俺がお前を誘った意味を お前わかってないだろ?

 ほかの人間なんてどうでもいい

 お前がいなければ意味がねぇ




 ずるい人




 10月4日、土曜日。時刻は午後2時過ぎ。
 二階にある自室の窓から空を見て、は溜息をついた。本日これで3度目だ。
「明日、忘れんなよ」
 昨日、別れ間際に――自宅まで送ってくれた跡部に念押しされた言葉が、頭の中で何度も繰り返している。
 透かし模様の入った、金字で名前が書いてある白い封筒を彼から渡されたのは、二週間位前。封筒の中に入っていたのは一枚のカード――招待状だった。
 嬉しいのと信じられないのとで、何度も招待状に目を通した。
 その時は手帳に予定として書き込んだほど嬉しかった。早く当日にならないかと楽しみにしていた。
 生まれてから今までパーティになど行ったことがなくて、着ていく服はどうしようと結婚して家を出た姉が義兄と遊びにきた時に相談したりもした。
 私のでよかったら貸してあげる、と先週の土曜日の夜、姉からドレスが宅配で届いた。姉とは好みが似ているので、ドレスは一目見て気に入った。
 そのドレスに合わせたアクセサリーも一緒に貸してくれて、来週はいよいよパーティだと思うと心は弾んでいた。
 それなのにパーティの日が近づくにつれ、気持ちが重くなっていった。
「…そんなこと、考えたこともなかった」
 一人ごちて、それをすぐに否定した。
 違う。
 考えたことがなかったのではなく、考えないようにしていた。
 考えてしまったら、傍にいることを許されないような気がしたから。
 第一印象は俺様で高慢な人だったから、彼に惹かれるとは思わなくて。
 跡部を好きになって、彼と付き合うことになるとは思わなかった。
 はあ、とが4度目の溜息をついた時、インターフォンが鳴った。
 両親は朝早くに出かけたので、家にはしかいない。二人は今日から月曜まで、旅行に出かけているのだ。
 は部屋から出て階段を降り、玄関へ向かった。
 鍵を開けて扉を開く。そこにいたのは、腕を組んで不機嫌そうに斜に構えた跡部だった。
「景吾…」
「なにやってんだ、
 いつもより幾分か低い声に、はぐっと押し黙った。
 想像していたより遙かに不機嫌そうだ。
「着てく服にでも悩んでるのかと思ったが、そうじゃなさそうだな」
 瞳を細める跡部をは見返した。
 跡部が自分を押し通すのならば、自分もそうするだけだ。
 たとえ勝ち目が薄いとしても。
「服はあるわ。すみれ色のドレスが」
 の言葉に跡部は柳眉をひそめる。
「お前に似合う色じゃねぇな。俺が買ってやる。いくぞ」
「は?行くって…ちょ、ちょっと、景吾!」
 ぐいっと腕を引かれて、跡部が連れ出そうとしているのだと気づき、は慌てて制止の声を上げた。
「文句ならあとで聞いてやる」
「そうじゃなくて!私しかいないのよ」
 それだけでが何を言いたいのか理解した跡部は小さく舌打ちして腕を解いた。
「20秒だけ待ってやる」
 それ以上は待たない。1秒でも過ぎた時点で連れて行く、と跡部の瞳は告げている。
 相変わらず強引な彼に呆れながらも、少し喜んでいる自分がいて複雑な気分だ。
 やっかいな男を好きになってしまったと思っても今更だ。今更嫌いなどなれる筈がない。
、7秒経過したぞ」
 にやりと人の悪い笑みを浮かべる跡部には軽く眉をひそめたが、踵を返し自室へ向かった。
 言い返えしていたら時間が無駄になってしまう。
 化粧は勿論、着替えも、バッグの用意すらする時間もない。
 勉強机の上に置いてある携帯電話と家の鍵だけを取って、は部屋をあとにした。
 急かす景吾が悪いのよ。ドレス以外にも必要なものは全部買ってもらうから!
 胸の内で文句を言いながらが玄関へ戻ると、跡部は満足そうに口端を上げてフッと笑った。
 まるで「上等だ」とでも言いたげな表情だ。
「早かったな」
「遅れたらうるさいからよ」
 悔しいので言い返して、靴箱からショートブーツを出してそれを履く。
 玄関を出る跡部に続いて家を出て、は扉に鍵をかけた。一度扉を引き、鍵がかかったのを確認する。
「どこか開いてたりしないだろうな?」
「ええ、大丈夫よ」
 窓などは昨夜寝る前に閉めたままなので戸締りは問題ない。
「そうか」
 家の前で待たせているロールズ・ロイスに、跡部が乗り込む。それに続いても乗った。
 二人を乗せた真っ白な高級車は、住宅街を静かに発車した。


 それから30分程走った頃、車はとある店の前で止まった。
、降りるぞ」
 勢いに任せて家を出たものの、は降りることに戸惑った。
 どこからどうみても高級店にしか見えない。
 ブランドには全く興味がなく、どのようなブランドが人気があったりするのかも知らない。
 けれど、ブランドが高いものだということは知っている。
 着いてから気がついたのだが、跡部が庶民というか一般人が利用する店に来るとは思えない。
 こんなことになるのなら自分で跡部家へ行くのだったとは後悔した。
「景吾、本当に?」
 彼が本気なのはわかっていて、思わず訊いてしまう。
「あーん?今更なに言ってやがる」
「…そう…よね」
「フッ、安心しろ。俺様直々にコーディネイトしてやる」
 やる気満々というか、得意気に跡部が笑う。
「…お願いします」
 偉そうだが、跡部のセンスは信用できる。
 跡部は自分好みの服を着せそうだと思われがちだが、実際は違う。
 他の人へはどうだか知らないが、少なくとも自分にだけは真実似合うものを選んでくれている。
 もっとも、そうわかったのは親しい人に指摘されて、もしかしたらと思っていたのが確信に変わってからだが、経過はどうあれ信用していることに変わりはない。
「なんだ、やけに素直だな」
 跡部は面白そうに笑ったが、それ以上は何も言わずに運転手が開けたドアから車を降りた。
 だからも何も言わずに車から降りた。
 店に入った二人を出迎えたのは、スーツ姿の50歳くらいの男性だった。
「いらっしゃいませ、跡部様」
「ああ、久しぶりだな、支配人。ちょっと見せてもらうぜ」
「はい、ごゆっくりどうぞ」
 男性は頭を軽く下げたあと、一歩後ろへ引いた。
 手馴れている跡部には心の内で溜息をついた。世界の違いを見せ付けられたようで、胸が痛い。
 火曜日に跡部の友人である忍足の何気ない言葉を聞いていなければ、ここまで落ち込むことはなかっただろう。
 けれど、聞いていなければいつまでも向き合えなかったかもしれない。

「えっ、あ、なに?」
 ハッとして跡部を見上げたの黒い瞳に訝しげに柳眉をひそめた彼が映った。
 跡部は聡い。顔に出てしまっていたら、気づかれてしまったかもしれない。
「…俺から離れるな」
「え、ええ」
 一呼吸分おいて言われた言葉に、は気づかれなかったみたいだと安心して気がつかなかった。
 跡部の言葉はを促すためではなかったということに。

 この店は一階がメンズ、二階にレディ−スをおいてある。
 二人は店の中央にある螺旋階段で二階へ上がった。
 まるで始めから決めていたように、跡部は次々と必要なものを揃えていく。
 黒いノースリーブのスレンダーラインの丈の短いドレス。透けて見えるチュールレースのような極薄の長方形の布。
 飾りにラインストーンがついたシルバーのミュール。ミュールと同色のパーティバッグ。
 イヤリングにネックレス、ブレスレット、アンクレットのアクセサリー。
「あとは…」
 顎に手をあて考える跡部に、はまだ選ぶのかと内心で冷や汗をかいた。
 確かに家を出る時は買わせてやると思っていたが、想像の範疇を超えている。
 はドレスとアクササリー、靴があればいいと思っていたのだ。全部でいくらになるか想像しただけで恐い。
 そんなことを考えていると、不意に跡部が横を向いた。
 急に瞳が合って、はドキリとした。
「な、なに?」
 が訊いても応えはなく、跡部はじっと彼女を見て何か考えているようだった。
 やがて数十秒後、跡部は踵を返して歩き出した。
 なんだったの、と思いながらも、は跡部のあとを追った。
、先に乗ってろ」
 その言葉で買い物は終わったのだとは理解した。
 支払うところを見せないあたり、スマートだなあと思わず感心してしまう。
「ええ。…ありがとう、景吾」
 首を傾けて、はふわっと微笑んだ。色々驚いたけれど嬉しかったから、言いたかった。
 跡部は一瞬だけ瞳を瞠って、ついで瞳を細めてフッと笑った。
「やっと……な」
「え?」
「なんでもねぇよ」
 よく聞こえなかったので聞き返したが、もう一度言う気はないらしい。
 そんな重要なことでもないんだろうなと、「じゃあ先に戻ってるわ」と言い残し、は先に車へ戻った。
 が店を出て車に乗ったのを確認してから、跡部はカウンターへ向かった。
 跡部はカウンターで支配人と二言三言会話を交わし、会計を済ませると車へ戻った。
「持って帰るからトランクに入れてくれ」
「かしこまりました」
 跡部は親指でくい、と店から出てくる店員を差す。
 運転手がドアを開けると、跡部は車内へ入った。
 それから数分後、トランクに荷物を積んだロールズ・ロイスは跡部邸へ向けて出発した。


 門をくぐり、敷地内の道を通り、邸の前で車が停止する。
 跡部はを連れて邸の中へ入った。
「お帰りなさいませ、景吾様」
「ああ。 用意はできているか?」
 出迎えた執事に問う。
「はい。全て整えてございます」
「なら、そこに荷物を運んでくれ」
「かしこまりました。では景吾様、その間は客間でよろしいですか?」
「そうだな。頼む」
「はい」
 二人の会話をは聞いていたが、意味がよくわからなかった。
 主語がなくても会話が成立しているということは、あらかじめ何か決まっているということ。
 荷物というのは店で買ったものだとわかるが、用意とはなんなのだろう。
「なんだ?何か言いたそうだな」
 跡部の後頭部をじっと見つめてがあれこれ考えていると、跡部が肩越しに振り返った。
「用意ってなに?」
 が疑問を唇に乗せると、跡部は口端を僅かに上げ笑った。
「あとでわかる」
 明らかに楽しんでいるとわかる跡部の表情に、は「そう言うと思ったわ」と呆れた顔で呟いた。
 いつもこの調子ではぐらかされて、欲しい答えはもらえない。
 それでも訊いてしまうのは、条件反射なのだろうか。
「そういう顔をすんな。美人が台無しだ」
「もう、景吾のせいでしょ」
 が食ってかかると、跡部はククッと喉を鳴らして笑った。
 跡部はの細い肩へ腕を回し、ぐいっと引き寄せる。
「急になに?」
「お前の好きなものを用意してある。行くぞ」
「…このまま?」
「不満なら抱き上げてやろうか?」
 跡部が楽しげな瞳でにやりと笑う。
 はむっと顔をしかめて、肩に回された手の甲を軽く抓った。
 けれど、は力づくで腕を外そうとはせず、結局は跡部の望むまま客室へ歩いていった。


 客間でコーヒーとミルフィーユを食べながらゆっくりしたあと、は跡部に連れられて別室へ向かった。
 ここでようやく先程の跡部と執事の会話の意味をは理解した。
 ドレスなどを運んであるから、この部屋で着替えろということだろう。跡部のことだから部屋の中に化粧道具や諸々、必要なものは揃えてあるに違いない。
様ですね。お待ちしておりました」
 跡部が扉を開けると、部屋の中にいた一人の女性がにっこり微笑んで出迎えた。
「あとで迎えにくる」
「え、ちょっと、景吾?」
「おとなしく待ってろよ」
 戸惑うにフッと微笑を残して、跡部は行ってしまった。
 残されて、なにがなんだかわからないの耳に、女性の凛とした声がかかる。
様、中へどうぞ。お支度をお手伝いさせていただきますわ」
「え、でも、一人で平気ですから」
 ざっと室内を見た限り、化粧道具やブラシなど必要なものが揃っている。これなら一人で用意できそうだ。
「景吾様からくれぐれもと申し付けられておりますので」
 首を傾けて微笑む女性に、は頷くしかなかった。
 これが彼女の仕事なのだろうから、仕方がない。


 そうして1時間程かかって支度が終了した時には、は少し疲れていた。
 ただ座っていただけなのだが、化粧をして、髪をセットして、着替えるだけで1時間もかかるとは思わなかった。けれど、時間がかかった分、仕上がりはよいだろう。なにしろプロが一から十まで手がけているのだから。
「景吾様に声をおかけして参ります。こちらでお待ちくださいませ」
「はい」
 に軽く会釈して、女性は部屋を出て行った。
 一人だけ広い部屋に残されたは、どういう風になっているのか見ようと、姿見の前へ移動した。
 化粧している間は瞳をあけられなかったし、髪をセットした所に鏡はなく、ドレスに着替えてアクセサリーをつけてもらった時にも近くに鏡がなかったので、どのようになっているのかまだわからずにいる。
「……プロってすごいわ」
 化粧など口紅を塗ったことがあるくらいで、フルメイクなど初めてだ。
 髪も自分でセットしていたら、緩いウェーブもつけなかっただろうし、簡単にアップした程度だろう。
 跡部が選んだドレスは丈が膝上だったので抵抗があったのだが、チュールレースのような薄布を上からつけたので、あまり気にならない。
 細すぎないヒールのミュールも見た目より足に馴染んでいる。何時間も履かなければ靴擦れはしないだろう。
 少し気になるのはアクセサリーの数くらいだ。綺麗なのだが、普段つけていないので違和感がある。
 髪はどうなってるのかしら、と後姿を見ようとしたの耳に扉をノックする音がした。
「はい、どうぞ」
 は応えながら鏡から離れた。
 おそらく扉の外にいるのは恋人だ。
 の予想通り、扉を開けたのは跡部だった。
 フォーマルなスーツを着た跡部は部屋に入り、に近づく。
「似合ってるな」
「…それだけ?」
 跡部は瞳を細めると、の耳元へ唇を寄せた。
「押し倒したいくらい似合ってるぜ」
「なっ…」
 甘く掠れた声で囁かれて、の白い頬が瞬時に赤く染まる。
「嘘じゃないぜ。俺以外に見せるのがおしいくらいだ」
「景吾っ!」
「そんなに怒るなよ」
「怒らせてるのはあなたでしょう」
「俺は本当のことしか言ってねぇよ」
 の怒りもなんのその、跡部は軽く交わして白い手を捕らえた。
 パーティの前に平手の痕を顔につけられてはたまらない。もっとも今までつけられたことがあるわけではないが。
「少しじっとしてろ」
 跡部はの手を放し、左手にもっている透明なケースから赤い花を取り出した。
「それ、コサージュ?」
 生花と見まがうほど繊細な作りの、華やかな赤い薔薇の花。
 とても綺麗で、思わず見惚れてしまう。
「ああ」
「置いてってくれたらつけたのに」
「最後を飾るのは俺様なんだよ」
 こどもっぽい言い方に、は小さく笑った。
 なんだか少し可愛く思えて。
「なに笑ってんだ」
 ドレスの左胸にコサージュを付け終わった跡部は、を軽く睨んだ。
「景吾も可愛いところあるんだなと思って」
「可愛いは男に使う形容詞じゃねぇだろ」
「ごめん、つい」
 言葉ほど悪いと思っていないのだろう。
 その証拠にの瞳はまだ少し笑っている。
 跡部は小さく舌打ちして、思考を切り替えた。
「行くぞ」


 パーティ会場となっている大広間につくと、それを待っていたかのようにワッと人に囲まれた。
 跡部の左腕にかけているの右手に僅かに力がこもる。
 また、だ。現実を突きつけられたくないのに、それは許されないらしい。
「久しぶりだね、景吾君」
「ご無沙汰しております。ご健勝なようでなによりです」
「景吾君、誕生日おめでとう」
「ありがとうございます」
 声をかけてくる人たちに、跡部は丁寧に返事をしていく。
 は跡部の隣で紹介されるまま挨拶をしていた。
「…いつもこうなの?」
 ようやく人が引けた時、は小さな声で訊いた。
「いや。今日は隣にお前がいるからだ」
「それってどういう――」
 意味なの、と訊こうとしたが、跡部を呼ぶ声がして、は最後まで口にできなかった。
「景吾、久しぶりだな」
「なんだ、帰ってきてたのか?」
「嬉しいだろ?」
「はん、なに言ってやがる。お前の目的なんざわかってんだよ」
「はは。相変わらず口が悪いね」
 気心が知れているのか、親しく話している二人をが見つめていると、不意に視線が向けられた。
 穏やかな瞳は、クールな跡部の瞳と正反対だ、とは思った。
「初めまして。ボクは牧と言います」
「初めまして。私は」
 名乗ろうとしたを、牧と名乗った青年の声が遮る。
さん、ですよね。景吾の…むぐっ」
 友人の口を掌で遮って、跡部は言葉を封じた。
 良幸、余計なこと言うんじゃねぇ。
 跡部がに聞こえないようにぼそっと言うと、わかったよ、と牧から返事があった。
 口の軽いヤツだな、と胸中で毒づいて、跡部は友人を解放した。
「ところで、景吾。ちょっと一緒に来て欲しいんだけど」
「断る」
 即答した跡部に、牧は気分を害することなく楽しそうにクスッと笑う。
「今日は親父が一緒に来てるんだよ」
「なに?それを先に言え」
 牧の父には小さい頃からなにかと世話になっている。だから挨拶もせずにいる訳にはいかない。
 それに対面するのも二年振り位だ。
「ちょっと気が進まなくてね」
 牧の視線が自分から一瞬逸れてに向けられたのを、跡部は見逃さない。
 跡部の視線が険しくなったのを見て、牧は面白そうに僅かに瞳を細めた。
「親父は景吾と二人で話したいみたいだから」
「…何を企んでる?」
「強いて言うなら、景吾の幸せ、かな。ボクがさんについてるから、行ってきてよ」
 跡部は舌打ちしたいのを堪えて、友人からへ視線を滑らせた。

「なに?」
「コイツの言うことに耳を貸すな。いいな」
「え?」
「案外心配性だね、景吾。口説いたりしないから安心しなよ」
「すぐに戻る」
 跡部は友人を無視してに言うと、牧の父がいる場所へ向かった。
 ここから離れないほうがいいわね、とは胸中で呟く。
 大広間に来る途中で跡部から言われていた。俺から離れるな、と。
 今は言っていた本人が離れたのだが、動くとあとで文句を言うに違いない。
「何か召し上がりますか?ボクが取ってきますよ」
「いえ、大丈夫です」
「クスッ。景吾の言ったこと、気にしてるんですか?」
 景吾の言ったこと?
 胸中で繰り返して、先程のことだと思い当たった。
「違います。誤解されたならすみません。ちょっと今は食べる気にならないので」
 緊張していて食事が喉を通りそうにないのだ。
 そう会ったばかりの人に言えないので、は差し障りない言葉で誤魔化した。
「それなら、少し風に当たりませんか?」
 バルコニーに出ないかと言われているのだとわかったは戸惑った。
 ここで跡部を待っていた方がいいのはわかっている。
 けれど、少しだけ居心地が悪い。
「…少しの間なら」
「ええ、勿論。景吾を本気で怒らせるとやっかいですからね」
 牧はクスッと笑ってに手を差し伸べた。
「せっかくですし、エスコートさせてください」
 少し迷って、は差し出された手を取った。断ると牧に恥をかかせると思ったので。
 本当は跡部以外にエスコートされたいと思わないのだけれど。


 連れだってバルコニーへ出て行く二人を、離れた場所から跡部の瞳が捕らえていた。
 話をしているので視線を動かしたのは刹那。表面上の笑みは崩れていない。
 けれど内心では険をあらわにしていた。
 牧に釘を刺しておいたが、さして効き目がないだろうことはわかっていた。だが、目の前で穏やかに話をしている男性がの同伴を望んでいないのだから仕方がない。
 それに跡部としても、多少なり仕事の話が出そうな相手との場所に、を連れてきたくはなかった。
 今日のが不安定だということに気がついているから。
「では父には俺から話をしておきます」
「すまないね。お願いするよ」

 跡部が一刻も早く話を切り上げたいと急いている時。
 全く気がついていないは、バルコニーで牧と談笑していた。
 初めのうちは多少緊張をしていたけれど、牧はとても穏やかで話しやすく、緊張はすぐに解れた。
「ふふっ、牧さんは景吾と仲がいいんですね」
「小さい頃からの付き合いですからね」
「小さい時から今みたいでした?」
「そうだな…もう少し可愛げがありましたよ」
「今は可愛げないですものね」
「ハハッ、言えてますね。 ところでさん」
「はい?」
「気づいていますか?」
「なんのことですか?」
 言われている意味がわからず、は微かに首を傾けた。
 ウェーブをかけ結い上げられている黒い髪が、動きに合わせて揺れる。
「景吾があなたを招待した理由です」
「え?景吾の誕生日だからでしょう?」
 去年と一昨年は今日のように派手ではなかったけれど、跡部曰く「こじんまりしたパーティ」に誘われていた。
 それらと今日のパーティとは規模が違うだけで、跡部の誕生日パーティに変わりない筈だ。
「やっぱり景吾はなにも話してないんですね」
「どういう意味ですか?」
 声を堅くして詰め寄るに、牧は顎に指先を当て軽く首を傾げた。
 その仕草は言うか言うまいか、悩んでいる様に見えた。
「…まぁ、どうせすぐにわかることだからいいか」
 牧は一人ごちて、にっこり楽しげに笑った。
「あなたが景吾の恋人であることを宣伝できるからですよ」
 その言葉には瞳を数回瞬いた。
 私が景吾の恋人だってことを宣伝?
 口の中で呟いて、は柳眉をひそめた。
 さっぱり意味がわからない、と顔に書いたに説明しようとした瞬間、牧の視界からの姿が消えた。
 視線を動かした牧の瞳に、鋭利な瞳で睨みつけている跡部が映った。その跡部の隣に驚いた表情のがいる。
「余計なことを言うなと言ったはずだ」
「心外だな。君の幸せのために一肌脱ごうと思っただけなのに」
 怒りをあらわにしている跡部に、牧はしれっとした顔で言った。
「ってことで、さん、ボクはお教えできないので、景吾から聞いてください。そのほうがあなたも嬉しいと思いますし」
「いいから、さっさと消えろ」
 一段と凄みを増して低くなった声に、牧はやれやれと肩をすくめた。
「言われなくても退散するよ。あてられるのは御免だからね」
 ひらひらと手を振って、牧はバルコニーから大広間へ入っていった。
「…アイツと何を話してた?」
「えっ?何って、景吾の小さい頃のこととか…」
「俺から離れるなと言っただろ」
 不機嫌そうに言われて、は跡部を見上げて睨んだ。
「景吾が離れたんじゃない。私のせいにしないで」
「俺はすぐに戻るって言った筈だ」
「待ってるなんて私言ってないわよ」
 頭にきたは跡部から身体ごと視線を逸らした。
 さすがにここで手を振り上げるのはダメだと、感情を理性で押さえ込む。
 このまま一緒にいると平手をお見舞いしてしまいそうだ、とは跡部から離れようとした。
 けれどそれはできなかった。
 ぐいっと腕を引かれて、跡部の胸に倒れこむように抱きしめられてしまったから。
「俺から離れるな…何度も言わせんなよ」
 耳元で囁かれて、ぞくりと背筋が震えた。
 怒っていたとは思えない程、甘い声。
 は胸がドキンと高鳴ったのを自覚した。怒っていた筈なのに、不思議とそれが消えていく。
「……離れたいとは思わないけど…」
「けど、なんだ?」
 抱きしめられていて跡部の表情は見えないけれど、耳に届く声が少し優しい気がする。
 だから少し――ほんの少しだけ、弱音を吐いてもいいかなと思った。
「…隣にいていいのか迷うの」
 思い切って口にすると、抱きしめられる腕の力が少し緩んだ。
 後頭部を抑える手がなくなったので、は跡部を見上げた。
「迷う必要ねぇだろ。それにもう逃げられねぇしな」
 それは逃がす気がないという意味に捉えればいいのだろうか。
 言葉の意味を考えるに、跡部はフッと微笑した。
「なんだ、まだわからないのか」
「わからないって言ったら教えてくれるの?」
「教えてもいいが条件がある」
「それなら教えてくれなくていいわ」
「へぇ、気にならないのか?」
「……なるけど、いい」
「簡単な条件だぜ?」
 口端を上げて笑う跡部に、口ではどう言おうと気になるは視線で何、と訊いた。
 条件を聞くだけ聞いて、出来そうなことなら飲めばいい。
「お前に祝って欲しい」
 その言葉には跡部に言っていないことに気づいた。
 恥ずかしくて穴を掘って飛び込んでしまいたい。
 言うタイミングなど何度もあったのに、どうして言わなかったのだろう。
「…ごめんなさい。忘れてたわけじゃないけど、忘れてたわ」
「なんだ、それは」
 跡部は思わず半眼になった。
 まぁ、こういう所も気に入ってるんだがな。
 そう心の内でごちて、の言葉を待った。
「景吾、18歳のお誕生日おめでとう」
「…言葉だけか?」
「仕方ないじゃない。景吾が急かすから、プレゼントは家なのよ。明日届けにくるわ」
「俺は今欲しいんだよ」
「そんなこと言われても何も持ってないわ」
 嘆息するに跡部は愉しそうに笑って言った。
「ここでいいぜ」
 そう言って、の柔らかな唇に指で触れた。
 その意味を理解したは白い頬を赤く染めた。
「も、もう祝ったじゃない」
「お前からして欲しかったんだが…俺からもらっとくぜ」
 囁いて、跡部は容易くの唇へキスを落とした。
 唇はすぐに離れたけれど、は照れながらも跡部を睨んだ。
「…不味いな」
「は?」
「なんでもねぇ」
 言いながら右手の親指で自分の唇を拭る跡部に、はああ、と納得した。
 唇についた口紅が不味かったらしい。
「…ね、景吾、教えて」
「何を?」
「何って祝ったら教えてくれるって言ったでしょ」
 がそう言うと、跡部は瞳を細めて不敵に笑った。
「俺はお前が祝ったらと言ったぜ?」
「え?祝ったでしょ」
「俺が欲しいものを寄越さなかっただろ」
「なっ…!」
 二の句が継げないに、跡部は愉しそうに笑う。
「もう一度チャンスをやろうか?」
「知らないままでいいわよ!」
 ふいっと顔を背けるに跡部はククッと笑って、彼女の耳元へ唇を寄せた。
「機嫌直せよ、
 甘い声が耳をくすぐる。
「……ずるいわ…」
「気のせいだ」

 話している内容はどうあれ、傍目から見れば抱き合って愛を囁き合っているようにしか見えない二人を、月が優しく照らしていた。




END
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【手塚部長&跡部部長お誕生日企画:VS.mode】投稿作品
跡部部長 お題:「俺から離れるな…何度も言わせんなよ」 (配布元:「恋したくなるお題」様)

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