が狂いそうだった。 私も…、と小さな声が不二の耳に届く。 蒼い空ってあなたに似てるの 晴れている時は微笑みに 雷の鳴る空はさっきのあなたみたい そう言ってくすくす笑う恋人を再び腕の中に抱きしめて。 可愛らしい唇を甘いキスで塞いだ――。 END BACK |