約束




 雲ひとつない青空が広がっている。梅雨の最中とは思えない程いい天気だが、暑いと感じないのは、緩やかに風が吹いているからだった。
 左手方向に見える、みなとみらい地区に黒い瞳を向けて、が弾んだ声を上げる。

「わあ、雑誌とかで見たのと同じ」

 は横浜に来るのは今日が初めてだった。
 嬉しそうに笑う恋人の姿に、不二の顔にも自然に笑みが浮かぶ。



 名を呼びながら、不二は彼女の白い手を取って、指を絡めるように手を繋ぐ。
 そうして二人は並んで歩き出した。

 土曜日、も部活休みだったよね。横浜に遊びに行ってみない?
 そう言って不二に誘われたのは、三日前の学校からの帰り道だった。
 は生まれも育ちも東京なのだが、叔母の家がある神奈川には、小中学生の頃、夏休みや春休みに遊びに行ったコトがあった。
 けれど、叔母の家は鎌倉だったから、横浜に行ったコトは一度もなかった。
 新聞や雑誌で横浜の風景を見るたびに、いつか行きたいなと思っていたので、はすぐに頷いた。
 それに、初めての土地へ一緒に行くのが不二だというコトが嬉しかった。

 綺麗に整備された道をしばらく歩くと、やがて視界が開けてきた。
 左手に広がる海の向こうに、タワービルと半月型をしたビル、大きな観覧車が見える。

「・・・横浜に来たって感じがする・・・」

「クスッ、そうだね。今度来る時は観覧車でも乗ろうか?」

 不二の提案には一瞬だけ瞳を丸くして、ついで微笑みながら頷いた。

「うん、楽しみにしてる」

 それから少し歩くと、野原のような場所が見え始めた。
 それほど手入れをしていないのか、自然に任せたままになっている。けれど草が茂っているわけではなく、人が通れるように地面が見える道がある。
 自然を壊さない程度に人の手を加えているのだろう。人口のものという感じがしないのがいいと思える場所だ。
 数本の樹がある自然の園とも言えるココで、不二はシャッターを切った。
 ファインダーの中にいるのは、誰よりも愛しい恋人。彼女は淡いピンク色の野花を愛でている最中だった。
 の驚きに瞠られた黒曜石のような瞳が不二を捕らえる。

「カメラ持ってきていたの?」

「勿論。の写真、いっぱい撮ろうと思ってね」

 フフッと微笑む不二に、は複雑そうな顔をする。
 記念にと写真を撮ってくれるのは嬉しいけれど、春先のようなコトにならないだろうか。
 それがちょっと不安だったりする。

「あ、が怒るから、引き伸ばしたりしないよ」

 まるで心の中を読んだかのように言葉を付け足す不二に、はホッと息をついた。
 恋人が自分の写真を部屋に飾ってくれるというのは嬉しいけれど、それは普通の飾り方に限るのだ。
 いくらキレイに撮れているからと言われても、限度というものがある。
 
 ほどなくして、遠くに見えていた目的地に到着した。
 青空の下、赤煉瓦の建物がよく映えている。
 観光地としても有名で、今日は土曜日ということもあってそれなりに人が多い。

「周くん、海の方に行きたい」

 満面の笑みで言う恋人が可愛らしくて、不二はクスッと笑みを零して頷く。

「うん、そうしようか」
 
 赤レンガ倉庫の外には飲み物やアイスを売っている出店があり、また倉庫の中には衣類や置物、飲食店がある。
 けれど、まずは海を堪能したいという恋人の願いを叶えるべく、まっすぐ海に向かった。
 海に近づくにしたがって、潮の香りが濃くなる。
 少し高めの堤防の所に着くと、は目の前に広がるマリンブルーの海と白いレインボーブリッジを改めて見つめた。
 海面に太陽の光が反射し、煌いていてとてもキレイだ。空にはカモメと思われる鳥が飛んでいて、それもまたキレイな景色を更にキレイに見せている。
 吸い込まれるように景色を見つめていると、不二が自分の名を呼ぶ声が耳に届いた。
 が振り向くと同時に、シャッターを切る音がした。

「うん、いい笑顔」

 不二が色素の薄い瞳を細めて、満足そうに微笑む。
 その微笑みに彼がカメラを持ってきているコトをは思い出した。
 油断してるとヘンな顔を撮られてしまうかも、と注意していたのにそんなコトはすっかり頭から消えてしまっていた。
 
「…ホントにいい笑顔だったらいいけど」

 小声で複雑な顔をするに、不二は首を傾げて微笑んだ。

「すごく可愛かったから安心していいよ」

 甘いセリフにの白い頬がほんのり赤く染まる。
 いつでもどこでも周くんてストレートなんだから。
 でもそういう彼もカッコイイと思っているのは、彼には内緒だ。
 は気を取り直すと、不二の手にあるカメラに視線を向けた。

「周くん、私も撮ってみたい。いい?」

「いいけど、がそんなコト言うのって初めてだね」

 不二は驚きに軽く瞳を瞠ったが、はい、との手にカメラを渡した。
 はカメラを受け取ると、不二を見上げて微笑んだ。

「周くん、動かないでね」

「え?僕を撮るの?」

「うん。いつも撮られてばっかりだもん」

 お返しだと言わんばかりの無邪気な笑顔に不二はクスッと笑う。
 彼女を撮るのもいいけれど、撮られるのも悪くない。
 がカメラを構えてファインダーを覗くと、柔らかく微笑む不二がいた。
 優しい微笑みなのに男らしくて、ドキンと胸が高鳴る。
 ファインダー越しに見つめられているような気がして落ち着かないまま、はシャッターを切った。
 可愛いと言われてばかりだから、カッコよく撮れたよ、と言って彼の照れた顔を見たいと思っていたのだが、そんな野望は不二の笑顔の前に崩れた。

「ちゃんと撮れてなかったらごめんね、周くん」

 はカメラを不二に返しながら申し訳なさそうに言った。

「心配ならもう一度撮ればいいじゃない」

 確かにそれはそうなのだが、不二の視線に自分の心臓が持ちそうにない。
 だから、何度撮っても結果は同じだろうと思う。

「ありがとう。でも、次の機会にする。それより、二人で撮りたいな」

 不二は微笑んで言うに頷いて、近くにいる人に撮ってもらおうと視線を動かした。
 すると、色素の薄い瞳に見知った顔が映った。
 これだけ人がいたら、知り合いに会うかもしれないとは思っていたが、まさかそれが彼になるとは思わなかった。
 だが気づいたのは不二だけではない。不二が気づいたと同時に、幸村も不二に気づいていた。
 
「…やあ、不二。久しぶりだな」

「幸村。こんなところで会うなんて奇遇だね」

「ああ。青学も休みなのか?」

「うん」

 親しそうに話をしている不二と幸村の会話を聞きながら、は幸村の隣へ視線を向けた。
 おそらく幸村の恋人だと思われる女性は、とても美人で人目を惹くタイプの人だった。
 の視線に気づいた幸村の彼女が、の方へ視線を向ける。
 瞳が合って、は見とれていた自分に気づき、慌てて頭を下げた。

「こ、こんにちは。あの、お邪魔しちゃってごめんなさい」

 申し訳なさそうな表情をするに、幸村の彼女は一瞬瞠目してから微笑んだ。

「いいのよ、気にしないで。声をかけようって言い出したのは精市なの。だからお邪魔をしたのは私たちの方よ」

 幸村の彼女が困ったように眉を顰める。
 実は先程も立海の仁王とその彼女を見かけた幸村は声をかけていたのだ。
 今度は止めようと思ったのだが、幸村の行動が早く、間に合わなかった。
 それで呆れたような困ったような表情をしているのだが、がそれを知る筈もなく、不二と幸村は仲がいいという結論に達したのだった。

「じゃあ頼むよ。 

 幸村にカメラを渡すと、不二は恋人の名前を呼んだ。
 状況がわからずにきょとん、とするに不二は手短に説明する。

「幸村が写真を撮ってくれるってさ」

 いつのまにそういうコトになったのかわからないまま、海を背に幸村に写真を撮ってもらった。
 
「ありがとう」

「いや。 じゃあ俺たちはこれで。青学との試合、楽しみにしてるよ」

「ああ、僕も楽しみだよ」

 一見、穏やかに会話を交わしているように見えるが、二人とも相手を見る瞳は鋭く、口元に不敵な笑みが浮かんでいる。
 少し恐いような雰囲気だが、こういった不二をはあまり見るコトがないので、少し嬉しかった。

「ん?どうかした?」

「えっ・・・その、夜になったら蒼い光がつくんでしょう?」

 見とれていたと口にできる筈もなく、は先程言おうとしていたコトを唇に乗せた。
 写真を撮られたり、撮ったり、撮ってもらったりしていて言うタイミングがなかったのだ。
 横浜に遊びに行くのなら、見たい景色、見たい場所があった。
 そのひとつが横浜の夜景だった。

「うん、幻想的でなかなかキレイだよ」

「…ダメかな?」

 首を傾けて訊くの言葉の意味を理解した不二が頷く。
 あまり遅くなってしまっては、いくら信用してもらっているとはいえ彼女の両親に申し訳がたたないけれど、それほど遅くならなければいいだろう。
 彼女を家まで送っていくのはすでに決定事項なのだから、不二に反対する理由はない。
 むしろ、の喜ぶ顔が見られるのなら、進んでそうしたいと思う。

「ありがとう、周くん。嬉しい」

 楽しみだと微笑む彼女に、不二は色素の薄い瞳を愛しそうに細める。
 
「赤レンガ倉庫の方に行ってみようか。
 君の好きそうなカフェがあったから、そこから海を眺めてもいいと思うし」

「うん」

 再び手を繋いで、二人は今来た道を戻って、赤レンガ倉庫に向かった。
 カフェは何店舗かあったが、海が見えるオープンスペースのあるカフェは二店舗あり、ひとつは外気の当たるカフェで、もうひとつはガラス張りになっているカフェだった。
 雰囲気的にガラス張りになっているカフェの方が落ち着いていたので、そこへ入った。
 オープンスペースにと希望すると、運がよく空いていてすぐに席に案内された。
 不二はを海が見える席に座らせて、自分は向かいに腰を下ろした。
 小一時間程前に軽く食事を取っただけだったので、不二はコーヒーとサンドイッチを、は紅茶とキッシュを注文した。

「……フフッ、幸せそうな顔してる」

「そんなに顔に出てる?」

 恥ずかしそうに頬を白い手で押さえるに不二はうん、と頷く。
 するとは数秒の沈黙後、不二の後ろに見える海を見つめながら言った。

「……海はキレイだし、紅茶もキッシュも美味しいし…」

 それに周くんがいるから幸せ…

 耳を澄ませていなければ聴こえないほどの小さな声を不二の耳は的確に捉えていた。
 不二は切れ長の瞳を細めて、この上ないほど優しく微笑む。

「僕もだよ」

 その言葉には白い頬を赤く染めて、そして嬉しそうに微笑んだ。



 話をしながら海と食事を堪能した後、倉庫内の店を見て回ろうと、カフェを出た。
 土産物、雑貨、服や帽子、果ては家具まで売っている店がある。坪数が狭くてもこれだけ色々な店が入っていれば、購入目的がなくても買ってしまいそうになる。
 その中で一際目を惹く店があった。

「・・・キレイ」

 通路から棚に並べられたものを見て、が感嘆の声を上げた。
 近隣の店より広いスペースの店内には、硝子の花瓶、皿やグラスなどの食器、そして硝子細工の置物など、ガラス製品が溢れている。
 よりよく見えるように商品に照明を当てているといえばそれまでなのだが、繊細で美しいものには目を惹かれる。

「入ってみていい?」

「もちろん」

 がそう言うだろうことは予想できていたので、不二は笑みを零した。
 不思議な形の花器を見たり、身近な動物や海の生物の小さな硝子細工を楽しそうに見るに、不二の顔にも自然と笑みが浮かぶ。
 ゆっくり店内を見て回っていると、が硝子アクセサリーを陳列している棚の前で足を止めた。

「可愛いアクセサリーがいっぱい。あ、これに似合いそう」

 アクアブルーの月がついたイヤリングを手にとって、不二に同意を求めたり、由美子さんだったら大人の女性だからこういうのとか似合いそうよね、と言いながら嬉しそうに見ている。
 心底楽しそうにしているを不二は穏やかに見つめていたが、不意にの声が止んだ。
 どうしたのだろうとの視線を追うと、彼女は小さな桜色の花がついたネックレスをじっと見つめていた。

、つけてみたら?」

「えっ?でも…」

 どうしようかと悩んでいると、近くにいた店員に「鏡がございますので、どうぞ」と鏡を前に置かれて薦められ、困って不二を見上げると、優しい瞳と目が合った。

「つけてあげる」

 不二はの手からひょいとネックレスを取り、留め金を外して細い首にそれをつけた。
 は黒曜石のような瞳で鏡に映る自分の胸元を見つめた。
 つける前は可愛くていいなと思ったのだが、実際につけてみると少し大人っぽいような気がする。
 少し似合わないかも、と思ったの耳に店員の声が届く。

「お客様は色白でいらっしゃいますから、よくお似合いですよ」

 店員はそう言ってにこにこ笑っているが、販売する立場である以上、多少の褒め言葉があるだろうと思う。
 どうしようかと迷っているの耳に、不二の声が届く。

「このままつけて帰ります」

「かしこまりました。ではこちらでお会計をお願いします」

 頷いて、店員とレジに向かう不二にの声がかかる。

「えっ、しゅ、周くん?」

 似合うよ、でも、こっちの方が似合いそうだよ、という言葉もなく、衝撃発言をした不二にが驚く。
 買うとしても自分でと思っていたし、なによりまだ買うかどうか迷っている最中だったのだ。
 慌てるに不二はフフッと微笑んで。

「似合ってるよ、。すごく可愛い」

「ホント?嬉しい…じゃなくって、自分で…」

 買うから、と続く筈の言葉は不二の声に遮られる。

「デートの記念に君にプレゼントさせて?」

 柔らかだが有無を言わせない語調で言われてしまっては、頷かざるを得ない。
 それに、似合うからプレゼントしたいと恋人に言われて断れるワケがない。
 ただ安いものではないから、気になるけれど。だからと言って半分払うというのも彼に失礼なので、後日、彼にお礼をしようとはこっそり決心した。



 赤レンガ倉庫を出た二人は、海を見ながら遊歩道を歩いて、山下公園に向かった。
 公園で花壇を見たり、大道芸を見たり散策をしながら散歩をして。
 その後は中華街に足を伸ばして、雑貨や中国茶を売る店などを見て回った。
 それから、辺りが夕闇に包まれた頃、あまり混まないうちにと中華街で夕食をとって店を出た。
 そして、ガス灯に包まれた遊歩道を戻り、赤レンガ倉庫へ向かった。
 ライトアップされ金色の光に包まれた赤レンガ倉庫は、昼間と違った美しさがあった。
 それを横目に見ながら、二人はレインボーブリッジが真正面に見える場所へ向かった。

「…また来たいな」

 黒い海に浮かぶ青白い橋を見つめて、が黒曜石のような瞳を細める。
 東京タワーから見える夜景もキレイだけれど、同じ高さの視線で見られる景色が気に入った。
 それに、今日は見られなかった場所にも行ってみたいと思う。
 来る時に不二と約束した遊園地にも行きたいし。
 そんな彼女の心情を読んだかのように、不二は柔らかな笑みを浮かべる。

が望むなら何度でも連れてきてあげる」

「嬉しい。楽しみにしてるね」

 首を傾けて微笑むを不二は愛しげに抱き寄せ、腕の中に閉じ込めた。




END


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