と紫陽花を見に鎌倉へ行ったのは日曜日。
 それから三日経ったけれど、進展はない。
 でも、僕はこのままでいるつもりはない。

 少しでも望みがあるなら、君を振り向かせてみせる。
 君に僕が好きだと言わせてみせるよ。


 水曜日の4限目は現国で、担当教師は僕の片思いの相手である
 彼女の教え方は丁寧でわかりやすいと、生徒の間で評判だ。

 チャイムが鳴り授業の終わりを告げる。
 日直の号令で起立と礼が終わると、は教卓の上に広げていた教科書、資料などを素早くまとめて、教室を出ていった。
 僕はすぐに彼女を追いかけた。
先生」
 名前を呼ぶと は立ち止まって振り返った。
 白いバレッタでまとめられている長く艶やかな黒髪が、サラリと宙を舞う。
 僕は彼女の傍に歩み寄った。
「不二くん?どうしたの?」
「放課後に時間ありますか?」
「ええ、大丈夫よ」
 言いながら、彼女は不思議そうに首を傾けた。
 その可愛い仕種に、僕たちの横を通り過ぎた何人かの男子生徒が目を奪われていた。
 当然ながら は全く気がついていない。
「わからないところがあるので教えて頂けますか?放課後に教員室にお伺いしますから」
「かまわないけど、昼休みじゃダメなの?」
 僕の予想通り はそう言った。
「ダメだよ。昼休みは君と二人きりで過ごせる貴重な時間なんだから」
 にしか聴こえないように耳元で囁くと、白い頬が瞬時に桜色に染まった。
「ふっ、不二くんっ」
「クスッ、なんですか? 先生」
「な、なにって!」
  は桜色に染まった頬で困ったように慌てる。
 フフッ、そんなところも可愛い。
「先に行って待ってるよ、
 再び彼女の耳元で囁くと、彼女は恨みがましく僕を見た。
 でも、下から覗き込むように睨まれても可愛い以外の何者でもない。
「あとでね」
 笑いかけると は足早に立ち去った。
 ちょっといじめすぎたかな?
 でも仕方ないよね。
 君が可愛いからいけないんだよ、


 僕が弁当を取りに教室へ戻ると、教室の扉を開いたところで英二が後ろから抱きついてきた。
「ふ〜じっ。 先生と何を話してたの?」
「英二、暑苦しいよ」
 僕の肩に体重をかけている英二を振り返って言った。
 英二が慌てて僕から離れる。
「ごめんにゃ〜」
「ホントに反省してるの?」
「してる!してます!!もうしません!!」
「そのセリフ、聞き飽きたよ」
「そんなに怒らなくてもいいじゃんか」
「英二?」
「俺が悪かったです。ごめんなさい」
 言って、英二は教室を飛び出した。
 全く。毎日毎日懲りないね。
  と過ごせる時間が減ったことに、僕は部活で英二に仕返ししようと心に決めて、弁当を持っていつもの場所へ向かった。


  と過ごす昼休みはとても楽しくて、僕はこの時間が一日の中で一番好きだ。
 もちろんテニスをしている時も楽しいけど、 と過ごしている時間とは比べものにならない。
 自分がここまで他人に興味を持てるってことを、 と出逢って初めてわかった。
 授業している彼女の姿を見つめているのも好きだけど、彼女の瞳は僕だけに向けられていない。
 だから僕は昼休みが好きだ。

 彼女の漆黒の瞳は僕だけを映して、僕だけを見ている。
 優しい笑顔も、澄んだ声も、可愛い笑い声も、全部――


 僕だけのもの



 午後の授業が終わり、そのあとのホームルームが終わって、放課後になった。
 僕はテニスバックに教科書やノートを詰めて教室を出た。
 向かうのは が青学に赴任してきてから使用している教員室。彼女は職員室ではなく教員室で仕事をしていることが多い。
 職員室だと使いたい資料が置ききれないというのが理由らしい。
 机の上に物をたくさん乗せると狭くなって使い辛いし、生徒に示しがつかないとも言っていた。
 仕事に一生懸命で真面目な彼女らしいと僕は思っている。
 そういう所も僕が彼女を好きな理由のひとつだ。
 教員室の扉を数回軽く叩く。
「失礼します」
 言いながら扉を開いて、部屋の中へ入った。
 すると は仕事をしている手を休めてこちらへ瞳を向けた。
「あら?不二くん、早いわね。部活のあとに来るのかと思っていたわ」
「今日は部活休みなんだ」
「あっ、そうか。竜崎先生は山吹高校に行かれてるんだったわね」
 職員室のホワイトボードにでも書いてあったのだろう。
 思い出すように口元に指先を当てている。
 すると彼女は突然立ち上がった。
 見ていると、 は壁に立て掛けてある普段は使っていないパイプイスを出してくれた。
「不二くん、ここに座ってね」
 イスを置きながら彼女が言った。
「うん。ありがとう」
  の座るイスの隣に置かれたイスにお礼を言いながら腰掛けた。
 テニスバックのサイドポケットを開けてオレンジ色の封筒を取り出し、それを に差し出す。
「はい、これ」
「え?なに?」
 彼女は黒い瞳を数回瞬きさせた。
「フフッ、開けてみて」
  は不思議そうな表情で封筒を受け取って、中に入っているものをそっと取り出した。
「…これはこの前の・・・」
 驚きに声を上げた彼女に思わずクスッと笑う。
「驚いた?昨日できあがったから、早く に渡したくてね。気に入ってくれたら嬉しいな」
「ありがとう、不二くん。嬉しいわ」
 嬉しそうに微笑んで言った。
 そして。
「あとでゆっくり見るわね」
「どうして?」
「どうしてって、写真を見るより先に不二くんの質問を解決しなくちゃ」
 その言葉に苦笑すると、 は怪訝そうに僕を見つめた。
「それは口実だよ。君に写真を渡したかったんだ。僕は人前でも気にしないけど、君を困らせたくないからね。それに、君の授業は丁寧で分かりやすいしから、理解できない所なんてあるはずないじゃない」
 そう言うと、 は恥ずかしそうに頬を桜色に染め上げた。
「そう言ってくれるのは嬉しいけど、誉め過ぎよ」
 そういう控えめな所も可愛い。
 でもホントのことなんだから、そんなに照れなくてもいいのに。
「そんなことないよ。時々してくれる著者についての雑談とか楽しいし。僕は現国の担当教師が君でよかったって思ってるよ」
「あ、ありがとう。不二くん」




大切な日




 僕が と出逢ってから七ヶ月が過ぎた。
 彼女と出逢ったのは春で、いまは秋。
 二ヶ月前の八月まで僕と は生徒と教師という関係でしかなかった。
 それは、僕は一人の女性として を見ていたけど、 は僕を生徒として見ていたからだ。
 僕はそれが嫌だった。
 生徒ではなく、僕を一人の男として見て欲しい。
 傲慢でしかないのは分かっていた。
 でも が好きで好きでどうしようもなくて。
 気持ちを押し殺すのはすでに限界を超えていた。
 だから僕は に想いを伝えた。

が好きだ」

 初めて告白したのは、一学期の終業式の日。
 放課後の教員室だった。
 夏休みの間、部活で学校に行く度に僕は何度も彼女に言った。
 けれど は、僕に応えてはくれなかった。
「私は教師だから」
 そう繰り返されて。
 それでも僕は諦めなかった。
 その一言だけで揺らぐほど僕の気持ちは半端なものじゃない。
 本気で を好きだから。
 それに一度だけとはいえ、は僕とデートすることを承諾してくれた。
 何より彼女は僕が「好きだ」と言うと、決まって悲しそうに瞳を伏せた。
 本人はおそらく気がついていなかったと思う。
 僕がそのことに気付いたのは、二回目に告白した時だ。
 掠れた声でやっと絞り出している言葉と、揺れる黒い瞳。
 自分に言い聞かせるような言い方。
 それに気がついた僕は、夏休み最後の日に行動を起こした。


 午前中で部活が終わった僕は、教員室を訪れた。
 そして。
が好きだ」
「私は教師だから」
「関係ないよ」
「関係あるわ!あなたの…っ」
「僕の…何?」
 が逃げないように、彼女の細い身体を抱き寄せた。
「ねえ 。答えてくれないとキスするよ?」
「キスしたら答えないわ」
「そう」
 左手で の頭を後ろからかかえて、右腕で細い腰を抱きしめて動きを封じる。
 僕は の唇にキスを落とした。
 触れるだけのキスじゃなく、吐息が混じりあう深いキス。
 角度を変えて何度も何度も繰り返した。
 彼女の息が上がっているのを承知の上で、貪るようにキスをした。
 唇を離すと は肩で息をしながら、潤んだ瞳で僕を睨んだ。
、答えて?」
「キス…たら、答えな……って」
「それなら、君が答えるまでこのままだよ」
 再び にキスをしようとした時、教員室の扉がノックされた。
  の身体がビクッと震える。
先生、いらっしゃいます?」
 その声とともにノブが回され、扉が開く――はずだった。
「あれ?鍵が閉まってるな。どこかに行かれてるのかな?」
 男性教師は呟いて、足跡が遠ざかっていった。
 それに は安心したように息をついた。
「残念。鍵を開けておけばよかったかな」
 言うと、 は僕をキッと睨んだ。
 そして、細い手で僕の頬を叩いた。
「あなた一体なにを考えてるの!?」
 彼女の感情的な声に、僕の中で何かが切れた。
のことだよ。君に僕を見て欲しい」
「だからってどうしてキスなんてするのよ」
「君の気持ちを聞きたいからに決まってるだろ」
「私の気持ち? 何度も言ってるじゃない。私は教師だからって」
「僕が訊きたいのは、 が僕を男として好きかどうかだよ。教師だからとか生徒だからとかそんなことが聞きたいんじゃない。そんなことはどうでもいいんだ。、答えて欲しい。君は僕が嫌い?」
 僕らしくもなく、声は震えていた。
「……嫌いだったら楽なのにね」
 彼女の表情が苦しそうに歪む。
 漆黒の瞳を見つめると、ゆっくり瞳を伏せて。
「…不二くんが好きよ。でも私はあなたの将来を潰したくないの」
 閉じられた瞳から、一筋の涙が溢れて。
 それに引き寄せられるように、僕は彼女の涙を唇で拭った。
「泣かないで、。 ごめんね…僕は子供だ。自分の気持ちを押し付けてばかりで、君の本当の気持ちに気づけなかった」
 頼り無い細い肩に顔を埋めると、そっと頭を撫でられた。
「ううん。私も逃げていたから同罪よ。あなたに好きだって言われてすごく嬉しかった。でも、同時に恐くなったわ。もし付き合っているのが学校側に露見したら、あなたの将来がメチャクチャになる。そう考えたらとても恐くて…言えなかった」
 涙が出そうになった。
 彼女は僕のことを大切に想ってくれていた。
 自分の気持ちを殺して、僕を守ろうとしてくれていたんだ。
「ありがとう。 君を好きになってよかった」
 僕は柔らかい唇にキスを落とした。
 軽く啄むように、触れあう唇から僕の想いが伝わるように。
、愛してる」
「…私も…っん、ふ…じ…く…っ」
「周助、だよ。
「んっ、しゅう…すけ…しゅう…っんん」



 今日は10月4日。僕の秘密の恋人の25回目の誕生日。
 二週間前から二人で過ごそうと約束している。
 学校が終わって一旦家に戻って私服に着替えた後、待ち合わせ場所に向かった。
 青春台駅から電車に乗って、夕暮れの町並みを窓越しに眺めて、5つ目の駅で電車を降りた。この駅は が住んでいる所の最寄りの駅だ。

  の優しい微笑みを想い浮かべながら、僕は改札口で彼女が来るのを待っていた。
 月曜日の放課後は職員会議があるから、僕が家に戻ってここに着く頃には、彼女も着いているはすだった。
 でも彼女は改札口にはいなかった。会議が長引いているのかもしれない。
 しばらくして、改札から出てくる人込みの中に、愛しい人の姿を見つけた。
 手を振ると、僕に気づいた はフワッと笑って僕の所へ走ってくる。
「待ったでしょ?ごめんね。校門を出た所で男子テニス部の皆に捕まっちゃって」
「皆って、誰?」
「えっと…菊丸君と桃城君と越前君。それから乾君、大石君でしょ。あと…」
、ちょっと待って」
 次々に挙げられる名前に僕はなんとなく予想がついたから、彼女の言葉を遮った。
「もしかしてさ、手塚以外、元レギュラー陣とレギュラー陣が全員いたでしょ?」
「うん。皆で遊びに行くから来ないかって誘われたの」
「で、どうやって断ったの?」
「先約があるからって断ったわ」
「それだけで皆が諦めるとは思えないな」
 言うと、 はくすっと笑って。
「でも、とても大切な約束だから、ごめんねって言ったら、それなら仕方ないですねって」

 とても大切な約束――

「ありがとう、 。すごく嬉しいよ」
「周助?何を言ってるの?お礼を言うのは私の方よ」
 そう言って、 は優しく微笑んだ。
「君の誕生日を祝わせて欲しいって言ってくれて、嬉しかったわ」
「当たり前じゃない。今日は僕の大好きな が生まれた大切な日なんだから」
「周助・・・」
 今にも泣き出しそうに潤んだ瞳で は僕を見つめた。
 それに微笑み返して、僕は彼女の白く細い手を取って、手を繋いだ。
 細い指にそっと指を絡める。
「早く帰って二人きりでお祝いしよう」
「うん」


 駅前にある がお気に入りだというケーキ屋に行き、小さいホールケーキを買った。
 そして、僕たちは手を繋いで、 の家に向かった。
 黄褐色のテーブルの中央に、真っ白い箱から取り出したケーキを置く。それに赤や青、緑などの色のついた小さなキャンドルを立てる。
 そのうちに紅茶を淹れた が戻ってきて、僕の隣に座った。
「やだ。キャンドル立てたの?」
「うん。せっかく付けてもらったんだしね」
「それは周助が付けて下さいって言ったからでしょ」
「フフッ、いいじゃない」
 そう言いながら、マッチでキャンドルに火を灯す。
 全部のキャンドルに火を灯して を見つめた。
 するとくすぐったそうに微笑んで、 はキャンドルの火を吹き消した。
、誕生日おめでとう」
「ありがとう、周助」
 嬉しそうに微笑んだ に、僕は小さな箱を差し出した。
「はい、プレゼント」
「ありがとう。 開けてみていい?」
「もちろんだよ」
 彼女は箱の包装紙を丁寧に開いて、包まれていた水色の箱のふたをゆっくり開けた。
「これ…
 驚いた瞳で は僕を見た。
 誕生日プレゼントに僕が選んだのは、10月の誕生石であるオパール。
 真っ白なホワイトオパールのペンダント。
 強くて真っ直ぐで、汚れのない に一番似合う色。
「ねえ、つけてみせて?」
「うん。……どう、かな?」
「思った通り、よく似合ってる」
「ありがとう、周助。すごく嬉しい」
「喜んでくれてよかったよ」
「周助からの初めて贈り物だもの。嬉しいに決まってるわ。ずっと大切にするね」
 そう言って幸せそうに笑った を僕はそっと抱きしめた。
「来年も再来年もその先もずっと僕に君の誕生日を祝わせてね」
 柔らかい唇を人さし指でそっとなぞって言うと、 はコクンと頷いた。
「卒業しても…傍にいてね?」
「傍にいるよ。ずっと の隣で君を守る」
「…周助…愛してるわ」
「僕も を愛してるよ」
 細い身体を少し力を入れて抱きしめなおして。
 愛しい恋人の桜色の唇に甘くて深いキスを落とした。




END

2004.10.04
Happy Birthday Marin chan.
森島まりん様のBirthdayに献上したもの。無事に引き取って頂けました。
まりんちゃん、受け取ってくれてありがとうv
続編の上に長い。20KB以上あるファイルってどうなの?

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