二人で抜け出して




 春の陽射しが心地よい、三月の終わり。
 麗らかな午後。青学男子テニス部の部員たちは他校での練習試合を終え、駅へ続く土手の近くを歩いていた。
 土手道は桜並木になっていて、いくつか開花した桜花が風に揺れている。春が来ていると思わせる光景に、皆の顔が自然と緩む。
 いまはまだ花はわずかしか開いておらず、蕾が大半を占めている。だが、あと一週間もすれば満開になるだろう。
「ねー、大石ー」
 菊丸は隣を歩く副部長を呼んだ。名を呼ばれた大石の視線が菊丸へ向けられる。
「花見したい」
 大石は耳に届いた一言に瞳を丸くした。不意を突く菊丸の発言は、今に始まったことではない。が、慣れることもない。
「いや、俺に言われても…」
 菊丸の言葉が「花見に行こう」だったのなら、返事の仕様があるが、「花見したい」と言われて、大石が戸惑うのはもっともだ。
 けれど、もし花見に誘われたとしても、男同士で行くのか、と疑問ではある。レギュラー皆で行くという手もあるが、面子を考えると、ちょっと遠慮したいような気がする。
 どうせなら可愛い彼女と一緒に行きたいが、一人身だからそれはできない。
「皆で行こうよ、花見に」
 にかっと笑う菊丸に、大石は人の話を聞いてくれ、と胸の内で突っ込んだ。
 そういうことは自分ではなく、部長である手塚に言えばいいのでは、と思う大石である。
 天を仰いだ大石の瞳に、蕾をつけた桜の枝が映る。
「…なあ、英二。花見は満開になってからでいいんじゃないか?」
 言いながら大石は菊丸へと視線を戻したのだが、隣に彼の姿が見えなかった。
 そのかわりに前の方から菊丸の声が耳朶に届いた。
「いつの間に…」
 っていうか、俺の立場は…。
 がっくり肩を落とした大石は、二人の会話を聞いていた河村に優しく慰められた。
 一方、ダブルスのパートナーとの会話を一方的に打ち切った菊丸は、一番前を歩いているマネージャーの横に並び、話をしている。
 ちなみに一番前は三人の部員が歩いていて、車道側から手塚、不二、マネージャーの順だ。
「ね、いい考えだと思わない?ちゃん」
「そうね。楽しそうだと思うわ。でも…」
 桜が咲いたら、皆で花見に出かけようよ。
 という、菊丸の提案はいいと思う。数日後に新学期が始まり、新入生部員が増えたら花見に出かける時間など取れないだろう。月が変わればすぐに地区予選となる大会が近くなり、当然練習時間が増える。多少の息抜きをする時間が取れても、ゆっくり遊ぶことは出来ない。なにより、桜が散ってしまって花見はできない。
 が、しかし、の一存で「じゃあ、花見をしましょう」と決められるわけではない。
 顧問の竜崎は、まあ少しくらいならいいだろう、と許可をしてくれそうではあるが、部を預かる部長――手塚の許可はそう簡単には出ないだろう。花見をする時間を作る、などということを手塚が許可するとは思えない。
 が言葉を濁して右側へ視線を向けると、手塚と目が合った。菊丸の声は普通の音量だったので、この距離なら話は全部聞こえていたに違いない。
「一週間後のミーティングの日ならばかまわない」
「えーっ!桜が散っちゃうじゃん!」
 満開でないにしても、大半の桜がいつ開花するのかは天気次第。今歩いている道に植えられている桜は蕾が多いが、青学近辺で見かける桜は二、三日中には満開になりそうなのだ。一週間も経ったらほとんど散ってしまっているだろう。
「ならば練習のあとで花見をすればいいだろう」
 軽く息をつく手塚に、菊丸は食い下がった。諦める気はないらしい。
「夕方になってからじゃすぐに日が暮れるじゃないか。肌寒い中で花見してちゃんが風邪引いてもいいのかよ」
「へっ?私?」
 話の中に自分を持ち出されたが驚きに黒い瞳を瞬く。
 すると、ずっと黙ったままの右隣を歩いていた不二が、口を開いた。
「英二。を巻き込まないの」
 不二の口元は微笑んでいるが、色素の薄い瞳は笑っていない。
 瞬時に身の危険を感じた菊丸は、笑って誤魔化した。
「たとえだよ、たとえ」
「それはわかってるよ。僕が言いたいのは、を引き合いに出さないで手塚と交渉しなよってこと」
 その言葉に菊丸は少し反省した。確かに男らしくなかったかもしれない。
 だがマネージャーを引き合いに出せば、厳しい手塚も許可を出してくれるのではないか、と思ったのだ。現にの名を出した時、手塚の表情に若干の変化があった。
 菊丸は気を取り直し、手塚の隣へと移動する。
「校外ランニングの途中でちょっとだけでもいいから」
「…なぜそんなに花見がしたいんだ?」
「春だから」
 菊丸が言うと、手塚は黙って視線を前に向けた。
 気持ちはわからないでもない。だが、部長として許可できる内容ではないことは確かだ。
 春休みを返上して練習をしているから、丸一日休日という日は少ない。けれど、花見がしたいのならば休日にすればいいだけの話だ。
 手塚との交渉を諦めずに続ける菊丸を尻目に、不二はを呼んだ。手塚と菊丸の様子をちらちら気にしていたの瞳が不二に向けられる。
「何?」
 首を傾けるに、不二は顔を近づけた。不意に近くなった不二の顔に、の心臓がドキンと跳ねる。
 「これから花見に行かない?」
 囁かれた言葉に声を上げそうになったに、不二は小声で「しっ」と言った。
 せっかく菊丸に聞こえないように声を潜めたのに、無意味になってしまう。
「でも、まだ咲いてないんじゃない?」
 不二が声を小さくした意味がわからないだったが、彼に倣って声を潜めて言葉を紡ぐ。
 結構咲いていると思う桜でも、まだ五分咲き程度の場所しかは知らない。それでも花見はできるが、やはり満開の桜で花見をしたいと思ってしまう。
「早咲きのところがあるんだ。今日あたり満開になってると思う」
「本当?」
 瞳に喜びを浮かべるに、不二は頷いた。
「だから行ってみない?」
「うん。じゃ、菊丸君にも教え――」
「英二には内緒」
 不二に言葉を遮られたは瞳を瞬いた。
「え、じゃあ…」
「そ。僕と君だけで。ダメ?」
 はぶんぶんと首を横に振った。
 ダメな訳がない。不二に――密かに好きな人に誘われて、断る筈がない。
 不二はクスッと微笑んで。
「走るから、手を離さないで」
「えっ?」
 右手を不二に繋がれて、は驚きに瞳を瞬く。
「こっそり抜け出したいけど、無理そうだから」
 不二はの手を引いて走り出す。
 抜け出した二人の耳に、菊丸の声が届く。
「い、いいのかな?」
 が走りながら問いかけると、不二は少しだけ後ろを振り向いた。
「解散してるし、大丈夫だよ」
 ぞろぞろと連れ立って歩いていたのは向かう駅が同じだからで、すでに解散しているから抜け出すのは問題ない。
 明日になって手塚に説教されるという心配も皆無だ。
「あ、あのね、不二くん…ど…」
 どうして誘ってくれたの、と訊けなくて、は言葉を飲み込んだ。
「どこまで行くの?」
「どこまで行きたい?」
「えっ?」
「フフッ、冗談だよ。隣町の方まで」


 皆より先に駅に着いた二人は、ホームに止まっていた電車に滑り込み、二駅目の駅で電車を降りた。
 そこから十五分程歩いて辿り着いたのは、芝生が一面に広がる野原のような場所。そこを囲うように、桜の樹が植えられている。
「わあ、すごい」
 桜を見上げてが嬉しそうに頬を緩める。花弁がよく見るソメイヨシノより色が淡く、ほんのりしたピンク色をしている。
「まだ満開には少し早かったかな」
 不二の言うとおり、よく見ると木々の枝が重なっていたりする場所は、まだ蕾のままだ。けれど、桜の美しさは変わらない。
 それに、満開だとあとは散るだけで少し寂しいけれど、まだ咲くと思うと気持ちが弾む。
「お昼寝したら気持ちよさそう」
「へぇ。もそういうこと思うんだ?」
「私だと意外?」
 が首を傾けて訊くと、不二は小さく笑って。
「気持ちよさそうに寝てる姿が目に浮かぶよ」
「それ、嬉しくない」
 半眼になるに不二はクスクス愉しそうに笑う。
「でも、横になるのは気持ちよさそうだよ」
 不二はテニスバッグを肩から下ろし、芝生の上にうつ伏せになり、両手で上半身を支えた。
「ね、ここに座りなよ」
 ポンポン、と不二が左手で自分の左側の地面を叩く。
 彼との距離の近さにはやや顔を赤らめたが、思い切って不二の傍らに腰を下ろした。
「あ、あんまり人がいないね」
 散歩をしている人が何人かいるくらいで、シートを敷いて花見をしている人の姿はない。
「夕方だからじゃない?」
「あ、そっか。夕方なんだよね」
 時刻は午後三時を過ぎ、夕方には少し早い。けれど、花見をするなら午前から午後にかけてする方が多いのだろう。
「こういう所にいると時間なんて忘れるよ」
 不二の声はからかうでもなく、優しく柔らかだったから、は「うん」と頷いた。
 それから陽が沈み、空が暁色に染まるまで、二人は寄り添うように桜を眺めていた。
 もう少しだけ二人でいたい、とお互いに胸の内で思いながら。




END

お話の元になっているイラストを背景に使用させていただきました。
イラストを描かれた春華さんより使用・加工許可をいただいておりますv

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