無邪気な微笑み 卒業式から五日が経過した、三月初め。 彼女と出逢った日から、もうすぐ一年目を迎える。 大学は秋に内定していたから、高校三年としたら受験を控えている生徒に比べて余裕があった。だから可能な限りはに逢いに店へ通っていた。 けれど、僕らが交際を始めたのは先月の14日――バレンタインデイで、付き合って一ヶ月も経っていない。 僕に時間があってもは社会人で店をやっているから一緒にいられる時間はどうしても限られてしまう。 だから二人だけで過ごした日は、僕の誕生日と五日前の卒業式の日の二日間しかない。それも、が店を休みにしてくれてのことだ。 そんな彼女の気遣いはとても嬉しかった。 けれど、男としてそれはちょっと情けないような気がして、何かしたいと思った。 そう思っていた矢先、卒業式のあとで待ち合わせたから、五日後は店を休む予定だと聞いた。 「周助くんになにも予定がなかったら、その……」 頬をほんのり染めて瞳を彷徨わせるに僕は言った。 「デートしよう。とデートがしたい」 店で話したり、喫茶店で話をしたりという事は何度もあるけど、ちゃんとしたデート――いわゆる、一緒にどこかへ行くデートというのをまだしたことがなかった。 二人で逢って話をするというのもデートだと思うけど、それだけじゃ物足りない。もっと長い時間を一緒に過ごしたい。 そう思っているのは僕だけじゃないよね? 照れてしまってデートしようって言い出せないだけだよね? 「……うん、私も」 はにかんだ笑みを浮かべるに笑みを返す。 「行きたいところはある?」 彼女の希望を叶えたくて訊くと、口元に指先を当て、小首をかすかに傾けた。 「………植物園に行ってみたいわ。あ、もちろん周助くんがよかったらでいいの」 は僕の反応を窺うように、そわそわと指を組み直して落ち着きがない。 焦ったように微笑みを付け足す彼女は、僕の答えに緊張しているのだろうか。 行きたいところがあるか、と訊いたのは僕だし、なによりあなたが行きたいと言う場所を嫌だというはずがないのに。 の仕草は、まるで慣れていないように見える。 …もしかして、本当に慣れていない…とか? そうだとしたら、それはちょっと嬉しいかもしれない。 けど今はそれよりも頷くほうが大事だ。 「いいに決まってるじゃないか」 「…っ…ありがとう、嬉しい」 瞳を細めて嬉しそうに微笑む顔が無邪気で、クスッと笑みが零れた。 僕はますますあなたに溺れてしまいそうだ。 「駅前で待ち合わせでいい?」 「ええ。あ、でも…」 「でも?」 「私、植物園の場所とか知らなくて…電車で行けるところにあるの?」 「うん、あるよ。場所ならわかるから心配しなくていいよ」 「…よく行くの?」 心配そうな声色で訊いてくるを安心させるように微笑んだ。 「最近は行ってないからそろそろ行きたいなって思ってたし、がまかせるって言ったら植物園に誘おうと思ってた。僕らは恋人なんだからそんなに気を遣わなくていいよ」 「え、でも…」 「『でも』じゃなくて、そこは『うん』って言うところだよ」 答えはそれしか受け取らないよ、という言葉を瞳に込める。 「…うん」 「じゃ、約束ね。破ったら罰ゲームってことで」 フフッと笑うとは一瞬だけ瞳を瞠ってから、「周助くんもね」と微笑んだ。 待ち合わせた時間の五分前には姿を見せた。 品の良いアーガイルチェックの紺色のワンピースは、細身の彼女によく似合っている。 「おはよう」 「おはよう、周助くん。も…っ」 言いかけて、は慌てて口元へ手を遣った。 破ったら罰ゲームというのはちょっとした冗談だったんだけど、どうやら本気に取っているみたいだ。頑張って言わないようにしてくれたのに冗談だったとは今更言えない。けど、罰ゲームは関係なく、気を遣わなくていいと思っているのは本当だから、黙っておいてもいいかな。真実を言うのは折を見てにしよう。 「その服、似合ってるよ」 飲み込まれた言葉は聞こえてない振りをして、思ったことを口にした。 「そ、そう?ありがとう」 白い頬をほんのり赤く染めて、照れたように髪へ手を遣る姿が可愛らしい。 「それじゃ行こうか」 手を差し出すだけじゃなかなか取ってくれそうにないから、自分から華奢な手を取った。 指を絡めるようにして手を握ると、彼女の手が少し震えた。 「…緊張してる?」 「き、緊張というか…」 恥ずかしいなって…。 耳まで赤く染めて言われると、いけない事をしている気になってしまう。 「普通なら平気?」 ダメと言われて離せるかと言われたら難しいけど、の意思は尊重したい。 「…ただ繋ぐだけなら…たぶん」 「わかった」 絡めた指を解き、華奢な手を包むように手を繋ぐ。 の様子を窺うように瞳を覗き込むと、小さい頷きが返された。 大丈夫らしいことに安堵して、植物園に向かった。 春休みにはまだ早く、平日ということもあって入口で待つ人影がない。 「空いてるわね」 周囲に目を向けてが言った。 土日や祝日はそれなりに混んでいるのだが、今日は平日だから空いているようだ。 「混んでるよりずっといいよ」 「ふふっ、それもそうね」 「どこから見ようか」 「……花かしら」 ここは大きな温室が三つある。南国の花がある温室、珍しい植物ばかりを集めた温室、そして世界のサボテンを集めた温室だ。 「花はあっちだね」 「あ、違うの。サボテンの花のことを言ったの」 手を引いて歩き出そうとするとが慌てたように声を上げた。 「パンフレットにサボテンの花が見られますって書いてあったから、咄嗟に花って言っちゃったの。紛らわしい言い方してごめんなさい」 引き止めるみたいに僕の手を両手でぎゅっと握るに目を瞠る。必死になるその姿が可愛くて、笑みが零れた。 付き合うようになって、彼女の新たな一面を見る機会が増えたと思う。 仕草のひとつひとつを見るたびに可愛いと思うのは、それだけ好きな気持ちが大きいのだろう。 「そんなに必死にならなくても大丈夫だよ」 焦った顔というのも可愛くて、ついからかいたくなってしまう。 「こ、こどもっぽいって思ってるんでしょう?」 「クスッ、思ってないよ」 「嘘」 「本当。僕は嘘は言わないよ」 この先、あなたが傷つかないような嘘をもしかしたらつくかもしれない。けど今は――これまでは、言ったことはない。 「……でも、からかうのはやめない?」 予想していなかった言葉に目を瞠った。 好きな子をからかいたくなるクセがあることは自覚している。でも、それには気づいていないと思っていた。 「一昨日ね、卒業式の日に周助くんと一緒にいた眼鏡の人が店に来て言ってたわ」 乾、か。 全く。本当に侮れないな。 「それでは僕が嫌になった…とか?」 「そんなわけないじゃない。からかわれても好きよ。けど……」 周助くんといると私頼りない大人になるんだもの。だからつい…。 「気にしなくていい。今のは僕が悪かったんだから」 売り言葉に買い言葉となってしまったのは僕のせいだ。 想い出に残るような楽しい初デートを取り戻そうと心を入れ替える。 「サボテン」 「えっ?」 「むこう、よね?」 「…うん、行こうか」 重かった空気がふっと和らいで、胸を撫で下ろす。 僕もまだまだだな、と胸中で自嘲するしかない。 それからサボテンがある温室へ行って、ゆっくり見て回った。 鉢植えで育てられる大きさから、西部劇に出てくるような大きなサボテンまで、大小様々なサボテンがある。 「わ、こんなに大きいのにサボテンなの?」 一際大きい――人の背丈の倍近くありそうな大きなサボテンの前では立ち止まった。 そのサボテンのてっぺんに赤い花が咲いていることに気がつき、に声をかける。 「、上を見てごらん」 「上?あっ、花が咲いてるわ。…よく見えないのが残念ね」 「花をつけてるサボテン、他にもあると思うよ」 サボテンが花を咲かせている期間は短いし、運が良くないと全く見られないということもある。けれど、あとひとつかふたつは、この時期に花を咲かせていた記憶がある。 「本当?じゃあ早く行きましょう」 黒い瞳を嬉しそうに輝かせるは小さなこどもみたいに無邪気だ。 「そうだね」 頷いて歩き出す。 楽しそうな横顔は、しばらくしたらきっと嬉しそうな笑みに変わるのだろう。 サボテンの花を見て喜ぶあなたを写真に収めさせてもらおうかな。 「楽しみだね」 「ええ」 僕を見上げて微笑むにフフッと笑う。 あなたの楽しみはサボテンの花だろうけど、僕が楽しみなのはあなたの笑顔だよ。 無邪気で無防備な、ね。 「あっ、あのサボテン可愛いわ」 弾んだ声を上げるが可愛らしい。 「可愛いけど、どっちかというと面白いね」 万歳をしているような形のサボテンを見て言った。 「そう?万歳をしてるみたいなのが可愛いと思うんだけど」 小首を傾げて考え込むに、僕はクスッと笑った。 前言撤回。 どんな表情でもの顔ならずっと見ていたい。 いつかあなたに打ち明けたら、どんな顔をみせてくれるのかな。 その日が早く来たらいいと思いながら、に声をかける。 「写真に撮る?」 「いいの?」 「もちろん」 繋いだ手を離して、サボテンを撮るため愛用のカメラを構えた。 END one's sweetheart お題「無邪気」 BACK |