その写真を見たのは、4年前の初夏。中学一年生の時だった。
 初夏と言っても6月半ばで、毎日のように雨が降っていた。



「ねえ、手塚。ちょっと付き合ってくれない?」

 テニスに雨は大敵で、体育館での筋力トレーニングを中心とした室内練習が続いていた。
 今日も朝から降り続いている雨は止むことがなく、今も鉛色の空から落ちてくる。
 部活を終えた不二は部活仲間兼クラスメイトの手塚と肩を並べて歩いていた。
 学校へ続く坂道を下りながら、手塚は視線を不二へ向ける。

「どこに行くんだ?」

 静かな口調の手塚に、不二は楽しそうに口を開く。

「写真展」

「写真展?」

「うん。中央通りに大きな写真館があるでしょ? そこで開催してるんだ。 どう?手塚」

「かまわない」

「フフッ…ありがとう」

 そうして二人は、たわいない会話を交わしながら、写真展へ向かった。


 



ずっと探していた






 色鮮やかに咲く紫陽花の葉についた雫が、太陽の光に反射している。
 昨日の夕方から降り出した雨は上がり、空は青く広がっていた。
 その空の下、青春台の外れにある自然公園の一角で、不二は紫陽花をぼんやりと見ていた。
 平日と土曜日は部活が終わってから。
 休日は部活のない日は朝から。部活のある日は終わったらすぐに。
 一秒さえも時間が惜しくて、梅雨の間は―――紫陽花が色付いている間は、毎日足を運んでいた。
 けれど、今年もまだ見つけられずにいる。
 自分でもどうかしていると思うが、諦め切れない。

「・・・毎日サボるワケにいかないからなあ」

 ひとりごちて、不二は溜息を吐いた。
 授業も部活も出ずにここへ来ることができれば、可能性は限りなく高くなる筈だ。
 だからと言って毎日学校をサボることはできない。
 仮にサボって一日中いたとしても、絶対に逢えるという保証はない。

 あの日から、すでに4年の歳月が流れている。
 いい加減に諦めるべきなのかもしれない。
 ふとそんな考えが頭を過ったが、ひとつ頭を振って不二はそれを振り払った。





「姉さん。占って欲しいコトがあるんだ」

「構わないわよ。でも、珍しいわね。周助がそんなコト言うなんて」

 本当に驚いたらしく、由美子は僅かに茶色い瞳を丸くしていた。

「なにかあったの?・・・写真展で」

 由美子は茶色い瞳を僅かに細めて、弟を見つめた。

「うん。だから、占って欲しいんだ」

 由美子を見つめる色素の薄い瞳は、真剣だった。

「わかったわ」

 そして由美子がタロットカードで占った結果は―――。




「一年後の出逢い。隠された真実はその先に・・・か」

 不二は色素の薄い瞳を細めて呟いた。
 姉の占いはよく当る。それは世間でも評判だから、疑ってはいない。
 けれど、『出逢い』と言われても、知っているのは という名の女性だということだけ。
 彼女の写真が賞を取っていたが、表彰式は前日に終わっていたから、顔は知らない。
 だから、もし逢っていたのだとしても、不二にはわからない。
 もしかしたら、という女性に一昨年、出逢った。彼女は という名前だった。
 出展の際に本名を明かさないでいたなら彼女かもしれないと思い、不二は思いきって訊いてみた。

先生。写真が趣味だったりしませんか?」

「写真?見るのは好きよ」

 穏やかに微笑んで言った は、嘘をついているようには見えなかった。
 じっと見つめていたが、不思議そうに首を傾けるだけで、焦りや動揺といったものはない。
 それからも不二は が気になり、目で追い掛けていた。
 確信はなかった。けれど、彼女のような気がしていた。
 そして時はあっという間に過ぎていき、彼女は大学の実習で来ていたから、夏休み明けには大学へ戻ってしまった。

 不二は何気なく見上げていた空から目の前に咲いている紫陽花に視線を滑らせた。
 4年前見た写真の紫陽花と同じ色の、瑠璃色の紫陽花。
 花弁に残る雨の雫が陽光に輝きながら、ぽたりと落ちた。
 その瞬間。

「不二くん?」

 柔らかく優しい声が耳に届いた。
 不二は色素の薄い瞳を驚きに瞠って振り返った。

「あ、やっぱり不二くん」

 視線が合うと、首を傾けて柔らかく微笑んだ。
 笑顔も、声も、仕種も、記憶しているものと同じ。

先生」

「もう先生じゃないわ。・・・教師にはならなかったの」

  は不二の視線から逃げるように、黒曜石の瞳を逸らせた。
 彼女の言葉に不二は瞳を驚きに見開いた。
 あんなに熱心に頑張っていたのに。
 教師になりたいの、と目を輝かせて言っていたのに。
 様々な憶測が頭の中を駆け巡るが、それを全て飲み込んで、不二は の言葉を待った。

「・・・不二くんに謝らないといけないことがあるの」

 柔らかな唇で言葉を紡ぎながら、 は不二に視線を合わせた。
 黒曜石のような瞳が揺れている。けれど、今度は瞳を逸らさない。

「・・・私、あなたに嘘をついたわ」

 その言葉に不二の顔に驚きが広がった。
 どくん、と鼓動が跳ねる。
 思い当たるコトはひとつしかない。

「もしかして、写真をやってる?」

 逸る気持ちを押さえて、不二は言葉を紡いだ。
  はコクンと頷き、申し訳なさと悲しみが入り混じったような表情を浮かべた。

「あの時ね・・・悩んでいたの。選べなくて、迷ってた」

 言葉を区切って、 は空を見上げた。
 
「青学に実習に行く一年前だったわ。教師になる、って悩んだ末に決めたのにダメだった。
 ・・・これで最後って決めた写真展で賞をもらったの。そうしたら諦めきれなくなっちゃって。
 でも、大学に行かせてくれた両親には言えなくて、一年間、ずっと黙ってた」

さん・・・」

 彼女の名前を呼ぶと、黒曜石の瞳が不二に向けられた。
  は瞳を細めて、悲しそうに微笑んで。

「・・・もう一度あなたに逢えるなんて思わなかった。
 優しく微笑んで、ずっと見ていてくれた人と逢うなんて思ってなかった」

 表彰式の翌日が写真展の初日で、 は午後になって会場に来ていた。朝から来たかったのだが、どうしてもキャンセルできない用事があったから。
 自分の撮った写真をどんな人が見てくれるのか、ドキドキしながら少し離れた所に立っていた。
 足を止めて写真を見てくれるだけで嬉しかったから、綺麗だと聞こえる度に胸が踊った。
 なんて単純なんだろうと思いながらも、幸せを感じていた。
 それからしばらくして、窓を叩く雨音が強くなり、人が疎らになってきた頃。
 不二と手塚が会場を訪れた。
 初めは二人を意識していた訳ではないが、二人が肩に掛けているテニスバッグを見て後輩だとわかり、自然と目で追い掛けていた。
 壁に掛かる写真を一枚一枚ゆっくり見て歩いていた二人が、 の撮った写真の前で足を止めた。正確に言うなら、先に足を止めたのが不二で、それを見た手塚が立ち止まったのだった。
 手塚が微動だにせずに写真を見ている友人の横顔を覗き見ると、彼は切れ長の瞳を和らげて優しく微笑んでいた。愛しいものを見つめているかのような不二に手塚は瞳を僅かに瞠る。

 ―――・・・柔らかくて、それでいてキレイだよね。心が温かくなる。

 不二の唇から溢れた言葉が、近くで様子を見ていた の耳に届いた。
 優しい声がストンと胸に落ちて。
 有名な写真家の評価よりも嬉しくて。
  は誰も見ていないのが惜しいほどの微笑みを浮かべた。

 それから一年が過ぎ、大学三年になった は母校である中等部へ教育実習に行った。
 
「不二くんのコトは実習に行く前から知っていたの」

 青学は中等部、高等部、大学部があり、校舎は離れて建っている。
 けれど、壁を隔てた距離でも、中等部の公式テニス部にすごい新人が入部したという噂は、大学部に流れてきていた。噂の新人は二人で、その一人が不二周助だった。
 華麗なテニスをする人で、青学生は言うに及ばず、他校生からも天才と呼ばれているということ、彼が本気を出した姿は誰もみたことがない、など、人物像が想像できそうでできないような噂ばかりだったが。

「でも・・・あなたが不二くんだとは思ってもみなかった。
 ・・・本当は真実を話そうと思ってたの。でも、できなかった」

「どうして?」

「‥‥‥気がつくと私はあなたを追い掛けていたわ。
 初めはいつ話そうってタイミングをみていただけだった。
 けど、そうしているうちに―――」

 不二くんという人を知って、好きになっていたから・・・。

 風に溶けてしまいそうな小さな声が耳に届いて。
 不二は色素の薄い瞳を驚きに瞠って、ついで瞳を細めると を見つめた。

「嬉しいよ」

「・・・え?」

「僕も さんを見ていたんだ。ずっと気になって…ね。
 初めは写真を撮った人かもしれないって思って見ていたんだ。
 けど、いつの間にかそんなコトはどうでもよくなって・・・ さんを探す僕がいた。
 写真の人だとかそうじゃないとか関係なく、僕は さんに惹かれていた。
 それに、ここにいたらあなたに逢えるかもしれないって思ってたんだ」

 首を傾げて嬉しそうに微笑む不二に、 は首を横に振って。
 切なそうに黒い瞳を伏せた。

「私、あなたの隣にいられない」

「僕が嫌いになったってコト?」

「違うわ。・・・今でも好きよ」

 ゆっくり瞳を開けて、 は不二を見つめた。

「プロを目指してるって聴いたわ。だから私はダメよ」

 開花されていない才能がまだ残っている彼。
 テニスをしていて不二周助という名を知らない人はいない。
 これから先、彼はもっと有名になってくる。
 今は国内だけでも、いずれ世界でも有名になってくるのは間違いない。

「ダメって・・・もしかして、僕に相応しくないとか思ってる?」
 
 穏やかな笑みを消し、不二は を見つめた。
 彼の強い視線から は瞳を逸らすことができない。
 
「・・・私、23歳よ?」

「だから?」

「私なんかよりもっと可愛いコがいるでしょう?」

 こんなコト、本当はいいたくないのに。
 本当は誰よりも傍にいたいのに。
 だけど、私は―――。

「・・・自信がないのは僕も同じだよ?」

 その言葉に の瞳が驚きに見開く。
 それは、今まさに口にしようとしていた言葉だった。

「年の差は縮められないし、僕と さんは生活環境も立ち場も違う。
 いつも一緒にいられるとは限らないから、不安に感じる時があると思う。
 だけど僕は さんの隣にいたい。あなたが好きだから」

「不二くん・・・私でいいの?」

「うん。 さんがいいんだ」

 眦に涙を浮かべて震えた声で訊く に不二はしっかり頷いて。
 華奢な身体を腕の中に閉じ込めた。
 
「これからは僕の隣にいて」

 甘い響きを含んだ声が耳に届く。
  は不二を見上げて首を緩く傾けた。

「ずっと周助くんの隣にいるね」

 白い頬を微かに赤く染めて、 はふわっと微笑んだ。
 その微笑みに不二は瞳を細めて嬉しそうに微笑み返して。

「好きだよ」

「私も好き・・・」

 お互い幸せそうに微笑み合う。

 そんな二人を祝福するように、瑠璃色をした紫陽花が風に揺れていた。










END

Thank you for the fourth anniversary.
2006.06.18

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