窓からは柔らかな日差しが差し込んでいる。 日差しで暖まった部屋の中、はベッドの上で、壁に背をもたれて座っていた。 複雑な光を宿した黒い瞳は、壁にかけた風景カレンダーに向けられている。 カレンダーの下方――末日の数字に目を遣り、溜息をひとつ。本日これで三度目の溜息だ。 は今、悩んでいた。 閏年ではない今年は、二月が28日しかない。それゆえに悩んでいる。 なぜなら、好きな人の誕生日が29日で、その日が今年はないからだ。 29日はないけれど、やはり二月中に「おめでとう」だろうか。はたまた、3月1日を2月29日としてお祝いすべきか。 どちらがいいのだろう。 「お誕生日おめでとう」 その一言のタイミングを決められない。 「毎年閏年ならいいのに」 本気で呟いて、は四度目の溜息をついた。 閏年ではない上に、28日は日曜日。そう、よりによって日曜日なのだ。 彼と付き合っているのなら家まで行って伝えることもできるが、自分は彼女ではなくクラスメイト――ただの友人に過ぎない。 彼の携帯電話のナンバーとメールアドレスは交換したから知っている。けれど、それは味気ない気がするのだ。 ゆえに、直接言おうと決めたのはいいけれど、いつ切り出したらいいのか決められず悩んでいる。 Timing 悩んでいたことの答えは、不二の誕生日前日の朝になっても決められなかった。 これほど自分が優柔不断な人間だとは思わなかった。 友人たちに相談をしてみようかと思ったけれど、いつにするか決めるのは自分でなければ後悔するだろうと思った。だから、相談はしなかった。 卒業式の予行練習の間、はずっと上の空で、気がついた時は下校時間になっていた。考え事をしながらも、どうやら身体だけは無意識に動かしていたようだ。それさえも、友人に名を呼ばれて気がついたのだけれど。 「にしちゃ珍しく朝からぼーっとしてたわね。面白そうだから放っておいたけど、声かけなきゃいつまでも帰れなそうだから」 「面白そうって…」 それが悩んでいる友人に言う言葉かと思ったが、自分が悩んでいることを彼女は知らないのだから、怒るのはお門違いだろう、と瞳を半分伏せるだけに留めた。 「ふふっ、ジョークよ、ジョーク」 眉間にしわがよってるよ、とはの眉間を右手の人差し指でつんと突いた。 「それにしても、どうしたのよ、。悩み事?」 「悩みといえば悩みだけど、が聞いたら呆れそうな事よ」 「それって…」 不二がらみ? の耳元に唇を寄せては囁いた。なぜ耳打ちするのかと疑問に思ったら、近くで不二が菊丸と談笑していた。そのことに少しだけ視線を動かした今、気がついた。 「……あたり」 かなわないなぁ、と言うように、は口元を掌で覆ってぼそりと呟いた。 「が悩んでる時はたいがいそうだからね。で、今日は?」 はの前席のイスを引いて座った。 完全に訊く体勢をした友人には諦めて悩みを打ち明けた。ひそひそ話よりも更に小さな声で。 が話し終るとは「確かに呆れるわね」と痛い事を平然と言ってくれた。 「だから言いたくなかったのに」 「あら、言ったのはじゃない」 それはが聞いたからじゃない。 そう言いたいのをはぐっと喉の奥に飲み込んだ。文句を言ったとて、のらりくらりとかわすに違いないのだ、この友人は。それでもやはり一言くらいは、とが思った時。 「ちゃん」 不意に名を呼ばれて視線を声がした方へ滑らせると、ひらひらと手を振る菊丸が映った。彼と話しをしていた不二の姿はない。おそらく自分たちが話をしている間に帰ったのだろう。 タイミングをひとつ失くした…かな。 そう思ったけれど、仕方がない。煮え切らない自分が悪いのだ。 「何?」 緩く首を傾げると、菊丸は右手をこまねいた。どうやら来いということらしい。 「あいつが来ればいいじゃない」 まるで自分に言われたかのように怒るをなだめて、は菊丸のいる席へ行った。 「ちゃん、いいものあげる」 「いいもの?」 「そ」 菊丸はにっと笑って、の華奢な手に何かを握らせた。 「じゃーねん。まった来週ー!」 言い終わるや否や菊丸は教室を出て行ってしまった。 「」 取り残されて呆然としていたは、に呼ばれて我に返った。 「何を渡されたの?」 は右手をお腹あたりまで上げ、そっと手を開いた。 菊丸に押し付けられるように握らされたものは、小さく折りたたまれた白い紙だった。 「、急用を思い出したから先に帰るわ」 「えっ?」 「ごめん、すっかり忘れてたわ。じゃ、バイバイ」 「あ、うん、バイバイ」 教室を出て行く友人の後姿を見送りながら、気を遣ってくれたのかもしれないと思った。でも、の事だから気遣いでないことも考えられるので、それはそれで少し複雑だが。 いつのまにか教室に自分ひとりという状況になっていて寂しく思っただが、気を取り直して渡された紙を開いた。 昇降口で待ってる 紙に書いてあったのはそれだけ。 差出人の名前はない。 けれど、これを手渡してきたのは菊丸だった。 そう考えると『昇降口で待ってる』というのは菊丸としか思えない。 「直接言えばいいのに。ヘンな菊丸君」 紙を元通りに折りたたんで制服のスカートのポケットへ入れ、マフラーを巻いて鞄を持ち、は昇降口へ向かった。 けれど、そこに菊丸の姿はなく、は首を傾げた。 もしかしてからかわれた、とか? ありえないことではないと思うが、菊丸はしないような気がする。もっともそれは思い込みや希望ゆえの答えにすぎないのだけれど。 あれこれ考えながらも、は下駄箱を開けて革靴を取り出すと上履きから履き替え、昇降口を出た。 その瞬間。 「さん」 不意に名を呼ばれて、は飛び上がるほど驚いた。実際彼女の口から小さな悲鳴が出たのだが、本人は無意識だったので気がついていない。 「ごめん、驚かせて」 申し訳なさそうに顔を曇らせる不二には首を左右に振った。 「ううん、平気。あっ、不二くん、菊丸君見なかった?」 不二が少し前から昇降口にいたとしたら、菊丸の姿を見ているかもしれない。そう思っては訊いた。 「英二なら少し前に大石と走って帰ったけど」 「えっ、帰った?」 驚くに不二は色素の薄い瞳を瞬いた。 「英二と約束でもあったの?」 「約束というか…これ」 はスカートのポケットから折りたたまれた紙を取り出して不二に渡した。 不二はそれを受け取って開き、色素の薄い瞳を瞠った。 なるほど、ね。 胸の内で呟き、僅かな苦笑を口元に浮かべる。 気を回してくれたのは嬉しいが、少しややこしくなった気がしなくもない。 「用事があったのは英二じゃなくて、僕なんだよね」 「えっ?」 黒い瞳を驚きに見開くに不二はちょっと笑って、紙を元に戻すと学ランのポケットにしまった。もう彼女が紙を持っている必要はない。というのは建前で、持っていて欲しくないというのが本音だ。 その理由はとても簡単だが、簡単に言葉にできない。 「明日、何か予定あるかな?」 「えっ、な、ないけど…」 「それならよかった。じゃ、待ってるから」 「待ってる?何を?」 頭がぐるぐる渦を巻いているようで、考えようとしてもまとまらない。はっきり言って、は展開についていけていなかった。 「君からの電話」 はかっちんと音を立てて固まった。 「――じゃなくて、直接が嬉しいんだけど、いいよね」 えっ、あの、それって、えっ、ええっ!? もしかして不二くん気づいてたの!? は声に出しているつもりだが全く声になっておらず、唇さえ微塵も動いていない。 「返事は貰えないのかな?」 首を緩く傾けて言う不二には頷いた。 返事をしないという意味ではなく、ただ反射的に頷いただけだったりするのだが、不二は了承の意味に取ったらしかった。 「よかった。明日、楽しみにしてる」 不二は嬉しそうににっこり微笑む。が常であったなら見惚れたに違いない笑顔だが、今の彼女にそのような余裕はない。許容量を軽く越えた言葉の数々にいまだ混乱ぎみだからだ。 「じゃ、帰ろうか。家まで送るよ」 不二に手を取られて、は焦った声を上げた。 知らない間にとんでもないことになっている。 「ふふふふふ不二くんっ!?」 どうして手を繋いでいるのかとでも言いたげなに気がついたが、不二は楽しそうにクスッと微笑んだ。 「手を繋ぐのはダメかな?」 「ダメとかそういうんじゃなくてですね」 「なら、何が不満なのかな」 「えっ、不満とかそういうんじゃなくて、どうして手を繋ぐのかなって」 「繋ぎたいから」 「だからどうし――」 不意に顔を覗き込まれて、は言葉を飲み込んだ。否、正確に言うなら出なくなった。 数秒前の柔らかな瞳と違って、不二の色素の薄い瞳が真剣だったから。 「君の事が好きなんだ」 耳に届いた声には黒い瞳を大きく瞠った。 「それでもダメ?」 「……ダメ、じゃない。けど…どうしてあんな言い方を…」 「ごめん」 「えっ、責めてるわけじゃないのっ」 「いや、君が言いたいことはわかるよ。本当に僕らしくなかった。ごめんね」 余裕がなかったんだ。 そう言って苦笑する不二には緩くかぶりを振って、気にしなくていいと行動で示した。 「あのね、不二くん」 は言葉を捜しているようだった。だから不二は促すことはせず、続く言葉を待った。 「きっかけを、ありがとう」 「きっかけ?」 「うん。今年は29日がないからどうしようってずっと考えてた。その答えを不二くんがくれたの」 は不二を見上げてはにかんだ笑みを浮かべて言った。 「ね、不二くん、本当は知ってたんでしょ?私が不二くんを好きだって」 「…さあ、どうかな」 クスッと微笑む顔は、これまで見たことのないものだった。 …私、とんでもない人を好きになってしまったのかも。 一瞬そんなことを思ったのが顔に出たのか、不二が意味深に瞳を細める。 「は顔に出やすいから、気をつけたほうがいいかもね。もっとも、僕の前では必要ないけど」 「…そんなに出てる?」 「出てるよ」 不二が紡いだ言葉は、先程のの問いに対しての答え。 彼女は感情が顔に出やすい。 だから、視線に気がついた。 彼女の視線の意味に。想われている、と。 「ねえ、明日のことだけど」 「あ、うん」 「僕とデートしてくれる?」 「お誕生日なのに?」 「誕生日だから、だよ」 君と一緒に過ごしたいんだ、と笑う不二には笑顔で頷いた。 この瞬間、が欲しいと願っていたタイミングは、確約された。 END one's sweetheart お題「Timing」 BACK |