その昔、二千年とニ十数年前――イエス・キリストが誕生するよりも前のこと……。


 ローマ帝国という国にアウグストゥスという名の皇帝がいました。
 ある時、大きな国を治めているこの皇帝は、一人の部下を呼び出してこう言いました。
「おい、なぜ8月が30日なんだ!31日にしろ!」
 部下はとても困りました。皇帝は少し前にも8月の呼び名を【August】、つまり自分の名に変えたばかりだったのです。
 月名を変えさせた次は、8月が7月より1日少ないことに激怒する皇帝に、部下は言いました。
「で、ですが、そうすると一年が366日となってしまいます」
 この頃の暦は3月から始まり2月で終わる暦を使っていて、奇数番目の月が31日、偶数番目の月が30日、というように規則的に来るように決められていました。ですが、そうすると一年が366日となってしまうので、2月は1日減らされ29日とされていました。
「だったら2月から1日持ってくればいいだろう!」
 こうして皇帝が8月を31日と定めたので、2月は28日までしかない月になってしまったのです。




 My beloved lady




 二月末日。
 庭に面した窓から柔らかな陽射しが差し込むリビングで、不二はソファに座りインテリア雑誌を読んでいた。不意に彼は雑誌から目を上げ、首をめぐらせた。
「………そろそろ来るかな…」
 壁掛け時計で現在の時刻を確認し、嬉しさを含んだ声で呟いた。今日は大切な人と約束がある日なのだ。
 これから家を訪ねてくる人――恋人の顔を想い描き、頬を緩ませる。


 彼女との付き合いは二年前のバレンタインにさかのぼる。
 部活がたまたま休みになってしまって、せっかく休みになったのだから頻繁に行けない本屋へ行こうと歩いていると、道すがら気になる店を発見した。店先に出された店の看板に描かれた名前と落ち着いた蜂蜜色の外観に惹かれて、足を踏み入れた。その店は紅茶の茶葉を量り売りする店で、そこで彼女――と出逢った。
 それから時間がある時は紅茶はもちろんだが、に逢いたくて、しばしば店を訪れた。
 そして、日毎に想いは募っていき、不二はバレンタインに告白した。結果は両想いで、めでたく付き合うことになった。

 その日から一年と十四日が過ぎ、彼女と過ごす二回目のバースデイとなるのが今日。
 はあまり積極的な人ではないから、自分から、誕生日に一緒に過ごしたい、と誘い、今に至る。
 去年は彼女の自宅で祝ってもらったが、母と姉が家に誘ったらどうか、と言うのでそれを告げると、はにかんだ笑みで頷いてくれた。
「駅まで迎えに行くよ」
 そう言ったのだが、彼女は首を横に振った。
「地図を書いてくれれば大丈夫。それに、一人の方がわくわくするでしょう?」
 微笑むに不二は首を傾げる。
「わくわく?」
「通ったことのない道を通る時、わくわくしない?」
「うん、まあ…」
 しないことはないので頷くが、彼女が何を言いたいのかは、まだわからない。
「周助がいつも通ってる道…同じ道を通れるのが嬉しいから、かみしめたいなあって」
 ふふっ、と無邪気に笑うところは、いつ見ても年上とは思えない。けれど、それが愛しくて、不二は瞳を細めた。
「わかった。じゃあ僕は家で待ってるよ」
「ええ、ありがとう」
「クスッ。ありがとうは僕のほうだよ。 楽しみしてる」
「私も。 お伺いする時間なんだけど、――――」

 そうして約束した時間がもうすぐなのである。
 大学はなく――と言いたいところだが、平日なので講義はあった…のだが、午前中の一般教養の講義だけ受け、帰ってきた。けれど、午後の講義は取っていないだけだから、さぼりにはならない。それに、はそれを考慮に入れて時間を指定してきた。その好意がわからない不二ではない。
 時刻を確認した数分後、玄関のチャイムが一回鳴った。インターフォンに出る間も惜しみ――そもそも恋人が来るとわかっているのに出る必要はない――雑誌をソファに投げ出すように置いて、玄関へ向かった。ドアを開ける。

「こんにちは」
 嬉しそうなを見て、自然と頬が緩む。
「いらっしゃい」
 を家に招き入れ、リビングへ誘った。
「周助、これ、皆様でどうぞ」
 不二は一度瞳を瞬いて、お気遣いありがとう、と四方20センチ程で4センチ程厚みがある花柄の包みを受け取った。それを傍らのキッチンのカウンターに置き、視線をへ戻す。と、今度は白いリボンがかかった黄色い包みが差し出された。
「周助、ハッピーバースデイ!」
 は緩く首を傾げて、微笑んでいる。まっすぐに向けられている彼女の黒い瞳は嬉しそうな色をたたえていて、それがまた心を幸せで満たしてくれる。

 が好き過ぎて、どうにかなってしまいそうだ…。
 向けられる愛情に、柔らかな微笑みに、眩暈がする。

「ありがとう、嬉しいよ」
 の手に愛しげに触れてから、プレゼントを受け取る。それは先ほど彼女が手土産にくれたものよりひとまわり小さく、厚みは二倍程の大きさがある。
 包装紙とリボンに入った店の名前を不二は知っていた。世界的に有名なテーブルウェアメーカーだから。
「開けていいかな?」
「ええ、どうぞ」
 ドキドキしているのがありありとわかる表情で見守っているに気付かないふりをし、リボンをほどき、包みを開けていく。
 姿を見せたのは、艶やかな質感の濃緑色の箱。【】と中央にメーカー名がデザインされている箱の蓋をそっと持ち上げた。
 動かないように固定され箱に納められていたカップとソーサーを箱から出す。それらをテーブルの上に置き眺めてから、不二は視線をに向けた。
「きれいな色のコーヒーカップだね」
 は緊張の糸を解き、ほっとしたように微笑む。
「気に入ってもらえて嬉しいわ。 それを見た時ね、あなたに似合いそうって思ってて」
 ははっとした顔で一度言葉を区切り、周助を見つめた。
「もう持ってたりする?」
「持ってないよ。食器類はだいたい姉さんと母さんが買ってくるし、僕専用って言えるのはマグカップくらいかな」
「そう、よかった」
 クスッと笑って、不二は改めてコーヒーカップに触れた。それはカップの下から上に向かって色が薄く――深海の青色から冬空の薄水色へ、グラデーションのようになっている。きっちりではなく、例えるなら、夕暮れに色づいたたなびく雲のように。異なるのは基調が青というところか。ソーサーはカップの中程の色一色――夏空のような色。
「ありがとう。大切に使わせてもらうよ」
「うん」
「でも、どうしてコーヒーカップにしたのか訊いてもいいかな」
 紅茶の店を開くくらい好きな紅茶を飲むティーカップではなく、コーヒーカップだったのが意外だったのだ。
「前に朝はコーヒーって言ってたから、それなら毎日使ってもらえるかなって思ったの。それだけだけど、なにかダメだったかしら?」
「ダメじゃないよ。ちょっと意外だなって思っただけ。ごめん、おかしなことを訊いて」
 そんなことないわ、とは春の陽射しみたいに優しく微笑む。
「あっ、そうだわ」
「どうしたの?」
「実はねケーキを焼いてきたんだけど…」
「ほんと?嬉しいよ」
「お姉さんが作ってたら迷惑かなって思ったんだけど、……」
 周助に焼きたくて、と小さな声が耳に届く。
 不二は切れ長の瞳を細め、口元に緩い孤を描き、フッと微笑んだ。
「姉さんは作ってないよ。さんが作ってきてくれるわよ、って笑ってた」
「えっ!?」
 は驚きに黒い瞳を丸くする。そんな彼女に不二はフフッと笑って、
「当たりだったね」
 誰に向けての言葉だったのかが考えるより先、不二はテーブルに乗り出して彼我を縮め、が瞳を閉じるのを待たず、唇を重ねた。
 キスのあと、「ごちそうさま」と吐息混じりに甘く告げると、ほんのり桜色に染まっていたの頬が瞬く間に真っ赤に染まった。
 ケーキのことだよ、と言ったら怒るだろうか。
 そんなことを考えながら、別の言葉を口にする。
「たまにはコーヒータイムにしようか」
 恋人が淹れてくれるブラックティーは美味しくて好きだ。けれど、今はもらったばかりのカップを使ってみたいから、そう提案してみる。
 その思いが伝わったのか、は頷いた。
「キッチン使わせてもらえるなら、私が淹れる…ううん、周助に淹れたいわ」
 そんな可愛いことを頬を赤く染めて言われたらたまらない。
 本当に…無意識に煽ってくるんだから。
 でもそんなところが――否、それを含めたの全部を愛してる。
「なら、お言葉に甘えようかな」




 ――2がつ29にちがおたんじょうびのひとはどうするの?おたんじょうびなくなっちゃうの?
 まだ幼くて暦のことなど知らないに等しいこどもに、皺の刻まれた手が伸び、その子の頭を優しく撫でる。
 ――なくならんよ。歳は誕生日の前の日、午後12時にとるんじゃ。だから、誕生日がなくなる人はいないんじゃよ
 ――なくなんないの?
 ――そうだ
 ――でも、ないのはだめ。だってね、えっと……うーんとねぇ…ないちゃうよ




 昔小さな頃に聞いたという話を、ブルーマウンテンと手作りの黒胡椒とゴーダチーズのカルカトールを楽しみながら、が話してくれた。
は昔から可愛かったんだね」
「かっ――っ」
 ぼっ、と頬を赤く染めるにクスクス笑って。
「林檎みたいで美味しそうだ」
「な、なに言って――」
 焦ると対照的に不二はどこまでも余裕そのもの。
「クスッ。心配しなくても食べたりしないよ。今日は、ね」
 その言葉には耳まで真っ赤に染めて、俯いて恋人の視線から逃げるのが精一杯だった。




END

※作中のコーヒーカップは実在しません、架空です。探せばあるかもしれませんが、デフォルトで表示されるメーカーに問い合わせたりなさらないでくださいね。

Can't stop loving you お題「Passion」

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