口実




 頭上には銀色の光を放つ月と、降るような星空が広がっている。
 時折吹く風に木の葉が揺れる音以外は何も聞こえず、とても静かだ。
 もっとも今夜が静かなのは、今は自由時間で、自分以外のレギュラーは外出しているからなのだが。蛍狩りに行きたい、と言った菊丸を引き止める理由もなく、外出を許可した。大石がいれば問題を起こすことなく帰ってくるだろう。多分。一抹の不安が残るのは、部を率いる部長という立場にいるからに他ならない。
 自分以外の部員全員が外出していると思っていたのだが、喉が渇いたので茶を求めて向かった食堂から明かりが零れているのに気がついた。
 いるのはおそらく――。


 微かな足音が聞こえ、はノートに書き付けている手を止め顔を上げた。
「部長」
「お前は行かなかったんだな」
 その言葉が示す意味を正確に読み取って、は笑った。
「楽しそうですけど、これをまとめてしまいたかったので」
 手塚はの手元を覗き込んで僅かに苦笑した。
 ノートには今日の午後に行った試合の詳細が事細かに書かれている。そのノートの脇には、明日の練習メニューをまとめてある紙が数枚あった。練習時に何がどれだけ必要かを確認するためだろう。個々の能力を上げるために個別メニューを組んでいるので、コートの割り振りなどの細かい調整もがしてくれている。
 マネージャーであるがこうして記録や確認をしてくれるので非常に助かっている。けれど、自由時間まで費やすことはないと手塚は思っている。彼女はいつも仕事をしていて、休んでいる姿を見ることがない。だから自由時間位は息を抜いて欲しいと思う。
 だが、たとえ言っても、彼女は「大丈夫です」と笑って取り合うことがない。わかっていても、もどかしい。
 それに、はマネージャー業を楽しそうにやっているのが見ていてわかるので、強く言うこともできない。一生懸命なのは好ましいし、よいことだけれど。
「少し休憩したらどうだ?」
 言っても素直に聞かないのはわかっているが、もはや習慣のようになってしまっていた。
「あと少しできりがいいので、そこまでやっちゃいます」
 返されたのはいつもと同じ言葉の内のひとつ。たいがい彼女は今のような言葉か、あるいは「休憩しましたよ」と言う。そう言った彼女にある時、手塚は「見ていない」と言ってみたところ、「部長が見ていないところでしましたから」と返された。真偽を確かめる術がないので、「そうか」と言うほかなかった。ある意味で、彼女は自分の性格を見抜いていると言ってもいい。
「あまり無理をするな」
「大丈夫ですよ。私けっこう頑丈なんです」
 緩く首を傾けて笑うを、手塚は少し瞳を細めて見つめた。
「お前の代わりはいない。だから、疲れた時は休め」
 声はいつもと同じだったけれど、口調の強さに驚いては瞳を瞠った。
 真剣な顔の手塚に、自分は心配をかけていたのだと気がつく。
 無理していたつもりは本当にない。けれど、他人から見た自分は無理をしていると映っているらしい。
 自分にも他人にも厳しい手塚が言うのだから、きっとそれは間違いではない。
「はい、気をつけます」
「…素直に頷かないところがお前らしいな」
 手塚はふぅと溜息をついた。
「え?」
 呟いた声は聞こえていなかったらしく、は首を傾げている。だがもう一度言う必要などない。
 彼女が自分から休憩しないのであれば、休憩するように仕向ければいい。
 合宿所にいる今なら、彼女を休ませる口実がある。――いや、口実と名を借りただけの、誘いなのかもしれない。
「明日の夜、蛍狩りに行ってみないか?」
「えっ?」
 唐突な言葉には瞳を丸くした。
「楽しそうだと言っていただろう」
「あ、はい。言いました。けど…」
「けど、なんだ?」
「いいんですか?」
「なにがだ?」
「私が一緒でいいんですか?」
 お前だから誘っている。
 とはさすがに口には出来ない。
「いいから言っている。だが――」
「行きます」
 手塚の声に重なるように、は返事をした。
 だが、行く気がないのならいい。手塚の性格からすれば、そう続いたに違いないので。
 マネージャーになって二年。手塚自ら誘ってくれたのは初めてだ。今夜を逃したら次はないかもしれない。
「わかった」
「明日の夜が楽しみです」
「…そうだな」
 顔を綻ばせるに手塚の顔に柔らかな笑みが浮かぶ。もっとも笑顔は微かなもので、手塚をよく知る人でなければわからない。無論、には手塚が笑ったのがわかった。
「そういえば、部長、どうしてここに?」
「ああ。喉が渇いたので茶を飲みにな」
 の言葉で当初の目的を思い出した。
「いま淹れてきますね」
「いや、大丈夫だ」
 立ち上がったを手塚は制した。彼女に休憩させようと思ったばかりで仕事を増やすような迂闊な言葉を口にした自分に内心で溜息をつく。 
「私が部長に淹れたいんです」
 殺し文句に微笑み。誰かの――不二の入れ知恵だったりしないだろうな、と思わず深く考えてしまった。
 断る理由が微塵もない上、断われる筈がない。彼女の淹れる茶は文句なしに美味い。
「では頼むとしよう。だが、二人分淹れてくるのが条件だ」
「はい」
 笑顔で頷いて、は立ち上がると厨房へかけて行った。
「急ぐ必要はないと言うのに。全くあいつは…」
 フッと口元を微かに上げ、微笑する。
 手塚はが座っていた向かいの椅子を引き腰掛けて、彼女が戻るのを待った。



 翌日の夜。
 皆に見つからないようにと二人で蛍狩りに出かけたつもりだったが、約一名に知られていて手塚がからかわれたのは、翌朝のことだった。




END 


部長好きなお友達へ残暑見舞いとして押し付けました。


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