彼の好きなもの




「ね、林檎の樹ってどこで売ってるのかな?」
「へっ?」
 唐突な問いにはすっとんきょうな声を上げた。
 放課後のホームルームが終わった直後、前触れも無く後ろを振り返ったに急に問われたのでは無理もない。
ちゃん、聞いてる?」
 眼前でぱたぱたと手を振るに、は「あ、うん」と頷いた。
 時々だけれど、は突拍子もなくこちらの意表を突く発言をする事がある。主な被害者はおそらくの彼氏である不二周助だと思っているが、同じクラスであるゆえ、自分もまた被害に合う率は少なくない。
 は気を取り直し、机に右腕で頬杖をつき思案げに口を開く。
「林檎の樹、よね…」
 今日はちょっとハードル高いわね…、と胸中で呟く。
 美味しい林檎が売ってる店とかであれば、調べるなり聞いて回るなりできるのだが。
 なにゆえ林檎の樹なのか。
 ……ん?林檎の樹?
「ねえ、
「なに?」
「不二君の家って林檎の樹が植えられる広さなの?」
 の考えている事を察したは、果たして親友がプレゼントしたあとの事まで考えているかどうか心配になって訊いた。
 今は二月。となれば、月末は彼氏の誕生日。彼氏が好きなのは林檎。
 でも林檎じゃ寂しいから…あ、林檎の樹なんてどうかな。
 そんな風には決めたのではないか、とは思っている。
「…植えられないとダメかな?」
「姫リンゴとかなら鉢植えでも平気かもしれないけど、植えられた方がベストじゃないかしら。それに、林檎の樹って高いんじゃないの?」
 どこで売ってるのかと考える以前の問題に気がついたは言った。
「そこまで考えてなかった」
 が目に見えてしゅんとしょげる。
 頭のてっぺんに項垂れた耳が見えるような親友に、はどう気持ちを浮上させるか思案し、唇を開く。
「林檎の樹はもうちょっと大人になってから贈ることにして、今年は普通に林檎にしたらいいんじゃないのかな」
「でも、周ちゃんの好きな林檎の種類を知らないの」
 それなのに樹を贈ろうとしたのかと思わないでもなかったが、それは胸の内に留めて置く。たぶん、樹を買いに行った時に気がついたのだろうから。はそれなりにしっかりしているのだが、少し抜けたところがあるのだ。それはそれで慣れてくると可愛いので、は気にしていない。
「たくさんあるものね」
 溜息混じりには呟いた。
 不二の好物が林檎であるために悩まなければならない時がくるなんて!
 なんで林檎を好きになるのよ、不二のバカ〜!
 八つ当たりなのはわかっている。けれど、ぼやかずにいられない。さすがに親友の前で口に出す訳にいかないので胸中での叫びだが。
 そうだ、乾君!
 脳裏にパッと黒縁眼鏡をかけた男子生徒の顔が浮かんだ。あらゆる生徒のデータを持っているという彼なら、不二の好きな林檎の種類を知っているに違いない。
 いい考えだと思いに言おうとしただったが、思いとどまった。
 ……のデータが増えたりしたら、もしかして不二が困ったりすることがあったりする?
 親友の彼氏からの嫉妬が増えるのは御免だと、はかぶりを振った。睨まれる機会なぞ増えるのは勘弁願いたい。
ちゃん?」
 心配そうな声で名を呼ばれたは、思考から浮上した。
「大丈夫、なんでもない」
 を心配させたなんて不二に知られたら大変だ。初対面の時は好意的で優しそうな人だと思ったのだが、彼はが関わると時々人が変わったようになる。不二がを大切にしている表れだと思うのだが、口元は笑みを浮かべているのに瞳は笑っていない笑顔というのは、怖いものがある。
「それならいいの。 ね、ちゃん、美味しい林檎って知ってる?」
 林檎の樹は諦めたらしいが言い終わるか否かの瞬間、彼女の携帯が鳴った。
「あっ、周ちゃんからだ」
 嬉しそうに笑って、はバッグの中から携帯を取り出した。は親友の言葉を聞いた瞬間、心臓が跳ねた。絶妙の間合いというのは恐ろしい。いや、いつもなら驚くことなどないのだが、今は散々罵詈雑言とも言える数々を胸中で呟いていたからだ。
「……ごめんね、ちゃん」
 返事のメールを打ち終わったの視線が向けられ、は首を横に振った。そして、親友がメールをしていた間に考えた事を口にする。
「蜜入り林檎が美味しいって聞くけど、林檎そのものじゃなくて、林檎を使ったお菓子をプレゼントしたら?の手作りなら喜んでくれるんじゃないかな」
 おそらくではなく、絶対に喜ぶだろうという確信がにはある。
 だがしかし、の中では「そうかな?」とはにかんだ笑みを浮かべていただが、実際の彼女は眉を曇らせていた。
「あのね、周ちゃんには料理とケーキもプレゼントするの。それでも喜んでくれるかなあ?」
 心配そうな顔で小首を傾げるは小動物みたいで可愛さがあり、同姓であるだが、「もう可愛いなあ、ってば」とかいぐりしたくなった。
 こんな顔で「林檎でごめんね」と言えば不二はノックダウンするのではないかと思う。
「もう絶対に喜ぶわ。お姉さんが保証する!」
「本当?ちゃんがそう言うなら、そうしようかな」
「それがいいと思うわ」
 それに、他に案が浮かばないし…。
 そう胸の内でこっそり呟く。だが、言った事が本音ではないという事ではない。一番ベストだと思う選択を選んだ。そういうことだ。



 二月末日。
 今年は閏年ではないので、二十九日がない。
 翌日の三月一日を二月二十九日としてお祝いすることも考えたけれど、二月の誕生日だから二月中がいいと思ったし、なにより不二家での誕生会が一日と聞いたので、それならば、と今日を選んだ。
 家の両親は今朝、日が昇るより早い時間に旅行に出かけていて明後日まで留守なので、キッチンを自由に使うことができる。旅行が今日からなのは、娘を一人にしても心配をしなくて済むからだ。今日は隣家の長男が来るし、今夜から明後日にかけて明日不二家でパーティをするということでは周助の母に泊まりにいらっしゃいと誘われている、というのがその理由である。

 今はしかいない家のキッチンで、彼女はパーティの準備の真っ最中だ。
 買出しは昨日の夕方、学校帰りにしてきたし、パイ生地は昨夜作って冷蔵庫で寝かせた。
 冷やしておくサラダに使う野菜などを切り、あとから温められるスープを作り、パンにサーモンとクリームチーズを乗せてラップで巻く。
「……周ちゃん喜んでくれるといいなあ」
 手を休めずに動かしながらごちる。
 周助の笑みを思い浮かべて、は嬉しそうな笑みを浮かべた。
「そのためにも頑張って作らなきゃ」
 決意も新たに呟いて、気合を入れる。
 メインディッシュとサラダと彼へのプレゼントに渡すカップケーキに使う林檎を切る。縦二つに切り、芯を取り除く。色を生かすため、皮をつけたままくし切り、いちょう切りと用途に合わせて切り、それぞれカップケーキに使う以外の林檎をレモン水を入れたボウルへ入れる。
 バターを溶かした鍋に林檎、砂糖、レモン汁を入れ煮詰めて、量っておいた材料でカップケーキの生地を作り、煮詰めた林檎を混ぜ込む。マフィンカップへ流しいれ、温めたオーブンに入れる。
 それからサラダとタルトレットとメインディッシュの用意をして、は一息入れた。
「周ちゃんが来てから焼いたほうが温かくていいよね、うん」
 そう呟いた時、インターフォンから来客を告げるチャイムの音がした。
 は黒い瞳を輝かせて玄関に向かおうとしたが、思いとどまった。先日、周助だと確信したからインターフォンに出ないで玄関を開けたら、彼に気をつけろと注意されたのを思い出したからだ。今日は彼の誕生日で、また言わせてしまうのは嫌だから、はインターフォンに出た。
「周ちゃん」
 自分以外の来客だと微塵も思っていない声で名を呼ぶに、周助はクスッと笑った。
 ささやかな幸せに胸が温かくなる。
「そうだよ」
「待ってて」
 言い終わると同時に通話が切れ、数秒して玄関扉が開かれた。
「周ちゃんのお誕生日なのに来させてごめんね」
が謝る事ないよ。僕が行くって言ったんだから」
 気にしなくていいんだよ、と周助はの頭をぽんぽんと軽く叩く。小さな子に言い聞かせるような仕草だが、は気にすることなく、むしろ安心したように微笑んだ。


「今から料理の仕上げするから、ちょっとだけ待ってて」
 テーブルセッティングされたダイニングへ周助を招き入れたはそう言って、冷蔵庫で休ませていたタルトレットをオーブンに入れ、メインディッシュの食材を冷蔵庫から取り出してを作り始めた。
 出来上がるまでの間、周助は料理をしているの後姿を微笑みながら見ていた。
「………毎日これだと嬉しいよね…」
 フフッと微笑む周助の声はとても小さく、料理に夢中になっているには聞こえていない。
 けれど、それでいい。聞かせたくて言った訳ではないから。
 十五分程の時間が経過した頃。
「お待たせしました、周ちゃん」
 メイン料理を盛り付けた皿を手に、が振り返る。
「よい香りだね」
 周助が言うと、ははにかんだ笑みを浮かべながら、皿を彼の前へ置いた。
「鶏肉と林檎のワイン煮なの」
「へえ。美味しそうだね」
 にっこり笑う周助には微笑み返して、他の料理をテーブルに並べた。
 作った料理を全て出して、は周助の向かいに座った。
「周ちゃん、お誕生日おめでとう!」
「ありがとう、。すごく嬉しいよ」
「いっぱい食べてね」
 小首を傾げて嬉しそうには笑った。
 テーブルの上には二人で食べきれるだろうか、という量の料理が並んでいる。
 鶏肉と林檎のワイン煮、かにのタルトレット、クラムチャウダー、林檎と胡桃とセロリのサラダ、ロールサンド。これら以外にバースデイケーキとプレゼントの菓子があるのだが、周助はまだそれを知らない。
 周助はメインと思われるワイン煮へ最初に手をつけた。
 周ちゃんの口に合ってるかなあ?
 そんな感じの顔で見ているに周助はにっこり微笑んだ。
「すごく美味しいよ。僕好みで」
 その言葉にの顔はぱっと嬉しそうに輝く。
 素直な反応に可愛いなあ、と思いながら、サラダやタルトレットを口に運ぶ。
 周助は料理を一口食べるごとに、「美味しいよ」と口にした。そう言うとが嬉しそうに笑うから、その笑顔が見たくて感想を唇に乗せる。
 料理を見た時は食べきれるだろうかと思ったが、ロールサンドを食べ切れなかった以外、お腹に入ってしまった。世辞抜きに美味しかったので、食が進んだのだ。
「ご馳走様。どれもすごく美味しかった。ありがとう、
 賛辞には照れたように笑った。
「あのね、バースデイケーキがあるんだけど、もう入らない?」
「うん、さすがにちょっと無理かな」
「やっぱり作り過ぎちゃったかな…」
 は微かに溜息をつき、気を取り直して唇を開く。
「周ちゃん、紅茶とコーヒー、どっちがいい?」
「紅茶をもらおうかな」
 は頷くとイスから立ち上がり、紅茶を淹れる用意を始めた。
 ポットとカップ、紅茶を出して、ケトルに水を入れて火にかける。
 湯を沸かしている間に渡そうと、はカウンターテーブルに用意していたプレゼントを持って、テーブルに戻った。
「はい、バースデイプレゼント」
 目の前に差し出された白い箱を周助は受け取った。
「ありがとう。開けてみていいかな?」
「う、うん」
 不安そうに頷いたに内心首を傾げつつ箱を開けた周助は、彼女の態度の理由がわかった。
「ごめんね、周ちゃん」
 しゅんとした声に顔を上げると、泣き出しそうな顔をしたが映った。
「食べ物ばっかりじゃつまらないでしょ」
「そんなことないよ」
「……ホントに?」
「うん、ホントに。がくれるものならなんでも嬉しいよ」
「林檎の樹でも?」
 おかしな方へ話が進むな、と思いながらも、周助は頷いた。
「もちろん」
 そう言うと、はホッとしたように笑った。
「よかった。あのね、それ、林檎のカップケーキなの」
「そうなんだ。林檎づくしだね」
 話の繋がりがよくわからないな。
 でも、が嬉しそうだからいいか。
「うん。今日は周ちゃんのお誕生日だから」
 笑顔で言って、はケトルがシュンシュンと音を立て始めたので、慌ててキッチンへ戻った。
といると本当に楽しいよ。広い意味で、ね」
 周助はクスッと微笑んで、イスから立ち上がるとの傍へ向かった。
「周ちゃん?」
「アップルティーがいいな、って言おうと思ったけど――」
 の手元に視線を落とし、周助は途中で言葉を止めた。
 ポットの中に茶葉と林檎が入っていたからだ。
「以心伝心?」
 首を傾げて楽しそうに笑う周助に、は「うん!」と嬉しそうに笑った。




END

one's sweetheart お題「林檎」

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