秋風が頬を撫でていく。 夕暮れ間近の風は肌寒く感じるが、昼日中――夕刻と呼ぶにはまだ早い今は、心地よい。 夏の全国大会が終わり部活を引退し、この時刻に帰ることも珍しくなくなった佐伯は、校門の近くに見えた人影に瞳を丸くした。校門横の外壁で人影は半分程しか見えず、こちらに背を向けているから顔はわからない。けれど、たった半分見えるだけの後姿でも誰なのかすぐにわかる。視力が左右とも2.5でよいからではなく、自分の恋人だからだ。 年上の恋人は社会人で、まだ仕事をしているだろう時間なのにどうしたのだろうと不思議に思いながら、彼女の元へ駆け寄る。 「さん!」 「虎次郎くん。よかった、逢えて」 ほっとした顔で緩く首を傾けては微笑む。彼女の笑みは雲っていないし、無理して笑っているようではないから、何かあったのかと思ったのは思い過ごしのようだと内心で安堵する。 「今日は仕事は?」 「午後から半休を取ってたの。買い物に行こうかなって思ってたんだけど、虎次郎くんに逢いたくなって来ちゃった」 小さく舌を覗かせるが可愛らしくもあり、ほのかに艶めいても見えてどきっとした。 「……連絡してくれたらよかったのに」 一呼吸分おいて、佐伯は言葉を紡いだ。 「逢えなかったらそれは仕方ないからいいかと思って」 佐伯は意味を図りかねて首を傾げた。 「連絡してじゃなくて逢えたら嬉しいな、ってそんな気分だったの。だから電話もメールもしなかったの」 楽しそうな笑みを浮かべるに佐伯は笑った。 なるほど。だから、「よかった、逢えて」だったのか、と納得する。 それに、買い物に行こうとしていたのをやめて、逢いたくなったからと学校まで来てくれたのが嬉しい。 けれど欲を言えば、束縛して欲しいから連絡してくれたらいいのにと思う。 「俺はふらっと行って君に逢えないのは嫌だな」 自分の立場をにして考えたら、逢えないのは寂しい。 けれど、は仕方ないと割り切れると言った。なんとなく気持ちに温度差を感じてしまう。 「…仕方ないなんて建前だから…」 「え?」 ぽつりと紡がれた言葉に瞳を瞠り、ついでの瞳を見つめた。 「虎次郎くんを待ってる間、逢えなかったらやだなって何度も携帯に手が伸びたわ。でも、約束しないで逢うってしてみたかったから……」 瞳を逸らしたの耳が赤く染まっている。 「いいよ、わかったから。けど、これきりにして欲しい」 佐伯はの耳元へ唇を寄せて、もっとちゃんと束縛してと囁くと、彼女の白い頬が瞬く間に赤く染まった。それに満足そうに笑う佐伯から逃れるように、は左手で彼の右手を取って繋いだ。 「繋ぐなら逆だよ」 自分は左利きだから利き手が空いてると都合はいい。だが手を繋ぐなら右手ではなく左手だ。彼女と手を繋ぐ時はいつもそうしているし、そうしないと彼女に車道側を歩かせることになってしまう。 の細い指が指を握ったが一瞬だったし、慌てた顔で手が離れたから気にしなかった。 Ring 恋人との半日デートから三日後の金曜日。 学校が終わってすぐ、彼女の家へ向かった。 今日は十月一日――佐伯の18回目の誕生日で、彼女が誕生日祝いをしてくれるという。学校が終わったら家に来て欲しいと言っていたから制服のままだ。それに、一度着替えに帰宅する時間が惜しい。そのぶんだけ彼女と過ごせる時間が減ってしまう。 一人暮らしをしている彼女のアパートに着くと、階段を三階まで上った。通い慣れた、角から二つ目の部屋のインターフォンを押す。 「はい」 数秒し、インターフォン越しに柔らかな声が届いた。 「さん、俺だけど」 「待ってて。今開けるわ」 玄関のドアの鍵が開く音がし、ドアが開く。は佐伯を見上げ、春の陽だまりのように笑った。 「早かったのね。どうぞ、上がって」 お邪魔しますと言って、部屋へ上がる。彼女の部屋はいつもよい香りがするが、今日はいつもと少し違う香りがして、佐伯は軽く首を傾げた。 「虎次郎くん、今日遅くなっても平気?」 声をかけられ、佐伯は思考を中断した。 「ああ、平気だよ」 頷いて、もしかしたら料理の匂いだろうかと推測する。 「なら、夕飯食べていってくれる?今夜はちょっと豪華なのよ」 それは俺の誕生日だから、だろうか。 いや、豪華だろうかそうでなかろうが、彼女の手料理をご馳走になれるのは嬉しい。 「そうなんだ?楽しみだな」 爽やかに笑う佐伯には困ったように笑った。 「私があまり料理が得意じゃないの知ってるでしょ。だからそんなに期待しないでね」 「そう?さん自己評価低いんじゃないか。それとも、俺の美味しいは信用ない?」 「信用してないわけじゃないけど…自己評価低いかしら?」 「低いと思う。この前、弁当作ってくれただろ。あれさ、ちょっと目を離した隙に後輩に少し盗られたんだけど、美味しいって言ってたし、通りがかった女の子たちがすごいって」 「……よいしょされると恥ずかしいけど、ありがとう」 じゃあ、少し自信持っていいかな、と控えめな言葉を口にして、ははにかむように笑った。 リビング兼ダイニングのフローリングの床に敷いたカーペットに腰を下ろし待っていると、がキッチンでコーヒーを淹れ持ってきてくれた。彼女は白いローテーブルにコーヒーを乗せたトレーを置き、佐伯の隣に腰を下ろした。 「はい」 「サンキュ」 佐伯が目の前のテーブルに置かれたマグカップに口をつけるのと、が立ち上がったのはほぼ同時だった。 声をかける間もなくすぐに隣の部屋から戻ってきたは、小さな黒い箱を持っていた。 は再び佐伯の隣に腰を下ろす。 「虎次郎くん、お誕生日おめでとう」 にっこりと笑って差し出された小さな箱を礼を言って受け取る。 「開けていいかな?」 「ええ」 箱の蓋を開けると、紺色の布張りされた箱が出てきた。 佐伯は取り出した布張りの箱を開け、切れ長の瞳を驚きに見開いた。 布張りの箱に入っていたのは、銀色に光るリング。幅8ミリ程で模様が彫られている。 リングを取り出すと、内側に文字が彫られていた。 I love you. 彫られた文字を読む声は音なく、空気に溶けた。 「驚いた?」 ふふっと楽しそうに笑うに佐伯は頷く。 「プロポーズされるとは思わなかった」 「ぷ、プロ…っ!?」 「ごめん、冗談」 はもうっと膨れ、ふいっと視線を逸らした。 「束縛してっていつも言ってるし、虎次郎くんもてるからって思ってそれにしたのに」 嬉しいよ、と口を開きかけた佐伯は、の小さい呟きに言葉を飲み込んだ。 凝視する視線に気がついたのか、は佐伯へ瞳を向けて不思議そうな顔で「どうかした?」と言った。彼女は呟いていたが、彼女自身は胸の内で呟いていたのだと、表情から察した。だったら聞いていない振りをすべきだろう。けれど、答えるくらいはいいだろうか。 ――今日で18歳だから結婚できるけど、プロポーズはするよりされたいわ もしからプロポーズされたら、それはそれで嬉しい。 けれど、プロポーズはされるよりしたい。 「…するよ、俺から」 君を愛してる。 迷わずに言って、左手の薬指にはめるリングを贈りたい。 それまであと少しだけ、待っていて欲しい。 「今何か言った?」 きょとん、と首を傾げるに「いや、何も。 どの指にはめたらいい?」と煙に巻く。彼女に聞こえていなくていい。自分が言っておきたかった。それだけだ。 「できたらでいいんだけど…右手の薬指にしてくれたら嬉しい」 「さんがはめてくれたら嬉しいんだけど」 はい、と有無を言わせない笑顔でリングをの手に取らせる。意地が悪いわ、とぶつくさ言いながら彼女はリングをはめてくれた。 「ぴったりだ…」 寸分違わないサイズに驚く佐伯には嬉しそうに笑う。 「確認したもの」 「確認て……あ、もしかして、あの時?」 佐伯は三日前の出来事を思い出していた。 あれはリングのサイズ確認だったらしい。 「策士だなあ」 俺も真似ようかな、と胸の内で呟いて、笑っているを抱き寄せた。 「プレゼントありがとう。嬉しいよ。ずっとはめてる」 「うん。…そのリングね、私も同じの買ったの。文字はないけど」 「ならさ、今度リング貸して。俺が文字を彫ってもらうから」 は佐伯を見上げて瞳を瞬いた。 「嬉しいけど、いいの?」 「もちろん。楽しみにしててよ」 頷くとの顔の距離を縮めて、そっと唇を重ねた。 それから数日後、からリングを預かって、内側に文字を彫ってもらった。 それを佐伯から受け取ったは文字を見、顔を真っ赤に染めた。 You are mine. 「束縛するならこれしかないだろ」 そう言って、佐伯はそれはにこやかに笑ったのだった。 END BACK |