初めて彼女に逢った日を、今でも鮮明に覚えている。
 昨日あったばかりの出来事のように、心の中に強く残っている。
 あの日はとてもいい天気で、部活が休みになったのはもったいないと思ったけど、時間が出来たからいつもと違う本屋に行ってみようと足を向けた。
 気まぐれだったけど、何かあるような、そんな気がしていた。
 そしてそれは、僕にとって忘れられない日になった。

 僕が彼女と初めて逢ったのは、去年の三月末――月が変われば、高校三年生になる時期だった。




 
Dearest You




 空は青く、雲ひとつない晴天。春の陽射しが柔らかく地上へ注いでいる。風はなく、ぽかぽかと心地よい天気だ。
 テニスをするにはもってこいの天気だけど、放課後の部活は休みになってしまった。ラケットとボールはテニスバッグに入っているから、場所があればテニスをすることは可能だ。一人で練習するのもいいけれど、ストリートテニス場に行けば、知り合いがいるかもしれない。もし誰もいなくても、それはそれで構わない。
 僕は少し考えて、ストリートテニス場へ行くのはやめた。
 練習が休みなのは久しぶりだし、早く帰れたから、本屋へ行こう。時間は十分あるし、いつもの店じゃなくて南口の店へ行ってみよう。青春台駅の南口にあるそこは閉店時間が午後四時と早く、休みの日でもなければ行くことができない。こじんまりとした本屋だが、写真集の品揃えがよく、海外の本も扱っている。
 駅構内を抜けて南口に出た。
 本屋へ続く道を歩いていると、ふと見慣れない店を見つけた。店先に小さな看板が出ている。
「Tea Shop Peaceful…」
 紅茶の店?へえ、こんな所に出来たんだ。どんな店なんだろう?
 店の名前と落ち着いた蜂蜜色の外観に惹かれて、店の扉を引いた。
「いらっしゃいませ」
 ふわりとした優しい微笑みを浮かべた女性に、僕の顔にも自然に笑みが浮かぶ。
 表面だけの微笑みではなく、心の底から微笑んでいるのがわかったから。
 興味と好奇心で入った店だったけれど、三坪程の店内は明るく穏やかな雰囲気で、アンティークの棚に紅茶が並んでいて、小さなカウンターがあった。そして壁際に茶葉が入っているだろう木箱が積まれている。そんな喧騒を忘れるような素朴な雰囲気に、心が和む気がした。
 ただ、茶葉を求めて入ったのではなかったことに、僕は少し後悔した。店に入ったからといって、何か買わなくてはいけないということはない。けれど僕は、目の前の女性に初対面だけれど、気落ちさせたくない。そんなことを思っていた。
 花のような笑みに微かでも翳りが帯びるのを見たくなかったのかもしれない。
「よかったらそちらで紅茶をお飲みになって行きませんか?」
「え?」
 小さなカウンター席を手で示されて、僕は戸惑った。
「今日オープンしたばかりなので、いらしてくださったお客様にサービスさせていただいてるんです」
 断るのは気が引けた――というより、断れなかった。
 腹を決めて、三つある椅子の一番右端の椅子を引いて座った。
「お好きな紅茶はありますか?」
 僕の正面まで歩いて来て、女性は訊いた。
 そんなことを訊かれるとは思っていなかったので少し迷って、ダージリンを淹れてもらうことにした。
 少し待っていてください、と女性は小さなキッチンへ向かった。
 彼女がポットで湯を沸かし紅茶を淹れている姿を、手馴れてるなぁ、と店を経営するくらいなんだから当たり前なことを思いながら見ていた。
 あの人が淹れる紅茶はどんな味なんだろう。微笑みのように優しい味だろうか。それとも店の名前のように和ませてくれるのだろうか。
 紅茶の用意をしている音だけが小さな空間に響いている。会話はないけれど、沈黙がかえって心地よく感じる。
「お待たせしました」
 その声と一緒に、カップに注がれた紅茶がテーブルに置かれた。ソーサーの横にクッキーが二枚添えられている。
「少し経つと味が変わるので、よかったらお飲みくださいね」
 ティーコゼーをかぶせたポットをわきに置いて、女性は微笑んだ。店に入った時に見たのとは少し違う微笑みだった。
「いただきます」
 僕がカップへ手を伸ばすと、女性はごゆっくりどうぞ、と離れていった。
 じっと見られているのは落ち着かないけど、離れていったことに僅かな寂しさを覚えた。
 ――今日初めて逢ったばかりで、僕は何を……。
 心の中のモヤモヤした気持ちを消すように、カップを口に運んだ。
 花の香りに誘われるように飲んだ紅茶は、柔らかな甘みと微かな苦味がした。
 とても美味しい。けれど、まるで今の僕の心を表現しているみたいだった。
 視線を彼女がいる方へ滑らせると、僕に背を向けていた彼女が振り向いた。タイミングよく振り返られて、思わずドキリとする。
 驚く僕に彼女が気づく筈もなく、彼女はこちらに歩いて来た。
「いかがですか?」
「とても美味しいです」
 そう言うと、女性は嬉しそうに微笑んだ。
「そう仰っていただけると嬉しいです」
 少しはにかんだような微笑みは、可愛らしかった。彼女の歳は姉さんと同じか少し下ではないかと思う。けれど、そんなことを――年上だというのを忘れてしまうような笑顔だった。
「あの――」
 貴女の名前が知りたい、と言いそうになって、口を閉ざす。
 これじゃナンパしてるみたいだ。
「部活はテニス部、ですか?」
 不意に耳に届いた声に、僕は瞳を瞬いた。
「あ、ごめんなさい、突然」
「いいえ、全然。でも、なぜそんなことを?」
「私も学生時代テニス部だったから、あなたのバッグを見て懐かしくなってしまって。急におかしなことを訊いてごめんなさい」
 白い頬を赤く染めて謝る姿が、同級生の女の子でも見ない仕種が可愛いと思った。
 年上とは思えない表情に、思わず頬が緩む。
「おかしなことなんて何もないですよ」
 そう、おかしいことなんてない。
 話ができるきっかけができて嬉しいくらいだ。
 僕の言葉に安心したのか、彼女はホッとしたように微笑んだ。
「今日は休みになってしまったけど、いつもなら今頃はテニスをしています」
「いい天気なのに残念でしたね」
 彼女はまるで自分のことのように、眉を曇らせた。
「でも、休みにならなかったら…」
 貴女と逢えなかった、と言いたかったけど、違うことを言った。
「この店に来られなかったと思うので、よかったですよ」
「…あなたは優しい人ですね」
 今ならもしかして…。
「あの、僕は不二って言います」
 女性は驚いたように一度瞳を瞬いたけど、ふわりと笑って。
「私はオーナーの、と言ってもスタッフは私一人だけですけど、です」
 さん、と心の中で繰り返した。
 彼女の口から名前を聞いた。ただそれだけなのに、無性に嬉しい。
 僕は意外と単純なんだな、と胸中で苦笑する。
 その時、店の扉が開いて、客が入ってきた。
「いらっしゃいませ。 すみません、不二さん。ちょっと失礼しますね」
 そう言って離れていった彼女――さんの姿を今度は嬉しい気持ちで見送った。
 カップの紅茶は冷めてしまったけど、彼女と話したのは現実だったのだと実感させてくれた。
 店に来た客は二言三言、さんと話をして、購入した紅茶が入った紙袋を手に帰っていった。
 僕はその間、彼女の仕事をしている姿を、無意識に横目で追っていた。
 さんは客が帰ったあと、小さな袋を手に、カウンターへ戻ってきた。
「よろしかったら、家でお飲みください」
 笑顔でさんが両手を差し出す。華奢な手の上には、小さな蜂蜜色の袋。
「お店にいらしてくださったお礼です」
「え、でも…」
「あ、押し付けるつもりはありませんから、無理にとは言いません」
「いえ!」
 自分でも驚くほど大きい声が出た。
「すみません、大声で。お言葉に甘えていただきます」
 好意に甘えて、差し出された小袋を受け取った。
「…差し出がましいかもしれませんけど、お時間は大丈夫ですか?」
「え?」
「お気を悪くされたらごめんなさい。ふらっと立ち寄られたように見えたので」
「店の名前が素敵だったので、入ってみたんです」
「それはありがとうございます」
 頭を下げるさんに、興味で入った僕は申し訳ない気持ちになった。
「よろしかったら、またいらしてくださいね」
 言葉の意味が飲み込めない僕に、彼女は緩く首を傾けた。
「何かおかしいことを申し上げましたか?」
 茶葉を買いにきたんじゃない、ということをさんはわかっているんだ。
 でもそんなこと言えないから…もしかして、僕が帰りやすいようにわざと?
 考えすぎだろうか。いや、でも、そんな気がする。
「いいえ。来週の木曜日に、また来ます」
「はい。お待ちしています」
 僕は店を出て、本屋には行かずに家に帰った。
 ぽかぽかする心が、どこかに寄ったら消えてしまう。そんな気がして。



 週が明けて、木曜日。僕は店へ行ってさんと少し話をし、紅茶を買った。
 それから僕は、二週間に一回、彼女の店に行くようになった。
 練習で疲れた身体も、彼女に逢うと不思議と軽くなったし、なにより彼女に逢いたかった。
 店に通ううちに親しくなり、会話はため口となった。とは言っても、僕が彼女にそうして欲しいと頼んだからなんだけど。そして、彼女と――さんと名前で呼び合うようになる頃、季節は初夏になっていた。
 外で逢うことは一度もなかったけれど、僕は嬉しかった。さんの店で二人でいられる時間が。
 大切で手放したくなくて。冬になる頃には、さんを好きという気持ちが溢れて、どうしよもなくなっていた。
 こんなに誰かを好きになれることがあるなんて、彼女に出逢うまで知らなかった。彼女に逢わなかったら、知らないままだったかもしれない。

 好きだ、と思うだけは苦しくて、僕は気持ちをバレンタインに言うことに決めた。
 学校が終わりすぐに花屋へ行き、頼んであったブーケを受け取った。さんが好きだと言っていた白いトルコギキョウの可憐な花束。
 喜んでくれるかな、とか、告白の言葉を頭の中で何度も繰り返したりして、彼女の店へ向かった。
 店に着くと、ちょうど来ていた客が帰るところだった。
「いらっしゃい、周助くん」
 笑顔で迎えてくれたさんに、僕も笑みを返す。
「こんにちは、さん」
 棚を整理していたさんに近づき、後ろ手に持っていたブーケを差し出した。
さん。貴女が好きです。僕と付き合ってください」
 さんは驚いたように黒い瞳を瞠った。けれどすぐに微笑んで。
「はい、喜んで」
 白い頬を赤く染めて、さんはブーケを受け取ってくれた。
「可愛い花束をありがとう。嬉しいわ」
「喜んでもらえて僕も嬉しいよ」
 さんも僕を好きなんじゃないかって思っていたけど、確信があった訳じゃない。だから「YES」と言ってもらえてホッとした。
「周助くん」
「ん?」
「私も…私も言おうと思っていたの。あなたが…周助くんが好きです、って」
 でも私、周助くんより五歳も年上だし、きっと迷惑だって思ってたから…だから…。
 蚊の鳴くような小さな声で言うさんを僕は抱き寄せた。
「迷惑な訳ない。だから、これからも僕を好きでいてくれる?」
 は僕の腕の中でコクンと頷いて。
「周助くんが好きでいてくれる限り」
「それって僕がいつか心変わりするみたいな言い方だね」
「そ、そんな意味じゃ…!」
 慌てるに僕はクスッと笑う。
「冗談だよ。僕の最愛の人はだけだしね」
 大好きだよ、と耳元で、桜色に染まった頬にキスをした。



 それから14日後。
 僕はの家を訪れていた。
「誕生日を一緒に過ごして欲しい」
 バレンタインの日にそう言ったら、は二つ返事で了承してくれた。
 僕は一緒にいてくれるだけで嬉しかったけど、彼女は店を臨時定休日にして一緒に過ごしてくれることになった。
 なんだか申し訳ない気がしたけど、が「少しでも長く一緒にいたい」と言ってくれた。だから、その言葉に甘えることにした。
 好きな人がそこまで言ってくれたのに、断れる訳がない。むしろ嬉しくて仕方ない。

「周助くん、ハッピーバースデイ!」
 花のような微笑みと一緒に差し出されたのは、がブレンドしたダージリンティー。
 プレゼントに何が欲しいか訊かれて、僕はが淹れた紅茶を飲みたいと言った。それも、僕だけが飲める紅茶がいいと贅沢なことを言ったのだが、は「わかったわ」と笑ってくれた。
 これで今年が閏年だったら最高なんだけど、という最愛の人といられることに感謝しないとね。
 彼女の優しい微笑み、彼女が淹れてくれたスペシャルティー。そして、彼女と一緒にいられる時間。
 僕の喜び、幸せに繋がる全ては、が隣にいてくれるから。
「ありがとう、。僕は幸せだよ」
「周助くんたら大袈裟よ」
 くすくす笑うの華奢な腕を引いて抱きしめると、笑い声がやんだ。
 トクントクンと早さを増したの心音が聞こえる。
「もうひとつ、プレゼントを貰っていいかな」
「え?う、うん。私があげられるものなら」
 その言葉に僕は瞳を細めて、の顔を覗きこむ。
「…瞳を閉じて」
「えっ、しゅ、周助くんっ?」
「心配しなくても、キス以上はしないよ」
 今は、ね。
 は頬を赤く染めて、黒い瞳を閉じた。
 微かに震える睫毛さえ、とても愛しい。
「好きだよ、
 囁いて、彼女との距離を縮める。
 との初めてのキスはとても甘くて、僕の心を幸せで満たしてくれた。




END

Dearest You 〜Syusuke's Birthday〜 お題「最愛の人」


BACK