洋菓子屋、デパート、製菓材料売場など、街中がバレンタイン色に染まり初めた、2月上旬。
 昼休みの教室、僅かに光が射し込む窓際の席で、 は本を広げた。
 彼と付き合い始めて今月で10ヶ月。そして、初めてのバレンタイン。
 だから、手作りのチョコを贈りたい。
 どういうチョコなら喜んでくれるかな?
 そんなコトを考えながら、ページを繰っていると一一一。

「何を読んでるの?」

  が顔を上げると、恋人の不二が穏やかな笑顔を浮かべて立っていた。
 不二は視線を の手元へ向けて、クスッと笑った。

「そういえば、もうすぐバレンタインだね。 は誰にチョコをあげるの?」

(・・・絶対にわざと言ってる)

 黒曜石のような瞳でじっと不二を見つめるが、彼は全く動じない。
 わかっていてわざと訊いているのだから、当然なのだが。
  が不二以外にチョコを渡すとは微塵も思っていないのに、彼女の口から聴きたいらしい。
 彼の望む答えを口にするのは悔しいから、 は仕返しとばかりに笑いながら答えた。

「お父さんに」

 そう言うと、不二は色素の薄い瞳を僅かに細めて。
  との顔の距離を縮めた。

「大好きな彼に、じゃないんだ?」

「一一一イジワルだから」

 反則だよ・・・、と不二の顔を見て心の中で呟いて。
 ふいっと視線を恋人から外した。
 全てを見透かしているような彼の視線に、胸がドキドキする。
 
「ごめんね?
  からのチョコが欲しいな。他のコからは受け取らないから、僕にくれる?」

 甘い囁きに身体中の体温が一気に上昇する。頬が熱い。
  は赤く染まった頬を隠すように白い手を添えて、コクンと頷いた。
 すると不二はそれは嬉しそうに微笑みながら。

「フフッ、ありがとう。楽しみにしてるね」

 嬉しそうに微笑んで言った不二に、 は拗ねたように小さく呟く。

「一一一ズルイ」

  の声は小さかったが、不二の耳にはしっかり届いていた。
 けれど、 不二はそれを笑顔で黙殺した。
 
「お〜い、不二」

 大きな声で名を呼ばれ、不二は視線を からクラスメイトへ移した。
  に向けられていた穏やかな笑みが、別の種類の笑みへと変わる。

「なにかな?英二」

 言葉は柔らかいのに、どこか冷たさの感じる口調で不二が応じた。
 友人の変化に菊丸は引きつった笑みを浮かべて。

「昼休みまだあるから、テニスに付き合ってくれにゃいかな〜なんて」

 なんとか言葉を紡ぐことに成功したが、返ってきたのは暫しの沈黙だった。
 やがて不二の口から「いいよ」と返事があり、菊丸はホッと息をついた。
 そして、彼はこっそり心の中で誓った。
 不二が彼女といる時は、絶対に声をかけないようにしよう、と。
 
  が教室から出ていく不二を見送っていると、彼と入れ代わるようにして、親友の が教室へ戻ってきた。
  は明るい笑顔を浮かべて、 の席へ向かう。

「なになに?チョコレート、手作りするの?」

  の前のイスに座り、 は身を乗り出すようにして訊いた。
 興味津々と書いてあるような顔に、 は思わず苦笑した。

「うん。初めてのバレンタインだから」

「初めてのバレンタインねえ」

 含み笑いをする親友に怪訝そうな視線を送る。
 すると、 はくすっと笑って、首を緩く傾けた。

は男の子にチョコをあげるのも初めてでしょ」

 図星を差されて、 は頬を膨らませた。

「‥‥悪い?」

 拗ねるように言った に、 は首を横に振った。
 そして、真面目な顔をして。

「悪くないよ。 
  が元気になって不二君と一緒にいれて、よかったなあって思うから」

 去年の春先、数年の間は治まっていた心臓の発作が起こり、 は大学病院へ運ばれた。
 それは不二と付き合い初めて数週間後のことだった。
  が成功率が高くない手術を受けたのは、初めて好きになった人の傍にいたかったから。

「ありがとう、 にも義理だけど、チョコあげるね」

 親友の言葉が嬉しくて言ったのだが、 は複雑そうな顔をした。
 甘いものは好きだし、大切な親友からチョコをもらえるのは嬉しい。
 けれど、 は不二の独占欲の強さをイマイチ解っていないようだ。

「気持ちだけもらっておくわ。不二君に恨まれたくないしね」

 甘いものは好きだし、大切な親友からの贈り物は嬉しい。
 嬉しいけれど、そろそろ不二の独占欲の強さに気付いてもらいたい。
 そう思って言ったのだが、 には通じていなかった。

「周助くんが恨む?どうして?」

 純粋培養なのか、天然なのか、 は不二に同情した。
 そして苦笑を浮かべて、 に言おうと思ったことを口にした。


 

恋と愛の境界線


 

「ありがとう、乾君。 あのね…もうひとついい?」

 乾が教えてくれた情報で、彼の誕生日のコトは決まった。
 けれど、今月はもうひとつイベントがあるのだ。数日前から時間があれば色々と本を見ているのだが、これというものが見つからないでいる。
 だから、少しでもヒントになりそうなコトを聞かせてくれないかと思った。

「うん? ああ、そういえばもうすぐだな」

  が言うよりも早く、彼女の訊きたいことに乾は目星をつけた。
 不二と が付き合っていることは、ほとんどの生徒が知っている。無論、テニス部のデータマンとあだなされる乾が知らない筈はない。
 今の時期、 の僅かに赤く染まった頬、そして話の流れを総合すれば、乾にとって難しい計算ではない。

「・・・周助くんてもてるから・・・他のコと違うチョコをあげたいの。
 乾君なら何かいいヒントをくれるんじゃないかなって思って」

 必死な顔で見上げてくる に、乾は眼鏡のフレームをいじりながらノートを広げた。
 開かれたノートには、文字がぎっしり書き込まれている。
 それを目で追いながら「ふむ・・・」と呟いて、ノートを閉じた。

「今年…いや、去年だな。不二から聴いたことがあるかもしれないが、夏休みに関東のテニス部主催で合同文化祭があってね。不二が唐辛子入りのケーキを焼いてきたんだが、それを応用したらどうだ?
去年、不二が受け取ったチョコレートの中には手作りも多かったらしいが、普通のものしかなかったらしい」

「普通のってチョコレ・・・あっ」

 言葉の途中で乾の言ったことを理解した は、小さく声を上げた。

「わかったようだな」

「うん。ありがとう、乾君」

 そう言って踵を返そうとした を乾が呼び止めた。

、ひとつ言い忘れていた。
不二がお前以外の女生徒からチョコレートを受け取らない確率100%だ」

 耳に届いた低い声に は黒曜のような瞳を丸くして。
 ついで、嬉しそうに微笑んだ。

「ありがとう」

 もう一度お礼を言って、 は自分の教室へと足を向けた。

 


 バレンタイン当日の放課後。

「周助くん」

 ホームルームが終わると、 は小さな紙袋を手にして、不二に声をかけた。
 不二はいつものように柔らかな笑みを秀麗な顔に浮かべて。

「ねえ、これから時間あるよね?」

 チョコを渡そうとしていた は、黒い瞳を瞬きさせて不二を見つめた。
 訊いているというより確認しているような言い方は彼らしい。

「うん」

「フフッ、よかった」

  が頷くと、彼女の返事はわかっていたとばかりににこやかな笑みが返ってきた。
 不二はテニスバッグを右肩に担ぐと、左手で の手を引いた。

「しゅ、周助くん?部活は?」

「竜崎先生と部長、副部長が他校に行くから休みなんだ」

 言ってなかったかな?

 そう続けた不二を は不振気な瞳で見つめて。

「聴いてない。 ・・・周助くん、わざとでしょ?」

「ごめんごめん」

 謝罪する不二に「反省してるの?」と軽く睨む。

「前にも言ったと思うけど、僕は好きなコをからかいたくなるクセがあるから。
反省はしてるけど、直らないと思うよ」

「それってすごく複雑な気分」

 それでも、仕方ないの一言で片付けてしまえる。
 それは彼に溺れるように惚れてしまっている証拠なのだろう。






 不二家を訪れると、由美子が出迎えてくれた。

「いらっしゃい、 ちゃん」

「あ…こんにちは。お邪魔します」

 不二の姉に会うのは今日が二度目で、 は緊張が隠せずにぎこちない挨拶をした。
 だが由美子はそれを気にすることもなく、スリッパを出して に上がるよう薦めた。

ちゃん。ちょっと周助を借りるわね」

「あ…はい」

  をリビングへ招いた由美子は、周助の腕を引いてキッチンへ向かった。
 由美子は弟の耳元へ形のいい唇を寄せて。

「私は約束があるからでかけるけど、帰りは周助がちゃんと送ってあげなさい」

「・・・で、ホントのところは?」

「言わなくてもわかってるなら言う必要はないわね」

 第三者が聴いていたら理解できない会話を交わして。
 由美子は弟から へ視線を移した。

ちゃん。 ゆっくりしていってね」

 優しい微笑みを に向けて、由美子はリビングを出ていった。
 


「二人きりだね」

 ソファに座る の隣に腰を降ろして、彼女の顔を覗き込む。
 至近距離で少し斜に構えて見つめられて、ドキドキと鼓動が早くなる。

『二人きりだね』

 少し低めの声が耳の奥で甦って、頬が熱くなってゆく。
 じっと見つめてくる彼の視線に耐えられなくなった時。

「ごめん」

「・・・え?」

「怖がらせたね」

  が考えているような意味で言った訳ではなかったが、結果としてそうなってしまった。
 大切にしたい彼女が震えているのを見てしまったら、これ以上の沈黙は重荷になってしまうだろう。

「そ、そんなコト・・・」

「あるでしょ」

 頬がとても熱くて。
 ドキドキが止まらなくて。
 嬉しいけど、本当は少し恐くて。
 彼とならイヤじゃない。
 でも一一一。

「ご、ごめんね。周助くんのコトは好きだけど、わた・・・っ?」
「いいよ。わかってるから言わなくていい」

 柔らかな唇をしなやかな指で塞ぎ、続く言葉を遮って。
 不二は優しく微笑んだ。
 でも、不二は知らない。
 初めてだから不安だというのもあるけれど、それ以外に理由がある。
 あの時から誰にも言えずに抱えている、本当の理由が。
 
。君の好きなマロンケーキ、姉さんが焼いてくれたんだ。紅茶淹れてくるから一緒に食べよう?
それとも、僕は別のを食べた方がいいかな?」

 瞳を細めて微笑む不二に は安心したように笑い返して。
 小さな紙袋から青いチェックの箱を取り出した。

「周助くん、好きです。受け取ってくれますか?」

「喜んで。 ありがとう、

 白い手から箱を受け取って。
 不二は の唇に掠めるだけのキスをした。

「開けてみていいかな?」

 頷くと、不二はゆっくり箱を開けた。
 箱の中には、小さなショコラのホールケーキが入っている。

  I love you

 白いチョコレートで書かれた文字に、不二は幸せそうに微笑んで。
 細い身体をそっと抱きしめた。



 その後は一一一。

「・・・どうかな?」

 胸の前で指を組み不安そうに見つめてくる恋人に、不二はクスッと笑って。

「すごくおいしいよ。このハバネロショコラケーキ」

 チョコレートのように甘いティータイムを過ごす恋人達の姿があった。









END

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