rareness ― case of Teduka ―




「………今日は終わりにしておくか」
 トレーニングを始めて二時間半程を過ぎた頃、国光は誰に言うでもなく呟いた。
 いつもなら休憩を入れつつ、四、五時間はトレーニングをしている。だが今日はどうにも気がそぞろで、集中できずにいた。集中力が欠ければ怪我に繋がる。
 国光が集中できない原因は、だ。結婚してもうすぐ半年目になるが妊娠していて、臨月に入っていた。その彼女が気になって心配で、ふとした瞬間にの姿が浮かんでトレーニングに身が入らない。
 まだ大丈夫だ。
 先々週にから聞いた予定で考えれば五日早い。
 それに今朝、もまだ大丈夫よと言っていたではないか。
 そう何度も自分に言い聞かせていたのだが、それもそろそろ限界だった。
 このままトレーニングを続けても意味がないし、なにより今は自分が怪我をするのだけは絶対に避けなければならない。ドイツから日本に帰国してきたから、万が一自分が怪我をしたとしてもが頼れる人がいなくなるわけではない。けれど、彼女の傍にいて支えるのは自分でありたいし、最愛の人を守れる男でありたいと思う。



 トレーニングに使用していた道具を返却し、荷物をまとめて国光は帰路に着いた。ジャージから着替える時間さえ惜しかったが、汗をかいていたから服に着替えた。なにげにシャツのボタンを一つ掛け違えるという彼らしくないミスをしていたが、セーターを着、コートを羽織っているので脱がなければ本人さえ気がつかないだろう。
 オートロックのマンションの玄関をくぐり、エレベーターホールへ行く。けれどエレベーターは最上階まで行っていたため、その脇の階段を自宅のある五階まで上った。妊婦であるが一緒ならばエレベーターを待って使うが、今は一人なので問題なかった。
 国光は自宅の玄関ドア前で数秒間逡巡した。まだトレーニングをしているはずの時間に帰宅したことで、を驚かせてしまわないかと思ったのだ。いや、理由を言ったら苦笑するかもしれない。怒る…ことはたぶんないだろう。というか、そう願いたい。
「ただいま」
 鍵を開けて家に入ると、シンと静まり返っていた。
 フラット式の二階建ての自宅は窓が大きく取られていて、天気のいい昼間は電気をつけなくても光が入って明るい。だが今はカーテンが閉まっていて薄暗かった。
 妊娠すると眠くなるのね、とは言っていた。何度かそれを見かけたことがあるから今もそうだろうと国光は思った。
 寝室はリビングの隣なので、一旦リビングへと行く。と、ガラステーブルの上に一枚の紙がのっていることに気がついた。薄暗い室内では見えづらく、ラケットバッグをフローリングの床に置いて、重しになっていた一輪挿しをどかして紙を手に取った。
 文面を読み初めてすぐ、顔色がさっと変わった。
「9時40分…」
 今の時刻を腕時計で確認する。11時13分だった。が家を出てから一時間半位経っている。
 出産が終わるまでどのくらいの時間がかかるのか。人によって変わるだろうが、一般的にかかる時間の目安さえわからない。
 先月こどもが産まれた不二に話を聞いておけばよかった。
 そう思って、国光ははたと我に返る。
 ここで考えてる場合ではなかった。
 とにかく早く病院へと着の身着のまま家を飛び出した。


 病院はの定期健診で一度だけ彼女と来院した。
 自宅にあったメモはの姉が書き残してくれていたものだったから、産婦人科でを探せば早いだろうと急ぐ。当然ながら歩くのではなく走って。注意される声が聞こえた気がするが、素直に聞ける余裕は全くもってなかった。
さん!」
 目当ての人の姿が目に飛び込み、国光は叫ぶように名を呼んだ。駆け寄って来た国光には口元に人差し指を当て、静かにするよう仕草で示した。幸いにして彼女の周囲には病院関係者の姿はなく、咎められることはなかった。
は…!?」
 礼儀正しい国光が挨拶もなしに問うが、は予想の範疇内だったので全然気にしなかった。
「中にいるわ。30分くらい前に入ったけど、もう少しかかるみたい」
「そうですか」
 安心するでもなく、眉間に皺を寄せる国光に内心首を傾げつつ、は疑問を口にした。
「国光君。病院に来たのはメモを見て?」
「はい、そうですが」
 それがどうかしたのかと思ったが、そこでふと疑問が浮かんだ。
 が心配になってトレーニングを切り上げて帰宅し、あのメモを見つけた。けれど、もし切り上げずに帰宅していなかったら、ここにはいない筈だ。
「なぜは電話で連絡してくれなかったんだ?」
 眉根を寄せて呟いた。トレーニングの最中は携帯電話を持っていないが、ジムへ電話してくれれば連絡はつく。緊急時の為、にはジムの電話番号を教えているのに。
「わたしは国光君の携帯番号しか知らないから携帯にかけたんだけど、電源が入ってなくて繋がらなかったから、伝言を残せなかったの。 でも間に合ってくれてよかったわ。わたし仕事を抜けてきてしまったから、戻らないと。あとはお願いね」
 驚愕の真実に驚いて瞳を瞠って固まる国光に矢継ぎ早に言って、彼が返事をする間もなくは行ってしまった。
 コートのポケットに手を入れて携帯電話を出す。の言ったように電源が入っていなかった。
「…………」
 手の中の携帯に電源を入れてなんとはなしに電話をかけた。電話をしようと意識してのことではなく、無意識に頭と手が動いていた。
「ああ、手塚。どうかした?」
「いや、なんでもないんだが。 明日は晴れるだろうか?」
「…12度だって」
 不二の返答に一瞬の間があったのは戸惑いからではなく、ちょっと笑いそうになったのを堪えたからだった。ということに国光が気がつくはずもなかった。それに、その一瞬の間を気にする余裕のようなものが今の国光にはない。
 不二と電話をしながらそわそわと落ち着きなく円を描く様に歩き回っている国光の姿は、学生時代からの友人たちが見たらさぞかし驚くに違いない。
「長い」
「そうだね」
 数秒の沈黙が落ちた。それを破ったのは不二だった。
「………まだなんだね」
「ああ、まだだ」
 苦しさを吐き出すように言った。
 それから二言三言交わして電話を切った時、キッと音がした。分娩室のドアを開けた手術着姿の女性と目が合った。
「手塚さん?」
「そうです。…妻とこどもは!?」
 勢い込んで聞くと医者らしき人はにっこり笑った。
「母子ともにお元気ですよ」
 それを聞いて国光はほっと息をついた。


 の出産が無事に終わって数分後。国光は病室に移ったと一緒にいた。
「すまない」
 眉根を寄せて心底すまなそうな顔をする国光には横になったまま緩く首を横に振った。
「来てくれてたじゃない」
「しかし……そう、だな」
 疲れているだろうに気を遣わせてどうする、と再びの謝罪は飲み込んだ。
「…出産とは時間がかかるんだな」
「うん。でも私はそれほどかかってないみたい」
「そうなのか?」
 それはもうものすごく待った気がするのだが。
「不二君の奥さん、けっこうかかったって聞いたわ」
 不二、と呟く夫を見、は首を傾げた。
「不二君と何かあったの?」
「いや、なにもないが」
 何もなかったようには見えない表情だったが――眉間に皺がよっていた――は追求しないであげることにし、話題を変えた。
「ね、赤ちゃん、見た?」
「ああ。お前に似ているな」
 ふっと国光の表情が和らぐ。はふふっと笑って。
「目のあたりとかあなたに似てるわよね」
「そうか?」
「ええ。あなたに似て素敵な…女の子になるわね」
 国光はフッと切れ長の瞳を細める。
「それを言うなら、お前に似た女性だろう?」
「そうね」
 幸せそうにが微笑む。
「…。ありがとう」
 はそっと触れるだけの優しいキスにこの上ない幸福を感じた。




END

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