rareness ― case of Saeki ―




 朝夜はもちろん、太陽が出ている日でも昼間は寒さが身に染みるようになってきた、12月最初の月曜日。
 天気は快晴だったが気温は低く、朝は珍しく暖房を入れた。
 リビングの冷たい空気が暖房の熱でゆっくりと暖かくなっていく。
 手足はほんの少し冷えているけれど、肌寒さは感じなくなってきてはほっと息をついた。
 これから朝食の用意をしなくてはいけないのだが、その前に少し温まろうと思い、はソファから立ち上がった。温かいお茶を飲もうと、リビングから続くカウンターキッチンへ行く。
 赤いケトルに水を満たし、火にかける。保温式のポットを使っているから、毎朝多めに湯を沸かすのだ。
「何を飲もうかなあ」
 はジャワティーが好きでよく飲む。そのジャワティーはペットボトルで、冷蔵庫に一本入れてあり、常温に二本買い置きをしてあるのだが、冷たくして飲むように作られているのだし、温めても美味しくないだろうと思う。ちなみには気に入っている飲み方がある。ペットボトルから直接飲むのではなく、中身をティーカップに移して飲む飲み方で、先日虎次郎がそうしてくれて以来、のお気に入りとなっていた。
 昨日家に遊びに来た不二夫妻から貰ったコーヒーを飲むことにし、そのコーヒーが入った缶と、ドリップするのに必要な器具を揃えて出す。
 しゅんしゅんと湯気が立ち沸いた湯を、口の細いコーヒー用ケトルとポットに注ぐ。
 そろそろ虎次郎が起きる頃だから、サーバーにカップ二杯分のコーヒーを作った。サーバーは耐熱性で火にかけられるから、コーヒーが冷めてしまっても温められる。
 マグカップにコーヒーを注ぎ、それを持ってリビングへ戻って、ソファに腰を下ろした。
「あったかい〜」
 両手でマグカップを包むように持つと、じんわりと熱が手に染み入り、温かくて幸せな気持ちになる。
 湯気の立つコーヒーを一口啜る。
「……わあ、すごい美味しい」
 体に染み入るコーヒーの温かさと、香り立つ美味しいコーヒーに生き返った心地になった。
 さらに一口飲んで美味しさに頬を緩めた時、リビングのドアが開く音がした。
 反射的に視線を向けたの瞳に、朝にふさわしい爽やかな笑顔が映る。
「おはよう」
「おはよう」
 挨拶を返したの隣に虎次郎は座った。
「何飲んでるの?」
「昨日貰ったコーヒー」
「ああ、不二たちがくれた?」
「うん。虎次郎の分も淹れたから持ってくるね」
「いいよ。は座ってて」
 立ち上がりかけたはおとなしく座りなおした。虎次郎の視線がお腹に向けられたからだ。臨月だからなのか、最近の彼は少し過保護なくらいだ。けれど大切にされているのがわかるし、嬉しいから、は甘えることにしていた。
 二人並んでコーヒーを飲みながらたわいないおしゃべりをした。
 それから二人で朝食を作り、それらをいつもの朝より少しだけ時間をかけて楽しんだ。



 時刻が三時になろうかという頃。
 穏やかな時間は大慌てな時間へと変わった。
 唐突だったけれど、近いうちにやってくるだろうという予感はあった。それがたまたま今になっただけだ。
「ええっとタクシーは呼んだだろ。家に連絡も入れた。それから……」
 虎次郎は前髪を左手でかきあげながら、すべきことを整理する。
「病院には私が連絡したから、荷物を持って病院へ行くだけよ」
 はソファから立ち上がりながら言った。
 落ち着きのない虎次郎は珍しいけれど、は十数分に一回おきる陣痛に何か言う余裕があまりない。
 呼んだタクシーに乗り込んで、かかりつけの病院へ向かった。


 陣痛の間隔が二分おきくらいになったが分娩室に入り、分娩中の文字盤が赤く点灯した。
 分娩室の前、待っていられるようにソファが置かれている廊下は、病院独特の匂いがする。
 虎次郎はその廊下を、かなり長い時間行ったり来たりしながらうろうろと歩き回っていた。彼の顔は見るからに落ち着きがなく、ともすれば泣く寸前のようにも見えた。
 しばらくの間歩き回っていた虎次郎がようやくソファへ腰を下ろした時、尻の僅かに上に堅いものが当たった。
 携帯電話の存在を思い出し、黒いボトムのポケットに突っ込んでいた携帯電話を出した。ここでの使用が禁止かどうかを確かめる余裕はなく、虎次郎は着信履歴から電話をかけた。
「佐伯、どうしたの?」
 昨日会ったばかりの友人の声が耳に届く。
「いや、明日の天気が気になってね」
「12度らしいよ」
「晴れるかな」
「晴れるみたいだね」
 打てば響くような会話だが、内容としてはどうでもいいと言えた。
 唐突な質問に訝しげな様子を微塵も滲ませない不二に、落ち着きのない虎次郎は不思議に思わなかった。ちなみに不二が驚かない理由は、「さんが産気づいたんだって」という報がめぐりめぐって届いたからだった。
「……まだなんだね」
「ああ、まだなんだ」
 突然の電話の理由を聞かない不二に言われても、虎次郎は疑問に思わなかったから、溜息とともにそう言った。
 数分の間お互いに無言というおかしな電話は、虎次郎の目の前のドアが開き、「あっ!」と声を上げた虎次郎に、「よかったね」と不二が言って終了した。


 保育器に入る前の我が子をと一緒に見たのまでは覚えているが、気がついた時にはが移された病室で二人きりになっていた。
「…虎次郎」
 がそっと名を呼んだ。
……あの…さ…」
 虎次郎は目元を照れたように僅かに赤く染めながら、切れ長の瞳でをまっすぐに見つめる。
 コホンと空咳をした虎次郎は、布団の中にあるの右手を出して、両手でしっかりと包みこむように握った。
「………ありがとう。それから、お疲れ様」
 は一瞬息を詰めて、ついで嬉しそうな微笑みを浮かべた。
「……うん」
 小さな頷きの声と同時に、の黒い瞳が嬉し涙に濡れる。
「女の子だから、名前――」
 二人で決めたこどもの名前をが口にする前に、優しいキスが唇に降りてきた。




END

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