Meaning of Kiss




 長くしなやかな指が黒板の上を滑るように動く。
 書道のお手本になりそうなキレイな字だ、と はいつも思う。
 黒板に『伊勢物語』の和歌を綴る広い背中を見つめていると、その動きが止まった。
 不二はチョークを置いて振り返った。
 ノートに黒板を写さずに不二を見つめていた は、慌てて視線を下に向ける。
 気づかれた?
 少し視線を上げて教壇に立つ不二をチラッと見る。すると不二は口元を僅かに上げて、フフッと微笑した。
 やっぱり見ていたのに気がついていたのだ。
  は赤く染まった頬を隠すように机に教科書を立てた。

 学校でしか会えないなら、見つめていてもこんなに恥ずかしくなったりしない。
 けれど、彼とは一緒に暮らしていて、丸一日と言っていいほど顔を合わせているのだ。
 そんな状況にいるのに彼を見つめてしまうのは、不二に溺れている証拠かもしれない。

 そんなことを考えていると、教室にチャイムが鳴り響いた。6限目が終了することを告げる音だ。
「和歌は次の授業までの宿題にするから忘れないように」
 不二は静かで落ち着いた声で言って、開いていた教科書を閉じた。
 宿題が出たことに対して生徒から不満の声が上がらないのは、不二の笑顔がそうさせているからだ。もっともその笑顔は、人によって感じ方や捕らえ方が異なるけれど。
「今日の授業はここまで」
 その言葉を合図に、日直が号令をかけて授業が終了した。
 教室のあちこちで席を立つ音や話声が聴こえる。

 自分を呼ぶ声がして視線をそちらに向けると、教壇で不二が手招きしていた。
 不二がこういう風に呼ぶのは、初めてのことではない。
 だから はいつからか授業の後に呼ばれても気にしなくなっていた。
 それに は古典係になっているので、不二が呼んでも不振がる視線はない。
 ただ――羨望の眼差しを向けられるのには、少しだけ良心が痛むけれど。
「なんですか?不二先生」
 いつもと同じ言葉を口にして、 は不二を見上げた。
 色素の薄い切れ長の瞳を細めて、優しく愛おし気に不二は を見つめる。
 教室のような人目の多い場所でこんな顔をされたら、周囲に知られるのは時間の問題だと思う。
 不二は教師、 は生徒。
 もしもの話ではあるが、気がつかれた時にどうするつもりだろうと時々脳裏を掠める。
 けれど の懸念が不二にわからない筈はなく、そうはならないように不二が動いていることを は知らない。
「来週の授業で使う資料をまとめたいから手伝ってくれ」
「わかりました」
 家でなら絶対に使わない口調だと頭の片隅で考えながら、小さく頷いた。
 すると、ごく小さなクスッという笑い声が耳に届いた。
「助かるよ。ホームルームが終わったら僕の所に来て」
 彼の言葉に心臓がドキドキと早鐘を打つ。
 資料はただの口実。学校での逢瀬を隠すためだけのもの。
 ――僕の所に来て
 その言葉が合図。
 言われた通りに手伝わされたことは一度もない。それはこの先も変わらない。
 が頷くと、不二は秀麗な顔に笑顔を浮かべた。
 周囲の様子を気配と視線だけて窺って、 の耳元へ唇を寄せる。
「待ってるから早く来てね、
 不二は甘く囁いて、何事もなかったように涼し気な顔をして教室を出ていった。
 閉まったドアを名残り惜し気に見つめていると、後ろから右肩を軽く叩かれた。
「今日も二人きり?羨ましいぞ、
 振り返ると、意味深に微笑んだ親友の姿があった。
  は学校で唯一、と不二の関係を知っている人物だ。
 二人は幼馴染みで姉妹のように仲がいい。 は親友である にだけ真実を話していた。
 それゆえか、今のような場面に出くわした時には、ほとんどと言っていいほど絡んでくる。
 それはが不二を好きだからという理由ではなく、とのスキンシップの為だ。
「そういうこと言わないでって言ってるでしょ」
「照れなくてもいいのに。 、可愛い〜」
「もうっ」
 ぷいっと親友に背を向けて、 は自分の席へ戻った。
 不二の囁きに赤くなりそうだったのを、なんとか堪えていたのに。
 ポーカーフェイスを保てなくなるではないか。


 ぼんやりと担任の話を聴いていると、ようやくホームルームが終わった。
 クラスメイトが部活や掃除へと向かう中、掃除当番でもなく委員会もない は西館へ足を向けた。


 人影も疎らな校舎の中は、放課後とは思えないほど静かだ。それは、この西館が特別教室しかない棟だからである。
 西館には階段がふたつある。そのうちのひとつは生徒たちの間で『裏階段』と呼ばれている。
 裏階段と呼ばれているのは、霊が出る噂があるとかそういった心霊的なものではない。
 ただ単純に、全くと言っていいほど使用されないためだ。
 今日の掃除は終わったのか、5階のそこには誰もいなかった。
 ――ふたつの人影を除いて。
「早かったね、
 不二は腕を伸ばして白い腕を捕まえ、そっと引き寄せる。
「うん。ホームルームが早く終わったから」
「掃除当番でもないしね?」
「よく知ってるね、先生」
 わざとおどけて言うと、細い腰に回されている腕の力が強くなった。
 隙間がないほどに身体を密着させた状態で、不二は の耳元へ唇をよせる。
「先生じゃなくて、周助、でしょ」
 熱のこもった声で囁き、の耳を甘噛みした。ビクッと細い身体が反応する。
 それが可愛らしくて、不二は嬉しそうにクスッと微笑んだ。
「…周助さん、わざとやってるでしょう?」
 頬を桜色に染めて不二を睨む。けれど上目遣いで睨んでも、全く効果はない。
 それを証明するように、不二は掌で桜色に染まった頬を捕らえた。
 赤く色付く柔らかな唇にキスを落とす。
 触れるだけだった甘いキスが深く熱いキスへ変わるまで、時間はかからなかった。
 しっかりと抱きしめられて繰り返されるキスに、 の脚から力が抜けていく。
「… 、愛してるよ」
 身体の力が抜けて自力で立っていられなくなった細い身体を支えて囁く。
 色素の薄い切れ長の瞳に見つめられて、どうにかなってしまいそうだ。
「ずるい…」
 力なく睨みつけると、目元にキスが落とされた。
 キスは目元だけでなく、頬に額に落とされて、最後に唇へ落とされた。
「――周助さん、訊いていい?」
 自力で立つことを諦めた は、不二の胸にもたれるようにして口を開いた。
「いいよ。なに?」
  の柔らかな胡桃色の長い髪を梳くように指に絡ませ、穏やかな笑みを浮かべて不二は続きを促した。
「どうして学校でしか私にキスしてくれないの?」
 ずっと疑問に思っていた。
 ずっと訊きたいと思っていた。
 でも、面と向かって訊くのは恥ずかしくてためらっていた。
 けれど――。
「…さっきのは許してあげるから教えて」
 どことなく不安そうに髪と同色の瞳が潤んでいる。
 不二としては答えたくないのだが、 に泣かれたくない。
「笑わないって約束するならいいよ」
「笑うような理由なの?」
 思ったまま素直に訊いてくる恋人に不二は首を横に振った。
 そして、彼にしては珍しく困ったように微笑みながら。
「僕が学校でしか にキスしないのは、家だと君を抱きたくなるからだよ」
  は驚いたように目を丸くした後、頬を真っ赤に染めた。
「だから…なの?」
 家でキスする時、不二は唇以外の――頬や額にキスをしてくる。
 一緒に暮らすようになって半年が過ぎるが、彼が唇にキスしてくれたのは、一度だけ。
「可愛い唇にキスしたいのはやまやまだけど、押さえがきかなくなりそうだから…ね」
 長い指がゆっくりと唇の輪郭をなぞる。
 そっと細められた瞳で見つめられて、身体中の血が沸騰してしまいそう。
 恥ずかしいのに、彼の視線と指が熱くて動くことができない。
「…君を抱きたい。僕のものにしたい。だけど、けじめは必要でしょ」
 彼の真意を読み取ることができずに、 は彼を見つめていた。
 それが胡桃色の瞳に表れていたのだろう。
 不二は疑問に答えてくれた。
「ご両親が信用して君を預けてくれたのに、裏切る訳にいかないだろ」
 の両親は半年前から海外で暮らしている。それは、父親の海外赴任が決まったためだ。
 両親はも連れていくつもりだった。けれど は不二と離れたくなかった。
 すったもんだの末、ようやく日本に残ることを許してもらった。
 恋人と――不二と暮らすから心配はない、と。
「…プロポーズしてくれたのに?」
 学校ではしていないけど、彼から贈られた誕生石のついたエンゲージリングは、いつも身につけている。
「言ったでしょ。抑えられなくなるって」
 留め金が外れたら、欲望を抑えていられなくなる。
 家に愛しい恋人と二人きり。
 そんな状況で頬や額へのキスだけで我慢しているのは、 を傷つけないため。
 学校でしか唇にキスをしないのは、理性を繋ぎ止めておくための鎖だ。
「……私がいいって言っても?」
「それ、本気で言ってるの?」
 腰に回された不二の腕の力が強くなる。
 は小さく頷いて、恋人の顔を見上げた。
「…周助さんになら何されてもいいの」
 潤んだ瞳と真っ赤に染まった頬。
 縋るようにシャツの胸元を掴んだ細い指は微かに震えている。
 それでも は視線を逸らそうとしない。
「嫌って言ってもやめてあげられないよ?」
「…うん」
「一晩中離さないし、毎日…を抱くよ?それでもいいの?」
 返事をするのが恥ずかしくなったのか、 は不二の胸に顔を埋めた。
 白く細い腕がとまどいがちに不二の背中へと回される。
「……周助さんのものにして――」
 耳に届いた可愛い声に不二は幸せそうに切れ長の瞳を細めて、彼女の細い身体を軽々と抱き上げた。



「君を誰よりも愛してるよ」
 腕の中で眠る愛しい恋人に囁いて、細い身体を大切に抱きしめる。
「…周…助さん……」
 起こしてしまった、と思ったが寝言らしい。
 赤く色付く唇から微かな寝息が聴こえてくる。
 それに安心して、白い頬に優しいキスを落とした。
「――初めてなのに無理させてごめんね」
 呟きが闇に溶けて消えた。




END

チャットでネタを振ってくださった、鈴子さんに捧げます。
『夕暮れの校舎でぎゅっv』になって‥‥るのかしら(汗)
ヘボヘボでごめんなさい(> <) 

【Anjelic Smile】森 綾瀬


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