タイミング




 すっかり日が暮れ空が藍色に染まった頃、は帰宅した。
 電気をつけて明るくなった室内のリビング兼ダイニングにしている部屋に置かれたソファ近くに荷物を降ろし、大きな溜息をつくとソファに体を投げ出すようにして座り込んだ。
「疲れた…」
 心底疲れた顔で呟いた声は、誰もいない部屋に溶けて消える。
 そういえば、今何時くらいなのだろう。
 おっくうそうに首を巡らせ、部屋の壁かけ時計に目をやる。シンプルな木枠の丸い時計の針は、まもなく6時半になろうとしていた。
「夕飯の支度しなきゃ」
 そう呟くが、先程まで目まぐるしく動き回っていたせいで、自宅に帰ってほっとした途端、動きたくなくなってしまった。



 実家の母から電話がかかってきたのは、ちょうど午後の休憩に入る前のこと。電話がなければ、休憩後に一時間仕事をして退社する予定だった。
 ――あ、?お義母さんが階段から落ちて頭打ったみたいなの。これから病院に行くからあなたも来て
 口を挟む間もなく矢継ぎ早に告げて、通話は打ち切られた。
 落ちて頭を打って病院に?危険な状態なのだろうと思った。上司に話して早退をと思ったところで、はたと気が付く。
 病院の名前を母は言っていなかった。行き先がわからなくては駆けつけられない。
 心配と焦りでパニックになりそうな自分を、深呼吸して落ち着ける。
 私だけに連絡してきたってことはなさそうだし、お父さんと兄さんにも連絡してるんじゃ…。
 それからは上司に早退する許可をもらい、兄に連絡して病院を調べて駆け付けた。
 祖母の容体はというと、頭を打ったといっても階段の下から3段目あたりからだったらしく、意識もしっかりあり、無傷だった。
 命にかかわる大怪我ではなく、どうにも母がパニックになっていただけのようだった。
 それでも念のためレントゲンをとり、一晩だけ病院に入院することになった。
 何もなくてよかったのだが、精神的疲労度が半端ない。
 会社から病院への距離も遠く、移動するのにも苦労したのだった。



 このまま寝てしまいたかったけれど、小さくお腹が鳴った。
 は苦笑して、着替えて夕飯を作ることにした。
 着替えるために立ち上がろうとした時、玄関のチャイムが鳴った。
「はーい」
 返事をして立ち上がり、玄関へ向かう。のぞき穴から来訪者を確認したは、驚きに黒い瞳を瞠った。
「虎次郎くん!」
 慌ててドアの鍵を開ける。
 を見た虎次郎は、爽やかな笑みを浮かべた。
「こんばんは。急にごめん」
「ううん。あ、上がって?」
 は半身ずらして部屋に虎次郎を迎えいれた。彼が土間に上がってから、再びドアに鍵をかける。
「ねえ、夕飯はこれからだよね?」
 そう訊いたのは、がスーツを着ていたからだろう。
「ええ」
 どうしてそんなことを訊くのだろうと首を傾げるの視線の先で、虎次郎は持っていたビニール袋と紙袋を食卓に使っているテーブルに乗せた。
「それは?」
「今日は俺がご飯を作ろうと思ってさ。まだならよかったよ」
 突然の訪問にも驚いたけれど、更に驚くことをさらっと口にして、彼は楽しそうに笑う。
「台所、勝手に使わせてもらうよ。はできるまでゆっくりしてて」
「え、うん、わかった」
 驚いてしまって呆然とした返事しかできなかったに構わず、虎次郎はさっそくとばかり腕まくりをする。
 は手を洗おうとする虎次郎に気がつき、夜に使おうと椅子の上に出しておいたエプロンを手にした。
「待って!これ使って。私には少し大きいから、虎次郎くんならちょうどいいくらいだと思う」
「サンキュー」
「私のほうこそありがとう、来てくれて」
「俺に会いたかった?」
「えっ」
「なんてね。会いたかったのは俺だから。ご飯はついでだけど…今夜で正解だったみたいだね」
 の様子から何か察したらしい虎次郎はそう言った。
「着替えてきたら?」
「うん」
 素直に頷いて、着替えるべく隣の自室へ足を向けた。


 着替えてから、少しくらいは何か手伝おうと虎次郎に声をかけたけれど、疲れてるだろうからゆっくりしていなよと言われて、はそれに甘えることにした。
 手持無沙汰でなんとなくテレビをつけたものの、気になって虎次郎の後姿を見つめてしまう。
 視線に気がついたのか、彼の視線が向けられて慌ててテレビを見ているふりをするに虎次郎は小さく笑ったけれど、何も言わなかった。
 ……こどもっぽいって思われてるかしら
 膝を立ててそこにほんのり赤くなった顔を隠すようにうずめる。
 テレビから流れているニュースは全く耳に入ってこなかった。
 何もしていないのに夕飯ができるのを待つだけなのは、実家にいたとき以来だ。
 なんだかちょっと――ううん、すごく嬉しいかも。
 俯いた顔に嬉しそうな笑みが広がる。
 贅沢だなとが思っていると、食欲を刺激するよい香りが漂ってきた。
 醤油のような香りだと思った時、また小さくお腹が鳴った。彼に聞こえてしまっただろうかと心配になったけれど、気がついた様子はないので、ほっと胸を撫で下ろす。



「お待たせ」
 声をかけられて、は顔を上げた。
 少しうとうとしていたらしく、記憶が飛んでいる。
「ありがとう」
 ソファから立ち上がってテーブルへ近づく。テーブルにはいくつかの料理が並んでいた。
「すごーい」
「そう?」
「うん!」
 虎次郎がそうかな?という表情をしたので、思わず強く頷いてしまった。
「冷めないうちに食べよう」
「そうね。いただきます」
 どれから食べようか迷って、湯気を立てている美味しそうなご飯を手にした。醤油色のこれが先程のよい香りの正体だと思ったからだ。
 一口食べて頬が緩んだ。
「このアサリご飯すっごく美味しい」
「よかった」
 虎次郎が嬉しそうに笑ってくれて、も嬉しくなる。
 精神的に疲れていたけれど、彼が作ってくれた美味しいご飯が心を軽くしてくれる。
「ね、料理教室とか通ったの?」
 ほかの料理も口に運んで、どれも美味しいことにびっくりした。
「いや、たぶん愛情入ってるから美味しいんだと思うよ」
 さらっと軽く言われて、は頬をほんのり赤く染めた。そんな彼女にクスッと笑って、虎次郎は小鉢を勧めた。
「これ、好きだよね」
 寄せられたのはの好きなしば漬けで、泣きそうになりながら箸をつけた。
「……これも作ったの?」
「無理だったからそれは市販品。ごめん」
「そんな!謝らないで。私だって作れないもの」
「なら、今度一緒に作ってみようか」
 驚いたのは一瞬。は「そうね」と同意した。
 それからしばらくして、食事が終わった頃、玄関のチャイムが鳴った。
 が立とうとするのを制し、虎次郎が玄関へ向かった。彼は外を確認すると、鍵を開けてドアを開いた。
「やあ、佐伯」
「不二、久しぶりだね」
 虎次郎の向かいに見える顔に驚いて、は立ち上がって二人の傍へ行く。と、不二の隣に人がいた。
「えっ、ちゃん? 二人ともこんな時間にどうしたの?」
 のもっともな問いに答えたのは不二だった。
「スイーツを持ってきたんだ」
「ぜひ上がっていって」
 そう言ったのは家主のではなく、虎次郎だった。
 が私のうちなのにと突っ込む間もなく、虎次郎と不二は話を続ける。
「佐伯、君が?」
「そうだよ。そっちもだろ?あ、共同かな」
「フフッ、あたり」
 何のことだろうとに視線を向ける。けれど、彼女も何のことかわからないらしく首を横に振った。
 がわかっていなくても、虎次郎と不二は話が通じ合っているようだ。と目を合わせ、彼女たちはほぼ同時に首を傾げた。
「それより、上がって」
 再度勧める虎次郎に不二は首を横に振った。
「いや、本当に”お邪魔”になっちゃうから…ね」
 不二はそう言って、と目を合わせてにっこり笑う。は笑顔で頷いた。
「それじゃ、これ、二人で食べてね」
 不二が差し出した白い箱を虎次郎が礼を言って受け取る。
「サンキュー、不二、さん」
「じゃあね」
「またね」
 揃って手を振る不二とは慌てて声をかけた。
「ありがとうっ、二人とも」
 見送って、はドアを閉めた。
「ねえ、さっきの君がとかそっちもとかなんのこと?」
 虎次郎はドアの鍵を閉めて答えた。
「俺が料理を作ったってことと」
 一度言葉を区切り、手にした箱を少しだけ持ち上げる。
「これは不二とさんが作ったってこと」
 なるほどと頷きかけて、スイーツを渡されただけで、なぜ不二とが二人で作ったのだとわかるのか、という新しい疑問が浮かんだ。
「どうしてわかるの?それに不二くんも主語がないのにわかってた答え方だったわ」
「不二とは幼馴染だしね。お互いのことがなんとなくわかるんだよ」
「ふーん」
「妬かなくても、のことちゃんと見てるよ」
「そ、そんな意味じゃ…」
「そう?」
 緩く首を傾げる虎次郎は少し意地悪そうに見えて、は彼からぷいっと顔を背けた。
「そうよ」
 ハハッと小さく笑う声が聞こえて、背中から抱きしめられた。
「好きだよ」
 耳元で甘く囁かれて、顔が火照る。
「…ずるい」
「お詫びに俺の分のチョコケーキ半分あげるよ」
 は瞳を瞬いて、腕を解いた虎次郎に振り向いた。
「チョコケーキなんて言ってなかったわよ」
「そうだね。けど、チョコケーキだよ」
 食べるために箱を開けると、箱の中に入っていたのは、虎次郎が言った通りチョコケーキだった。パウンド型のケーキからはチョコのいい香りがする。
 ケーキが届いたタイミングといい、中身といい、虎次郎が何かしたのだろうかと思ったが、食事の終わるタイミングがわかるわけがない。
 偶然に偶然が重なったのだろう。
 いや、偶然に偶然と偶然が重なったのだろうか。
 なんだかややこしい。
「ふふっ」
「どうかした?」
 お茶くらいは自分が淹れようと思ったのだが、虎次郎がコーヒーを淹れてくれた。の好みなコーヒーを見つけたんだ、と言って。
 そのコーヒーを淹れたマグカップをテーブルに置きながら、虎次郎が訊く。
「虎次郎くんが夕飯を作ってくれて、不二くんとちゃんが差し入れしてくれたタイミングがすごかったし、中はチョコケーキでしょ?だから、偶然に偶然と偶然なのかなって」
 すべてがにとって嬉しいこと。そして、それのどれもが絶妙なタイミングなのだ。
「で、なんだかややこしいって思って笑ってたんだ?」
「どうしてわかるの?」
の理屈と同じだよ」
 虎次郎はそう言って嬉しそうに笑った。




END

ツイッターの千春さんからのリプライを元に書きました。

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