薄暗い浜辺――まだ朝陽が顔を出し始めたばかりの、夜明けの海。
 寄せては返す波音が静かに響いている。
 春先の海辺の早朝は肌寒く、人気
(ひとけ)がない。
 砂を踏む自分の足音を聴きながら散歩をしていた佐伯は、遠くの波際に人影を見つけた。このような早朝に海辺を歩くのは自分くらいかと思っていたが、そうでもないらしい。
 小柄な人影はおそらく女性だろうと思われた。しゃがみこんで何かを探しているように見える。
 浜辺にはいろいろな物が流れ着いてくる。流木だったり、瓶だったり。流れ着いているそれらはゴミが多いが、時々面白い物が見つかったりするので、そういった物を見つけに来た人かもしれない。
 そんな事を考えながら歩を進めている間にも少しづつ陽が高くなり、明るくなっていく。
 なんとなく目が離せなくて見ていた人との距離は縮まり、顔がはっきりわかるようになった。その人の顔を見、佐伯は瞳を瞬かせる。
「クラスの……」
 薄い唇から零れた呟きは小さく、波打ち際にいる少女の耳には届かない。
 不意に、佐伯が見つめる視線の先で、クラスメイトの少女が何かを手にして、嬉しそうに笑った。
 その横顔の笑みに思わず見惚れる。
 朝光が射す浜辺で、彼女がいるそこだけが別世界のように輝いて見えた。




 一目見たときから俺の世界は君だけだった




 真夏より青さの薄まった空が広がっている。空の青さに口元に僅かな笑みが浮かぶ。
 天気の良し悪しに関わらず、彼女に逢えるのは嬉しい。けれど、天候に恵まれると更に心は弾む。
「初めてってわけじゃないのになあ」
 一人ごちて、でも、と思い直す。とデートするのは初めてではないけれど、彼女が自分の誕生日を祝ってくれるのは今日が初めてだ。そのことに関して一番心が弾んでいるんだと思い至った。



「土曜日、一緒に過ごしてくれないか?」
 そう言ってを誘ったのは、先日の月曜日。学校帰りに寄った海で、だった。
 彼女は一瞬驚いたような顔をして、ついで緩く首を傾けて、「うん、もちろん」と嬉しそうに笑った。



 は約束した時間より数分前に待ち合わせ場所に来る。それを知っているから、佐伯は彼女より早く着くようにしていた。
 待たせたくないというより、彼女を一人にしていたくないから。
 それに、が自分を見つけて笑顔で手を振ってくれて、駆け寄って来てくれる瞬間が好きだ。
 彼女の瞳が、自分だけを見ている――独占している、時間。



 春の海で、見つけた桜貝を朝陽に照らして嬉しそうに笑っている君を見た。
 その時から―― 一目見たときから俺の世界は君だけだった。
 一目惚れをするなんて考えたことはなかったけど、頭で考えるより先、俺は君に恋していた。
 あの時、君に逢わなかったら、今でもクラスメイトという関係でしかなかったかもしれない。
 君の隣にいるのは、俺じゃなかったかもしれない。
 けれど今は、そんなことは考えられない。
 君のいない世界は、俺には考えられない。



「佐伯くん!」
 名前を呼んでこちらに走ってくる恋人に、佐伯は僅かに瞳を細めて爽やかに笑う。
 走ってこなくてもいいよ、といつも言っているのに、頷きつつも駆け寄って来てくれる彼女が愛しい。
 あと一歩の距離で止まって、は佐伯を見上げた。
「おはよう」
「おはよう。走ってこなくてもいいのに」
「うん」
 でも、少しでも多く一緒にいたいから、と頬をほんのり赤く染めて囁かれて、抱きしめたくなるのを堪えるのに、けっこうな忍耐を必要とした。


 海は学校からよく見えるし、部活中もそれ以外の時間でも、仲間たちとよく訪れる。
 けれど、海の見せる表情は日々異なるから、毎日見ても飽きない。
 今は風がほとんどなく、海は穏やかだ。中天に差し掛かかろうとしている太陽の光が、海面に揺れている。
「風が強くなくてよかった」
「そうね。いくらいい天気でも、ずっといると冷えちゃうし」
 ああ、と頷こうとして、佐伯はの言葉に引っかかった。
「ずっと、って?」
 約束をした日、は「佐伯くんちに行ってみたいな」と言った。佐伯は場所にはこだわっていなかったから、「いいよ」と答えた。
 そして先程、家に彼女を連れて行く前に、少し海を見てからにしようという話になった。
 だから寄り道をして来たのだけれど。
「ええっとね、……初めは佐伯くんちでって思ってたけど、いい天気だし、海もいいかなって思ったの」
「何が?」
 皆目検討がつかず、佐伯は首を傾げた。
 そんな佐伯の眼前に、は白と水色のストライプの紙袋を両手で持って差し出した。
「あ、あのね、ちょっとでも食べてもらえたら嬉しいなって…バースデイケーキを作ってきたの」
「えっ!?」
「あっ、甘いの苦手だった?ごめんね、知ら――」
 慌てた顔で紙袋を引っこめようとするの手を、佐伯は珍しく焦った顔で捕まえた。
 驚いたのは甘い物を彼女が作ってきてくれたことではなくて、作ってきてくれたことに驚いたからだ。少しも期待していなかったと言えば嘘になる。ほんの少しは期待していた。今日は家に誰も居ないって話をしていたから、もしかしたら、と。作って欲しいと言わなかったのは、やはりためらいがあったからで、強引には頼めなかったのだ。
 だからよもやこんな形で叶うとは思っていなくて、だからこその驚き。そして、嬉しさ。
「苦手じゃない。嬉しいよ、ありがとう」
「ほ、本当?」
 無理して言っていないかと尚も念押しするに、佐伯は「本当だよ」と笑った。


 土手に移動し、二人は並んで腰を下ろした。
 は紙袋の中から白い箱を取り出し、それを開けて中から10センチ程の大きさの四角い入れ物をひとつ取り出した。それは生クリームとフルーツでデコレーションされた、小さなバースデイケーキだった。透明な――ガラスだろうか――入れ物に入ったケーキは、見事な層になっている。
 これを自分のために作ってくれたのかと思うと、思わず頬が緩みそうになった。
「佐伯くん、お誕生日おめでとう」
「ありがとう。 早速食べてみていいかな?」
 は頷くとケーキを取り出した箱からフォークを出し、それを佐伯に渡した。
 なにやら緊張した面持ちで見守っているに内心でクスッと笑って、ケーキをすくって口に運ぶ。
 口の中に生クリームとムースのような味が広がる。甘過ぎない生クリームとおそらく苺と思われるムースはふんわりしていて、美味しい。
「美味しいよ、すごく」
「よかった。 あっ」
「何?」
「ちゃんと用意してるからね?」
 何が、とは聞かなくてもわかった。誕生日で繋げるなら、きっとプレゼントのことだろう。と誕生日を過ごせるならそれでよかった。けれど、彼女の気持ちが――あれこれ悩みながら選んでくれたんだろうなということが目に浮かぶから、それはそれで嬉しい。
「ありがとう。楽しみにしてる」
「う、そんな期待されると渡しにくくなっちゃう」
「そう?君がくれるものならなんでも嬉しいけどね、俺は」
「さ、佐伯くん…!」
 顔を真っ赤にしてうろたえるに佐伯は至極嬉しそうな笑みを浮かべた。
「今日は最高の誕生日だよ」
 幸せが滲みで出ているような声色で言って、火照りが消えていないの頬にキスをした。




END



BACK