Genius 「青学ファイ!」 「オー!」 窓越しに聴こえる掛け声は、男子テニス部のものだ。 二階にある図書館の窓からはテニスコートがよく見える。 黒い瞳に映る人を見つめながら、は眩しそうに瞳を細めた。 彼と同じクラスになって今年で4年目。 4年前の春に教室で名前を知らない彼を見た時、中性的な人がいると思った。 幼さがあった彼は歳を追うごとに成長し、どんどんカッコよく素敵になっている。 あの時は彼をこれほど好きになるとは思っていなかった。 偶然に隣の席で時々話すようになって、初夏頃には仲良くなったけれど、その頃はまだ気になる人だった。 気持ちが気になるから好きに変わったのは、あのコトがきっかけだった。 あのコトがあってから彼を意識するようになって、目で追っているうちに彼に惹かれて好きになっていた。 中学一年生の二学期期末試験が終わり、結果が校内に貼りだされたコトがきっかけだった。 一学期にはなかったのになんで今回は結果を貼りだすことになったのか、学校のすることはたまによくわからない。 職員会議で決めたのかPTAから何か言われたりしたからかもしれない。 試験の順位などあまり気にならないは、友人のの誘いを「放課後見に行く」と断り、昼休みの教室で読書をしていた。 もっともそれは建前で、放課後に見に行くつもりはなかった。 ほとんどの生徒は結果が気になるらしく、教室に残っている生徒は7人位だ。 見に行かないのは自分と同じ理由かそれ以外の理由だろう。残っているのが自分ひとりでないコトに、は少し安心した。 それからしばらくして、数人の女子生徒が教室に駆け込んできた。 「さん試験結果見た?」 「え…見てないけど」 ほとんど会話をしたことがないクラスメートに声をかけられて驚きつつ、は返事をした。 「首席だったよ」 「すごい頭いいんだねー」 「ねー、羨ましいよ」 連れ立っている女の子たちが口々に言いながら、羨望の眼差しを向ける。 は内心で溜息をついた。 今回はたまたまに過ぎないと思うし、なにより自分は頑張って勉強したのだ。羨ましいと言われても困る。 そんなの心境が彼女たちにはわからなかった。 「なんていうのかな…天才って感じ?」 「天才かあ、いいなあ」 クラスメートにとっては、きっと何気ない一言。 けれど、その言葉にの心は鋭いナイフで抉られたようだった。 努力した結果がどうして天才と言われるのか。 「そ…んなコトない。たまたまよかっただけだから…」 無理矢理に笑顔を作って、なんでもない振りをする。 こういう時、勝手なこと言わないで、と言えればいいのだが、にそんな強さはない。 ここにがいてくれたらよかったのだが、あいにくまだ彼女は教室に戻って来ていない。 「謙遜しなくてもいいのにー」 追い討ちをかけられ、は何気なさを装って逃げようと思い、絞るように声を発した。 「あの、私ちょっと…」 「話してるところ悪いけど、さん借りていいかな?」 図書室に行きたいから、と誤魔化してこの場から逃れようと席を立ちかけたの耳に、隣の席のクラスメートの声が重なった。 「委員の用事があるんだ。ごめんね」 「う、ううん!」 「全然っ」 「委員の仕事頑張ってね」 突然現れた不二に、クラスメートは重なり合うように言って散っていく。 その様子を見ていたは、ほっとしたように息をついた。 なるべくなら穏便に片付けたかったし、嘘をつくのは息苦しいから不二が来て助かった。 「不二くん、なんの仕事頼まれたの?」 「うん、ちょっとね」 一緒に来て、と言われて、は不二の後をついていく。 教室を出て廊下を歩き、渡り廊下を通って第二校舎へ入り、階段を一階分上がった。 「ねえ、不二くん、どこに行くの?」 委員の用事がある、と不二は言っていたけれど、花の水遣りをするのなら校舎を出ないといけないし、第一、日ごとに担当するクラスは決まっている。 それ以外に考えられるコトは思い浮かばない。 けれど、行き先がわかれば用事が何かわかるだろうと思いは訊いた。 「図書室だよ」 首をわずかに傾けてにっこり微笑む不二に、は瞬きをした。 黒い瞳が聞き間違いじゃないよね、と語っているようだった。 そんなに不二はクスッと笑う。 「さんのお薦めの本、教えてもらおうと思ってね。ゆっくり話せるのって昼休みくらいじゃない」 その言葉でわかった。不二は助けてくれたのだ。 委員の用事と言ったのは、彼の気遣いなのだろう。クラスメートとの間に波風が立たないように。 「…ありがとう」 一礼するの耳に、気にしなくていいよ。僕がそうしたかったんだ、と柔らかな声が届いた。 頭を上げたの瞳に映ったのは、微笑んでいる不二だった。 「不二くん」 「なに?」 「不二くんて……」 ふいに浮かんだ質問を投げようとして、は言葉を飲み込んだ。 少し親しくなったからと言って、気軽に訊ける内容ではない。 それに、もし訊いたとして彼が答えてくれても、それは彼の思っていることであって、自分の答えではない。 不二くんて青学の天才って呼ばれてるけど、それについてどう思ってる? などと、自分が言われてイヤだと感じたことを訊けるわけがない。 疎ましいと感じているかもしれないし、嬉しいと感じているかもしれない。 どんな答えでも否定や非難をするつもりはない。 訊いてみたいと思う心があるのも事実だが、やはり訊くことはためらわれた。 「僕が、なに?」 の言葉を待っていたが続きがないので、不二は促すように口を開いた。 「どんな本を読むの?」 悟られないように気をつけて訊くと、不二は不思議そうに色素の薄い瞳を丸くした。 「なんだ、そんなことか。深刻そうな顔で言うから何事かと思ったよ」 核心をついた言葉にの細い肩がぎくりと震える。 うまく隠せたと思ったのは、束の間だった。 「…僕が答えられることなら答えるよ?」 不二の静かな声には固唾を呑んだ。 今を逃せばこの先、機会がないかもしれない。 この際、思い切って聞いてみようか? 「さん」 「えっ…は、はいっ。なんですか?」 不意に名前を呼ばれて、は自分が図書室にいるのだと思い出す。 テニスコートを見ながら、思わず物思いに耽ってしまっていた。 「まだココにいるなら鍵を預けてもいいかしら?」 「あ、いえ、私も帰ります」 いつまでもここにいても仕方ない。 見ているだけでは何も伝わらないのだから。 「そう?ごめんなさいね、今日に限って閉館が早くて」 心から悪いと思っているのだろう。顔を曇らせる教師に、は平気ですと告げた。 「さよなら、先生」 「気をつけて帰ってね」 は頷いて、バッグとコートを持って図書室を出た。 昇降口へ続く廊下でふと足を止めて、はバッグを見つめた。 藍色のバッグの中には、バレンタインに渡せなかったチョコが入っている。 不二を好きだと自覚した年から毎年用意しているそれは、一度も渡したことがない。 今年も渡せなくて、バッグに入れたままになっている。 バレンタインが過ぎても捨てられないチョコは、もう4個目だ。 去年と一昨年とその前の年の分はさすがに持ち歩いていなくて家にあるけれど、おそらくカビるか溶けるか腐るかしているだろう。 「?そんな所に突っ立ってどうしたの?」 耳に馴染んだ声が聴こえて驚くと同時に、は声の主がいる方へ視線を向けていた。 黒い瞳にジャージを着た不二の姿が映る。青と白のジャージは、レギュラーにしか着ることができない。 「ちょっと考えごとしてた」 不二は座って考えた方がいいと思うよ、と言いながらこちらへ歩いてくる。 そんな彼の姿をはぼんやり見つめていた。 窓から差し込む陽光に色素の薄い瞳が映えて、金色に見える。 キレイなのにカッコイイ。 吸い寄せられるように見ていた不二は、の正面で立ち止まった。腕を少し伸ばしたら届く程の距離に。 「不二くんはどうしたの?部活は?」 いつものようにいつものように、と呪文のように心の中で繰り返す。 不二は額にかかる色素の薄い髪を左手で掻き上げた。 「いま終わったところ。だけど忘れ物があったからね。間に合ってよかった」 首を傾けて微笑む不二に、は不思議そうな顔をした。 「まだ鍵はかからないと思うけど…」 がいた図書室は今日はたまたま早く閉められたけれど、教室は大丈夫だろう。 教師が見回って鍵を閉める時間まで、ゆうに三時間はある。 「別に鍵がかかってても構わないけどね。がいれば大丈夫だから」 そう言って不二は笑うけれど、は意味がわからない。 どこをどう繋ぎ合わせると、忘れ物をしたのに鍵が閉まっていても大丈夫になるのだろう。 しかも自分がいれば大丈夫と言ったが、閉まった鍵を開けられる技など持っていないのだ。 「…私じゃなくても、不二くんなら鍵を借りられるわよ。真面目だし、先生に信頼もされてるでしょ」 やっぱりダメか。 不二は小さな声でごちて、色素の薄い瞳でを見つめた。 真剣な光を宿す瞳に心が跳ねる。 「今年は言ってくれないんだ?」 その言葉で、ようやく意味を理解した。 待っていてくれたんだと思うととても嬉しい。 けれど、それは仲のいいクラスメートとしてなのか、それとも別の…好意を持ってくれているのか、どちらなのだろう。 知りたいけど恐くて、気まずくなるのなら今のままでいいと思っている。 「…言いたかったけど…」 言えなかった。 閏年にしかない、不二の誕生日。 だから絶対に言うんだと心に決めていたけれど、朝も授業の間の休み時間も昼休みも放課後も、不二の側には女子生徒が群がっていて、言うタイミングが見つからなかった。 ただお祝いを言うのは、がイヤだった。 誰かがいる中で、不二以外の誰かが聴こえる中で、言いたくなかった。 「今は?」 問われて、言葉に詰まる。 放課後の校舎内、人の気配はない。帰宅部はすでに残っていないだろうし、運動部はグランドか体育館だし、文化部は音楽室や茶道室といった特別教室で部活の最中だろう。 今ならが望んでいた状況そのものだ。ある意味、チャンスと言っていい。 それでも言えないのは、当の本人に指摘されてしまったから。 どうしたの?と言うより先に、さりげなさを装って「おめでとう」と言って帰ってしまえばよかったのに。 でも、望まれているなら今でも遅くはない? そんなことを考えていると、そっと不二の手が頬に伸ばされた。 の頬に触れるか触れないかの絶妙な場所で指が止まる。 「君に言って欲しいんだ。イヤなら手を振り払ってくれていい」 そんなことができるわけがない。 近づきたくて近づけなかった距離が縮まったのだ。 は一度ぎゅっと瞳を瞑り、小さく深呼吸をした。 「ハッピーバスデイ、不二くん」 16歳おめでとう。 小さな声で付け加えると、不二は顔を綻ばせた。 「ありがとう」 言葉が終わらないうちに、抱き寄せられた。 の頭の中が真っ白になる。 今なにが起きているのだろう。頭の中が混乱して動きが止まってしまう。 「名前で呼んでいいかな?」 「えっ、あのっ、不二くん?」 「ダメなの?」 顔を覗きこまれて、は首を横に振る。 「だ、ダメじゃない」 そう答えると、不二は嬉しそうに微笑んで。 「ねえ、。まだ気づかない?」 ふ、不二くん、なんでそんなに近いのっ。 というか、どうして抱きしめられてるの? 心の中で叫ぶ声は不二に届かない。 放心状態のあまり、これは夢だと決めつけたの耳に、不二の少し低めの声が届く。 「僕は君が好きなんだ」 「え…いま、なんて…?」 は黒い瞳を潤ませて、不二を見上げた。 彼女の瞳が、もう一度言って欲しいと言っている。 「僕はが好きなんだ。は?」 耳元で甘い声が囁く。 は不二のジャージを手でぎゅっと握って。 「私も…不二くんが好き」 とても小さな声だったが、不二にはしっかり聴こえていた。 不二は腕の中のが愛しくて、包み込むように抱きしめた。 あの時、訊けなかったけど――― 柔らかな唇で紡がれる言葉に、不二は耳を傾けた。 END BACK |