傍目にも何かいいことがあったのだろうと判断できるような笑顔で、は音楽室に向かっていた。
 始業時間まで、まだ一時間以上ある。この時間学校にいるのは部活のある生徒と数人の教師くらいで、校舎内はほとんど人気がなく、静寂に包まれている。
 そんな時間に彼女が学校にいる理由は、ひとつだけ―――。




瞳の先に




 音楽室の扉をそっと開くと、美しく優雅なピアノの旋律が耳に届いた。
 扉の開く微かな物音にピアノを弾いていた指が止まり、胡桃色の瞳がを捕らえる。
「おはよう、
「おはよ、
 弾むように挨拶する親友に、 はくすっと柔らかく微笑む。
「その様子だと、今日も王子様に逢えたみたいね」
「うん。今日もすごくカッコよかった」
 にこにこと幸せそうに微笑みながら、 は後ろ手で扉を閉めた。
  そして の傍らに移動して、彼女の定位置になっている椅子に腰を下ろす。
「それはよかったわね。でも・・・」
「でも、なに?」
  が問うように首を傾けると、は胸の前で腕を組んで軽く嘆息した。
「同じクラスなんだから、早く登校する必要はないと思うわ」
「そうなんだけど、やっぱり朝一番に逢いたいの」
 高校に入学した去年も今年もクラスメイトだから、教室に行けば顔を見られる。
 しかも隣の席だから、挨拶をすることも会話を交わすこともできる。
 それでも早く登校するのは、少しでも早く顔を見たいから。

「おはよう」


 そう言って、優しく笑いかけてくれる彼を見たいから。
 好きな人を少しでも長く、見つめていたいから。
 だから用事もないのに早く登校している。

「・・・朝からごちそうさま」
  はやれやれとばかりに呟いて、身体の向きを替え再びピアノに向き合った。
 白くて長い指が鍵盤の上に置かれる。
「ねえ、 。『花のワルツ』が聴きたい」
「高いわよ?」
  のリクエストにふふっと笑って が言う。
 親友が曲をリクエストしてくるのは、日常茶飯事。
 だから二人のやりとりもいつものことで、本気で言っているわけではない。
  は親友の弾くピアノの音が好きだ。
 もちろん、それ以上に彼女自身が好きなのは言うまでもない。



 放課後、 は教室で人を待っていた。
「遅いなあ、
 すぐに戻ると言っていた彼女は、まだ戻ってこない。
 教師に引き止められて、話が長引いているのかもしれない。
 そんなことを考えていると。
さん。ごめんね、待たせて」
 教室の窓際でオレンジ色に染まっていく空をぼんやり見上げていると、不意に声が聴こえた。
  は黒曜石のような瞳を驚きに瞠ったまま振り返る。
「不二くん?あの…待たせてって?」
 教室にいるのは を待っている自分しかいない。
 しかも、彼は自分の名前を呼んだ。
 だから人違いではないはず。
 けれど、言われている意味がさっぱりわからない。
 彼の言葉をそのまま受け止めると、自分が彼を待っていたことになる。
 そんな彼女の考えは黒曜石のような瞳にはっきりあらわれていた。
「用事があって早く帰らないといけないから送ってあげて欲しい、って部活前に さんから頼まれたんだけど?」

 なんでもない風に不二は言った。
 けれど、それを聞いた は、そのまま聞き逃すことができるはずもない。
「お、送ってあげてって・・・」
 見るからに動揺している に不二はクスッと小さく笑って、緩く首を傾けた。
 こんな状況にいるのに、こういう仕種もカッコイイなんて思ってしまう。
「僕が君をだよ。 それとも…僕と一緒に帰るのは嫌かな?」

 その言葉に、 は思いっきり首を横に振った。
「そっ、そんなことない」
 断る理由なんてどこにもない。
 でも、訊きたいことはたくさんある。
 それなのに、思考回路が麻痺してしまったみたいに言葉が出てこない。
 そんな に気付いているのかいないのか、不二はいつものように微笑んでいる。
「よかった。じゃあ帰ろうか」
 不二は微笑みながら窓際にいる に近付いた。
 不意に、しなやかな指が柔らかな黒髪に伸ばされる。
 思わず瞳を閉じると、クスッと笑う声が聴こえた。
「驚かせてごめん。髪についていたから」
 その声に瞳を開くと、彼の指に桜の花弁が摘まれていた。
 ドキドキと高鳴る鼓動が彼に聴こえませんように・・・。
 そう祈りながら、 は微笑んだ。
「ありがとう」
 彼は花弁を取ってくれただけ。
 それだけなのに、頬がすごく熱い。
 恥ずかしさに白い頬が淡く色付いていく。
 そんな彼女に不二は色素の薄い瞳を細めて微笑んで。
「君に触れるのは僕だけでいいから」
「や、やだ。不二くんてば冗談ばっかり言っ――」
「冗談なんかじゃないよ」
 彼の言葉をはぐらかそうとすると、少し低めの声で言葉が遮られた。
 色素の薄い瞳でまっすぐに見つめられて、動くことができない。
 瞬きも息をすることも忘れて、 は不二を見つめていた。
「僕は君が好きだから、誰にも触れさせたくない」
 その言葉とともに、不二は華奢な身体を抱きしめた。
 ぎゅっと抱きしめられて、ドキドキが止まらなくなる。
「・・・ふ・・・じく・・・」
「君が好きだよ・・・
 耳元で甘く囁かれて、 の両足から力が抜けていく。
 くずれそうになる華奢な身体を不二はしっかり捕まえた。
「君の瞳が僕を見ていたように、僕もずっと君だけを見ていたんだ」
 夢じゃない・・・。
 そう理解した瞬間。
 黒曜石のような瞳が潤んで、眦から涙が溢れた。
「・・・好き・・・不二くんが好き」
 あの時から―――ずっと。
 風に溶けて消えてしまいそうな小さな声が不二の耳に届く。
  の言葉に、色素の薄い切れ長の瞳が愛おし気に細められる。
「うん、僕もだよ」
 柔らかな優しい声が聴こえて、もう一度ぎゅっと抱きしめられた。




END

某日の不二会にて「永遠の乙女/ピュアな周助くん」というお題からできたものです。
不二会でご一緒してくださった、鈴子さん、奈央乃さん、まりんちゃん、みちよさんに捧げます。

2006.07.20  / Ayase Mori

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