テーゼ




 窓から優しい春の陽射しが穏やかに注ぎ込んでいる。
 窓の外からは運動部の掛け声が聞こえてくる。校舎内がシンと静まり返っているから、尚更よく聞こえる。
 教室の窓際から三列目の一番後ろの自分の席で本を読んでいたは、腕時計に目を向けた。
「……まだ4時…」
 もっと時間が経っているかと思ったが、放課後になってまだ1時間半程しか経過していない。
 部活――テニス部の練習は、少なくともあと1時間はあるだろう。
 待つのは別に嫌ではないし、苦ではない。もっともそれは特別な人を待つ場合に限られるけれど。
 待っている間はすることがないので読んでいた本に栞を挟み、静かに閉じて机の上に置く。
 本を読むのは好きだが、今の時刻を確認したら、なんとなく読む気が薄れた。
 は軽い溜息をつき、机の上で腕を組むとそこへ頭を乗せる。不思議なもので、うつぶせになったら睡魔が襲ってきた。
 昨夜はちゃんと睡眠を取っているのだが、それでも眠くなるのはこの陽気のせいだろうか。
 寒くもなく暑くもない、ちょうどよい天気。
 少しくらいならいいかしら…。
 帰宅部の人はすでに下校しているだろうし、部活中の人間は教室へ来ることはないだろう。
 氷帝学園一有名な跡部と付き合い始めた直後なら、寝るという選択肢は選ばなかっただろうが。【隙】を作ってはいけないような気がしていたから。
 もっともそれは杞憂に過ぎなかったのだけれど。
『お前のことは守る』って言った景吾の言葉は本当だったのよね。
 俺様で高慢で、いつだって自信に満ち溢れている人。全然タイプの人ではなかったのに、なぜか好きになっていた。
 付き合い始めた頃のことを思い出しながら、の意識は薄れていく。
 形のよい唇からは、やがて微かな寝息が零れ始めた。


 時刻が午後6時を過ぎ、空が翳り始めた頃。
 部活の練習後も一人で自主練を続けていた跡部は、トレーニングを切り上げた。
 部室棟にあるシャワールームで汗を流し制服に着替え、教室棟へ向かった。傍目にはわからない程度に急いで。
 遅い、と彼女が文句を言う訳ではないが、待たせたくはない。
 それはと付き合うようになって初めて思ったこと。
 俺様が一人の女にこれほど惚れるとはな。
 跡部はフッと口端に微笑を浮かべる。だが、悪くない感情だ。
 あいつだけが俺の心を支配して、俺だけがあいつの心を支配している。
 ――独占欲。


 静かな校舎内に靴音を響かせながら辿り着いた教室の扉をガラリと開く。
、待たせた――」
 いつもなら向けられる筈の黒い瞳を閉じている恋人に、跡部は一瞬だけ切れ長の瞳を丸くした。
「こんなところで寝るなよ」
 からかうような口調だが、驚くほどの優しい声で言葉は紡がれた。
 頬にかかるさらさらした黒髪を指に絡ませ、つっと軽く引いてみたが、が起きる気配はない。
「…起きないと襲うぞ、
「……ん…け…ご…」
 柔らかな唇から零れた吐息のような声に彼女が目を覚ましたかと思ったが、黒い瞳は予想に反して閉じられたまま。
 どうやら寝言らしい。
「俺様が傍にいないのに、無防備に寝るなよ」
 男は勿論、女にも「に手を出した奴は容赦しない」と公言しているが、万が一がないとは言い切れない。
 そんな自分の胸中の想いを、寝息を立てている彼女は気がついていないだろう。
「…ったく」
 跡部は呆れたように溜息をついて、の右側の席の椅子を引き寄せ、それに腰を下ろした。
 何の夢を見ているのか――寝言からして自分の夢だと思うが、の寝顔は幸せそうだ。
 こいつのこんな顔を見るのは久しぶりだな。
 一緒に暮らしているのではないから、当たり前といえば当たり前なのだが、初めてではない。を泊めた日、彼女は今のような顔で眠っている。
 少し思案して、少しの間見つめていることにした。あと5分で起きなかったら起こそうと決めて。
「………景吾…」
「なんだ?」
 再び呟かれた寝言に、跡部は悪戯心で返事をしてみた。
「好き、よ…」
 その言葉に、思わず頬が緩む。誰も見ていないのに、思わず口元を隠すように手で覆った。
 タチが悪い。悪すぎる。
 あと5分寝かせてやろうと思ったが、無意識に俺様を煽ったお前が悪い。
 跡部は立ち上がり、の頭を右手で支えるように起こし、左手を細い腰に回して抱き寄せた。
 それには眠っていたも覚醒しゆるゆると目蓋を上げたが、ほぼ同時に唇がキスで塞がれる。
「んっ…ッ…っ」
 甘く情熱的なキスにの意識は少しづつ浮上していく。
 3回目の深い口付けから開放された時には、の息は上がっていた。
「目は覚めたか?」
「え、あ、景吾?あ、部活は?」
「終わったからここにいるんだろうが。まだ目が覚めてないようだな」
 もう一度キスをしようと顔を近づけると、の細い指で口を押さえられた。
「も、もう覚めてるっ」
 跡部は口元にあるの右手を左手でどかし、そのまま流れるような動きでの指先に音を立ててキスをする。
 の白い頬が赤く染まるのを見て、跡部は口端を上げてニヤリと笑う。
「け、景吾っ!」
「お前敏感だよな」
「なっ…」
 真っ赤な顔で絶句するに、跡部は喉の奥でククッと面白そうに笑った。
 のことを【クールで美人で素敵】という連中に見せてやりたい。もっとも、実際見せるつもりなど微塵もないが。
 が左手を振り上げたのを視界の端に捕らえて、その手が振り下ろされる前に右手で捕らえる。
「離してよ、景吾」
 跡部に掴まれた手を自由にしようともがいても、びくともしない。
「平手をしないって言うなら離してもいいぜ」
「景吾が悪いんでしょう!?」
「違うな。悪いのは無防備に寝ていたお前だ」
「うたた寝くらいいいでしょ」
「いいわけねぇだろ。寝るなら俺の隣にしろ」
 お前のことは全力で守るが、俺だって万能じゃねぇんだよ。
 とても小さな声で呟かれた言葉に、は黒い瞳を瞬いた。
「景吾…」
「わかったか?」
 は「うん」と頷いた。
 彼の優しさに怒りが消えてなくなってしまった。
 誤魔化されたような気がしないでもないが、嬉しいから帳消しすることにした。
「帰るぞ」
 跡部はの右手だけは離さずに手を繋ぐ。
「景吾」
「なんだ?」
「お疲れ様」
「ああ。…待たせて悪かったな」
 は黒い瞳を瞬いて、幸せそうにふふっと微笑んだ。




END



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