Melody of Love




 梅雨が終わり、まもなく夏本番を迎える頃。
 不二は部活に向かう途中、一週間前に転校してきた人を裏庭で見かけた。
 クラスメイトたちが口々に「キレイな人よね」とか「日本人離れしてる」と噂していたのをふと思い出す。
 他クラスの転入生で隣のクラスでもないから、不二は噂でしか彼女を知らなかった。
 周囲がどんなに騒いでいても、転校生が入ったクラスを訪れてまで姿を見ようとする興味や好奇心というものが湧かなかったから。
 不二は、転校初日から可哀想だな、と思ったクチだ。騒ぐ側の人というのは、騒がれる側の人の気分をわかっていないから仕方ないのかもしれないが。
 不二が彼女の顔を知ったのは、移動教室の時に友人の菊丸から教えられて、だった。
 色素の薄い瞳に映っている転校生は、首をきょろきょろ動かして、何かを探しているような素振りをしている。
 立ち止まり、その姿をよく見ると、白い手に数枚の紙を持っていた。
 今日は少し風が強い。おそらく風でプリントが飛んでしまい、探しているのだろう。
 どのくらい探しているのかは知らないが、見て見ぬ振りはできなかった。
「僕でよければ手伝うよ」
「えっ?」
 不意に耳に届いた声に驚いて見開かれた胡桃色の瞳が、不二に向けられた。
 大きな瞳を瞬きさせる少女に、不二は首を傾げて微笑んで。
「ごめんね、驚かせたかな? これ、君のじゃない?」
 植木に引っ掛かっていた白い紙を拾って、少女の前に差し出す。
「あ…ありがとうございます」
 不二の手から紙を受け取って、少女はふわりと微笑んだ。
「窓を開けていたら、外に飛んでしまって・・・」
 困っていたんです
 恥ずかしそうに白い頬を赤く染めて呟いた。
「フフッ。それならなおさら手伝うよ」
「え…でも…部活に行く途中なんでしょう?」
 不二が左肩に背負っている青いテニスバッグを見て言った。
 胡桃色の瞳から少女が戸惑っているのを感じて、不二は安心させるように柔らかく微笑んだ。
「まだ時間はあるから大丈夫。それに、一人より二人の方が早く探せるよ」
「・・・じゃあ、お言葉に甘えます」
 不二の微笑みに安堵したのか、少女は胡桃色の瞳を和らげた。
「うん。 見つかってないのは何枚?」
「あと2枚です。そのうちの1枚は・・・」
 困ったように眉を寄せる少女に、不二はどこにあるのか、と訊くように首を傾げた。
 すると、少女は白く細い指で二人の脇にある桜の樹を差した。
 白い指の示す方に視線を遣ると、枝の間に紙らしきものが挟まっている。
「これはまたすごい所に引っ掛かったね」
「あ、あれはいいです。あとでなんとか…」
 首を捻る不二に少女が慌てたように声を上げた。
「なんとかって…どうするつもりなのかな?まさか君が登って取って来る、なんて言うつもりじゃないよね」
「そ、そんなこと・・・」
 僅かに視線を逸らして言った少女に不二は困ったように笑った。
「大丈夫だよ。僕にまかせて」
「でも・・・」
「その楽譜、とても大事なもの…なんでしょ?」
 しなやかな指で少女が胸に抱えている数枚の楽譜を差した。
 胡桃色の瞳が驚きに見開く。
「どうしてそれを・・・」
「楽譜が手書きだから。それと勘だよ。 取ってくるから、ちょっと待っててね」
 言うが早いか、不二はテニスバッグを肩から降ろし地面に置くと、桜の樹に手をかけて登り始めた。
 桜は幹が太く、枝が緩やかに斜めに伸びていたので、比較的登りやすい。
 楽譜の引っ掛かっているのが樹の頂上だったなら無理だっただろう。けれど楽譜があるのは、校舎の二階ほどの高さの枝だった。
 なんなく樹を登っていく不二を、少女は心配そうに見つめていた。



 ホームルームが終わった後、職員室で第二音楽室の鍵を借りて、特別棟にある音楽室へと向かった。
 鍵を開けて中へ入り、ふと窓の外を見ると木々の葉が風に揺れていた。
 風が気持ちよさそうだと思い、窓を半分ほど開く。緑の薫りを乗せた風が室内に流れ込む。風は思った通りに肌に心地よかった。
「このくらいなら全然問題ないわね」
 一人ごちて、グランドピアノの前にある黒い椅子に座った。
 鍵盤蓋を開けて、薄緑色のファイルに入れた楽譜を取り出し、楽譜立てに置く。すでに暗譜しているのだが、最終章の部分が納得できるように弾けない。それは、初見で弾きこなせてしまうことのできる彼女でも弾くことが困難な曲であるからだ。
 この楽譜は本来なら半年前に届く筈だった。だが、ある事情により10日程前に手元に届いた。
 少女の敬愛する人からの最後の贈り物で、彼女にとっては『お守り』のようなものだ。
 半年前までは上手く弾けない所があったら意見を聴ける人が近くにいた。けれど、その人は傍にいない。
 すう、と息を吸い込んで、両手の指を鍵盤に乗せた。
 鍵盤の上を滑るように白い指が動き、美しい旋律を豊かに紡いでゆく。

『音を出すだけじゃダメだよ。ピアノを歌わせるんだ』
『歌わせる?』

 遠い昔に交わした会話が脳裏に甦った。
 この時の自分はまだ幼くて、なんとなくわかっても言葉を完全に理解することはできなかった。
 けれど、今なら弾くことができる。

 ピアノを弾くことに集中していたから、風が強くなったことに気づかなかった。
 不意に室内へ強い風が吹き込み、楽譜がぶわっと宙に舞い上がった。あまりに強い風に思わず目を瞑ってしまい、目を開いた時には楽譜が床に散らばっていた。
 破けていないことに安堵しながら、数を数えて拾っていく。けれど、楽譜は3枚しかなかった。
「まさか・・・」
 呆然と呟いて、開いている窓から外を覗く。
 すると、地面に楽譜らしきものが落ちているのが見えた。
「早く拾いにいかなきゃ・・・!」
 もし今みたいな突風が吹いたら、別の所に飛んでいってしまうかもしれない。
 残った楽譜がなくならないようにしっかり手に持ち、音楽室の鍵をかけ大急ぎで裏庭へ向かった。



 枝の間に挟まっている楽譜を取ると、不二はそれを破らないように注意しながら樹を降りた。
 不二の足が地面に着くと、少女は心底ほっとしたような表情を浮かべた。
「あのっ…怪我してないですか?」
「どこもなんともないよ。大丈夫」
 不二は柔らかな笑顔で答えて、はい、と楽譜を差し出した。
 少女は白い手でそれを受け取って。
「ありがとうございます。 危ないことさせてしまってごめんなさい」
 そう言って頭を下げる。
 顔を上げた少女の胡桃色の瞳は、申し訳なさそうに不二を見ていた。
「気にしないで。困った時はお互い様だよ」
 笑いかけると、少女の顔にも笑みが浮かんだ。
「楽譜、あと1枚だよね?」
「はい」
 不二が確認すると、少女は小さく頷いた。
「まだ探してないのはどのあたり?」
「あ、奥の方がまだ‥‥」
「わかった。僕は向こうを探すから、君はこっちを探して?」
「はい」
 返事をすると、不二は裏庭の奥の方へ姿を消した。
「・・・あっちを探してみよう」
 少女は校庭に近い方へ足を向けた。
 風に飛ばされたといっても、そこまで遠く飛ばされてはいない筈。
 樹の枝の間に挟まっていないといいけど、と思いながら視線を動かす。
 すると3メ−トル程先に白い物が見えた。足早にそこへ向かい、植木の根元に落ちている紙を拾った。
 けれど―――。
「‥‥らくがき?」
 誰かの落とし物なのか、自分のように風で飛ばされてしまったのかわからないが、探しているものと違ったので、少し考えた後、元の場所に戻した。
 落とし物で届けても持ち主が取りにくるとは思えないし、拾って捨てるというのも気が引けた。悪いかなと思いつつ、判断は清掃の人に任せることにして、その場を去った。
「このへんはどうかしら」
 まず回りを見渡して、それらしきものがあるか確認する。
 次に地面を見渡してなければ、植え込みを確認してみる。
 このあたりにも落ちてはいないようだった。
 少女は疲れとも落胆とも取れる溜息を吐いて、校庭に近い方の裏庭へ向かった。
 少女が楽譜を探して校舎から遠ざかっている頃。
 不二は僅かに歩いた場所で楽譜を見つけていた。
「どうやら僕の方がアタリだったみたいだ」
 今度も枝に引っ掛かってしまっている。
 不二が少し背伸びすれば取れる程の高さなので、楽譜はすぐに取れた。
 それを手に、不二は少女の元へ足早に向かった。



「あの・・・不二くんいますか?」
 遠慮がちに、扉近くの男子生徒へ声をかけた。
「不二ならあそこに…って、 さんじゃん!」
 男子生徒が勢いよく立ち上がった反動で、椅子がガタンと床に倒れた。
 大きい声とその音に は驚いて肩をびくりと震わせた。
 それを気にすることなく、男子生徒が声を掛けようとした瞬間。
「僕を迎えに来てくれたの?フフッ、嬉しいな」
 男子生徒の肩に手を掛けることで自分の存在を知らせて、不二は に声をかけた。
 不二は色素の薄い瞳を細め、一瞬だけクラスメイトに視線を向ける。
 物言わぬ視線にクラスメイトはがっかりしたように肩を落とした。
「あの、不二くん?」
 事態が飲み込めず首を傾ける少女に不二はにっこり笑って。
「ここで話すと目立つから、どこか行こう」
「あ…うん」
 こくんと頷く を連れて、不二は裏庭へ向かった。
 屋上や中庭も考えたが、昼休みである今、生徒がいるだろう。
 テニス部の部室という手もあるが鍵がかかっているし、もし鍵がかかっていなくても、狭い部屋に男と二人では彼女を怖がらせてしまうかもしれない。
 そう考えると校内であまり目立たない場所は裏庭くらいだった。
「ここまでくれば平気かな」
 人がまったくいないわけではないけれど、この場所なら聞き耳を立てられていてもすぐにわかる。
 目立ちたくはないので、なるべく人目につきにくい場所を選んだ。
「座ろう?」
 不二の言葉に頷いて、近くのベンチに並んで座った。
 木々の隙間からわずかに光が差し込んで、キラキラ輝いている。
「今日はどうしたの?」
 首を傾けて訊くと、 は柔らかく微笑んだ。
「不二くんに昨日のお礼をしたくて」
「そんなのいいよ。僕が勝手にしたことだから」
 だから、気にしなくていいよ。
 そう言って、不二は優しく微笑んだ。
 彼女を助けてあげたい。そう思ったから行動したまでのこと。
 だから、礼など必要ない。
「でも・・・」
「……君のピアノを聴かせて欲しいって言うのはダメかな?」
 不二は気にしていないが、 の気持ちを考えると無下に断るのも申し訳ないような気がした。
 だから、彼女にはあまり気を遣わせない程度に、そう言った。
  は不二のセリフに驚いたように胡桃色の瞳を瞬きさせた。
 そんな彼女に不二はクスッと笑って。
「今練習してるっていう曲が弾けるようになったら、僕に一番に聴かせてくれない?」
「・・・そんなことでいいの?」
 少し考える素振りをして、 は首を傾けた。
 それに不二は首肯する。
「君の音を聴かせて欲しいんだ」
「不二くん・・・」
「きっと君の心を映したように、美しい音色だろうね」
「そんな・・・」
 色素の薄い瞳を細めた言った不二に、白い頬が瞬く間に赤く色付く。
 表情を豊かに変える に不二は優しい笑みを顔に浮かべた。
「楽しみにさせてもらっていいよね?」
 その言葉に はしっかり頷いた。
「弾けるようになったら、不二くんに言うね」
 そう言って、 は恥ずかしそうに微笑んだ。
 彼女の微笑みに、不二は色素の薄い瞳を眩しそうに細めた。


 緑の薫りを乗せた風が、通り抜ける。
 その風に応えるように、木々の葉がさわさわと音を奏でる。
 真っ青な空の下で交わした約束が叶えられたのは、太陽の眩しい夏の日のことだった―――。




END

キリ番がいくつだったかわからなくなってしまいましたが(汗)
踏んでくださった、森島まりんちゃんに捧げます。
『新婚さんで、寒い夜だけど2人で寄り添ってたらあったかい、みたいな雰囲気の甘いもの。その2人の出会いの話』というリクエストでしたが、ご希望にそえているでしょうか?
お気に召していただければもらってやってください。

2006.07.22 / 森 綾瀬

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