月夜に




 見上げた漆黒の空に月が浮かんでいる。
 曲線が美しく、見惚れるほどに金色に輝いているのは、中秋の名月。
 ここがバルコニーではなく一面のススキ野原であったなら、殊更美しい風景に違いない。けれど、場所がどこであろうと、見上げた月の美しさは変わらない。
 綺麗だなと見惚れていると、不機嫌そうな声で名を呼ばれた。
「なに?」
 は視線を月から背後へ滑らせた。彼女の瞳に映ったのは、声と同じで不機嫌さが顔に出ている恋人の姿。
「いつまでそうしている気だ」
 不機嫌を隠そうともしない跡部には溜息をついた。
「好きなだけ見ればいい、って言ったのは景吾よ」
 学校からの帰り道、今夜は十五夜だから月見をしようと思ってるのと言ったに、跡部はなら俺の家で好きなだけ見ればいいと彼女を誘った。
 夕食をご馳走になったあと、跡部に来客があり彼は席を外した。けれど、先に部屋へ行って好きなだけ見てろ、と彼が言ったからそうしていたのだ。
 それなのに見ていたのを目にし、文句を言う。
「客が帰るまで、だ」
「景吾は勝手すぎるわ」
 黒い瞳に剣を滲ませるに跡部は口端を上げてフッと笑った。
 跡部は否定も肯定もせず、との彼我を縮める。
「月より俺を見てろ」
「…な、何言ってるの」
 彼がにやりと笑って言ったのなら、何言ってるのよと笑い飛すなり、呆れるなりできた。
 けれど、真顔で――真剣な顔で言うから、不意打ちに心臓が早鐘を打っている。
 からかっているのかと思ったけれど、跡部の切れ長の瞳にからかう色はない。

 跡部は甘さを含んだ声で恋人の名を呼び、彼女の顎を長い指でくいっと軽く持ち上げた。
「…っ、景吾、何か変なものでも食べたの?」
「食ってねぇよ」
 跡部は片眉を上げて、何言ってやがると言いたげな顔をした。
「で、返事は?」
 いつのまにか腰に回された腕に抱き寄せられ、体が密着する。
「暑い、わ」
「俺は暑くない」
 実際、跡部の言う通りだった。月は雲に覆われ、風が吹き始めてきたので暑くはない。むしろ心地よいくらいだ。
「どうなんだ?」
 跡部は切れ長の瞳を細め、を見つめる。
 は力強い瞳に吸い込まれそうになりながら、唇を開いた。
「景吾はどうなの?」
 問いで返すに、跡部は喉の奥でくくっと楽しげに笑った。彼女が頷くだけは悔しいから、と問いで返した事がわかったからだ。
「お前しか見えてねぇよ」
 言い終わるか否かで唇が重ねられ、は言葉が紡げなかった。
 呼吸が苦しくなる頃を見計らったように、甘くて熱いキスから開放された。
「……け…ご、何か、あった、の?」
 いつもより少し強引で深いキスだったのを疑問に思い、なんとなく訊いた。
 荒い呼吸を整えながら見上げてくる恋人に、跡部は軽く息をついた。
 やっぱりこいつは誤魔化せねぇな、と胸中で呟く。
「お前の耳には入れたくない」
 先程訪れた客人と何か嫌な事があったのだろう。
 詮索するつもりはないが、跡部が傷ついた瞳をしているから、は彼の胸に顔を埋めた。
「……好きよ、景吾。あなただけ、ずっと見てる」
 跡部は一瞬瞳を瞠って、ついで細めると嬉しそうにフッと笑った。
 俺にもお前だけだ、と恋人の耳元で甘く囁いて、跡部は華奢な体を横抱きに抱き上げた。
「ちょっ、景吾!?」
「あんなこと言われて帰せるわけないだろうが」
「景吾が落ち込んでたみたいだから言ったのよ」
「だったら言い方を変えてやる。お前が欲しくなった」
「――っ」
 跡部は白い頬を瞬く間に赤く染めるに満足そうに笑って、部屋へ足を向けた。




END



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