落花流水




 青学レギュラー御用達のテニスショップで、は一点を見つめ立っていた。彼女の黒い瞳が見つめているのは、特別に珍しい物でも高価な物でもない。この店以外でもスポーツ用品店に行けば置いてあるだろう物だ。
 この店に来た理由は、明日が誕生日である部活の先輩へのプレゼントを買う為だ。
 新人戦は終わったが放課後の練習や休日の練習がなくなるという事はなく、忙しい日々が続いていた。
 10月に入り、先輩の誕生日が近くなるにつれ、プレゼントを買いに行く時間がなく焦っていたのだが、誕生日前日の今日、やっと時間ができた。
 ずっと前から何を贈るかは決めていたので、部活のミーティングが終わってすぐにここへ来た。けれど、どちらの色にするか決められず、悩み続けて十数分が経過していた。
「……緑…でも、イメージは青なのよね……けど、緑も似合うし…」
 何度目かの独り言が柔らかな唇で紡がれる。けれど、答えは一向に出ない。
 一番手っ取り早いのは両方購入してしまうことだが、優柔不断な気がするので悩んでいる。
 頭の中で先輩がつけた姿を想像してみるのだが、どちらも似合うので決められない。
 好きな色が緑か青でなければ迷わないのに。
 は胸の内でごちて、棚に並んだリストバンドを睨むように見つめた。



 翌日、10月7日。
 朝練終了後、ジャージから制服に着替え部室に鍵をかけたは、急ぎ三年一組の教室へ向かった。
 三年生は全国大会後に部活を引退しているので、たまに部活に顔を出してコーチをしてくれる以外は基本的に部活に来ていない。だから、プレゼントを渡すなら教室に行くしかない。
 本鈴が鳴るまであと十分位しかないけれど、プレゼントを渡してお祝いを言うだけの時間はある。
 駆け足でたどり着いた三年一組の教室前は、まもなくホームルームだというのに人込みができていた。しかもその人込みは、全員女子生徒だった。
「……これってもしかして…」
 呟いたの言葉を肯定するかのように、女子生徒達の黄色い声が耳に届く。
「先輩、これ受け取ってください」
「ちょっと!私が先よ!」
「お誕生日おめでとうございます、先輩」
 廊下に十数人はいるだろう女子生徒に囲まれ、いつもと同じ静かな表情の手塚が戸口にいた。
 彼がもてるのは知っていた。それに、先生方も一目置く生徒会長であり男子テニス部部長であったのだから当然かもしれない。けれど、去年以上の女子生徒の人数に唖然としてしまう。
 夏の全国大会での優勝ということが少なからず影響しているのだろう。
 …これじゃ渡すのは無理だわ。
 去年は偶然から手塚が一人の時に落ち着いて渡す事ができたけれど、今年は出来そうに無い。ホームルーム前でこの状況では、昼休みや放課後はもっと無理そうだ。
 部活に遅刻する訳にはいかないので、残された時間は昼休みしかない。
 諦めたように溜息をつき自分の教室へ行こうとしたを、落ち着いた声が呼び止める。

「部長…」
 部長は自分ではなく海堂だ、と何度も言っているのに、咄嗟の時や気が抜けた時は忘れるに手塚は微かに苦笑する。
 手塚部長。
 にそう呼ばれるのは嫌いではない。けれど、部長ではなく先輩と呼ばれたいと思い始めたのはいつからだろう。
「こんなところでどうしたんだ?」
「たまたま通りかかっただけですよ」
 は首を傾けて笑みを顔に貼り付ける。
「二年の教室へ行くのにここは通らない筈だが」
「寄り道です、寄り道。時間があったので」
 あはは、と笑うに手塚は呆れた顔で溜息をついた。
「数分後には本玲が鳴る時間なのに寄り道か?」
 言われて、は言葉に詰まる。
 時間があったと言わなければ誤魔化せたのに、私のバカ…!
 後悔しても言った言葉は取り消せない。
 だが、用事を済ませるにしても、周囲の視線が痛い。
「ち、遅刻するといけないので、教室行きますね」
 じゃあ、また部活で、と笑って告げたを引き止める理由はなく、部の事で話があったのではないのかと後輩の訪問をいぶかしげに思いながら、手塚は教室へと戻った。


 放課後、掃除当番だったは焼却場にゴミを捨てに行き、教室へ戻ってきた。ゴミ捨ては平等になるように順番を決めていて、今日はの番であった。だから、掃除場所が一緒のクラスメイト達は一足先に部活に行くか帰宅していて、教室には自分一人しかいない。
 しんと静まり返った教室では溜息をついた。
 チャンスは昼休みしかない、と三年一組を訪れたのだが、手塚は教室にいなかった。行き先を知らないかと教室にいた人に訊くと、三番目に訊いた人から「あいつなら生徒会室に行ったよ」と答えを貰った。
 だが、行き先が生徒会室ならば生徒会の仕事だろうからおしかける訳にはいかない。
 ……メールするしかないのかな…。
 自分の机の横にかけてあるバッグから携帯電話を取り出して、じっと見つめる。
 直接お祝いを言いたかったけれど、それが出来ないのなら…。
 今日お祝いしなかったら意味がないし。
 そう思いながらも、やはりプレゼントを渡しながらお祝いを、と考えてしまう。
 諦められない。
 けれど、ホームルームが終わって数十分は過ぎているからすでに校内にいないかもしれない。
 もしいたとしてもどこにいるかわからないし、そろそろ部活が始まっている頃なので探す時間はない。掃除や委員会以外の――特別な理由がない私的な事で遅れていくわけにはいかない。
 ああでもない、こうでもないと考えていたの耳に、教室のドアがガラガラと開く音が届いた。
 はドアへ視線を向けて、驚愕に黒い瞳を見開く。
「部長!?」
 今考えていた人が――授業中も頭から離れなかった人が立っている。
「すれ違いにならずにすんだようだな」
 手塚は意味がわからずきょとんとしているとの距離を縮めた。
「コートへ行ったがお前がいなかったから、海堂に訊いた。掃除は終わりか?」
「あ、はい。今から部活に行く所です」
 手塚が姿を見せた事に驚いてしまって、なぜ彼が教室へ来たのかという疑問に考えは行き着かない。
「部活のあとだが、時間はあるか?」
「ありますけど…」
「そうか。ならば部活が終わる頃、部室へ行く」
「あの、部長、話がよくわからないんですが」
「すまない。こういうものに慣れていないからな」
 はさらに意味がわからなくなり、考えるように首を傾ける。
 手塚は眼鏡のブリッジを左の人差し指と中指で少しかけ直し、薄い唇を開く。
「…一緒に帰ろうと言いたかったんだ」
「えっ?一緒にって部長と私が、ですか?」
「他に誰がいる」
「あ、あのっ、一緒にってどうして?」
「部の事で俺に相談があるのだろう?」
「……そう…だん…?」
「遠慮する必要はないのに、今朝ので俺を誤魔化せたと思っているのか」
「いえ、思っていません」
 けど、違うんです、部長!
 教室に行ったのはお祝いを言ってプレゼントを渡したかったからです!
 心の中で叫んでも手塚には全く伝わらない。
 考える方向を変えて、部長と二人という事になると思えばいいのよ。うん。
 手塚はが必死に自分に言い聞かせているなどわからない。
 けれど、その逆もしかり。
 誕生日である今日、に隣にいて欲しいという想いを、相談というオブラートで包んでいるなど手塚以外には知りようが無い。
「では後で迎えに行く」
「はい。あ、部長。途中までご一緒していいですか?」
 手塚は切れ長の瞳を瞬いて、ついで僅かな笑みを口元に浮かべた。
「かまわない」
 その言葉には頬を緩めて、手塚と並んで歩き出す。
 階段で別れるまで少しの距離しかないけれど、手塚の隣を歩けるのが嬉しい。
 たわいない話をしながら階段までを一緒に歩く。教室から階段まではあっという間だった。
「ぶちょ――」
「もう部長ではない、と何度言わせる」
 呆れたような声だったが、顔は苦笑していて怒っていないとわかった。
「ごめんなさい。でも、まだ慣れていないんです」
 先程の手塚を真似て言って、はいたずらっぽく舌を小さく覗かせる。
「これから気をつけます、手塚先輩。だから、言い間違えても許してくださいね」
 そう言っては手塚へ視線を向けたまま階段を降りていく。
 の姿が消えるまで見送って、手塚は廊下の窓から見える空へ切れ長の瞳を向けた。
 何気なく見上げた秋空は、昨日よりも青く輝いているような気がした。



 そろそろか。
 壁にかけられた時計に目を遣って時刻を確認した手塚は、生徒会室を退出し、テニスコートへ向かった。
 少しばかり早いかもしれないが、今日中に片付けねばならない事は終わらせたし、区切りもよい。どうやら昼休みを返上して仕事をした甲斐があったようだ。
 それは放課後にを誘う為でもあったが、結果として喧騒――女子生徒の襲撃を避ける役割にもなった。
 テニスコートへ着くと、部活が終了したばかりらしく、一年生部員がネットを片付けている最中だった。
 姿を見せて部員達を驚かせてるのは本意ではないし、何しに来たかと問われて煙に巻く自信がない。
 ゆえに目立たない位置でを待つ事にした。
 夕闇が幸いしたのか、部室近くにいる手塚に気がついたのは数人だけだった。
「手塚先輩!」
 たたっと走って来る後輩を瞳に写して、手塚は切れ長の瞳をそっと細めた。
「お待たせしてしまってごめんなさい」
「気にしなくていい。俺が早かっただけだからな」
 帰ろう、と促され、二人並んで歩き出す。
 手が触れ合うほどに近い距離なのに、手を繋いで歩く間柄でないのを残念に思って、が右側を歩く手塚を見上げると、不意に瞳が向けられた。
「なんだ?」
「あ、えっと、部長って背が高いなぁって思って」
 言うと、手塚はふぅと溜息をついた。
「今朝から誤魔化してばかりいるな、お前は」
「あ…」
「それほど言い出しにくい事なのか?」
 手塚の言い出しにくい事が相談を指すのだとわかったが、そもそもそれが間違いで、けれど伝えたい言葉があるのも事実で、頷いたらいいのか否定したらいいのかわからない。
 もっと早くに、相談があって行ったのではありません、と告げればよかった。
 けれど、言ってしまったらこうして一緒に帰る事はなかった。
 手塚を見ては言えなくて、は斜め左前を見ながら意を決した顔で口を開く。
「………今日は部長のお誕生日ですよね」
 ああ、と静かな声が応じる。
「だからなんです。…部長に誕生日プレゼントを渡したくて…」
 手塚は驚愕に切れ長の瞳を見開いた。
 今日が自分の誕生日だという事を、が知っているのはわかっていた。自惚れかもしれないが、去年の誕生日に祝ってくれたのだから、好意とまでは行かずともあっさり忘れられるような存在ではないだろうと。
「受け取ってもらえますか?」
 は手塚を見上げて訊いた。彼は拒否しない人だとわかっているけれど、肯定が欲しかった。
「ありがたく受け取らせていただこう。だが、その前に聞いて欲しい事がある」
「はい」
 手塚はにわからないほど小さく深呼吸をする。
「お前に好きだと告げても、お前は俺にプレゼントを渡したいと思うか?」
 不意に告げられた言葉に驚いて声が出ない。
 けれど、感情は別で、瞬く間にの頬も耳朶も赤く染まっていく。
「……思い、ます。………好きだから…」
 告げられた言葉に手塚は安堵の表情を浮かべた。
 曖昧で不確かな関係でいるのは、そろそろ限界だった。
 だからと言って今日告白しようと思っていなかったが。彼女の相談を聞くつもりでいたのだから。
 けれど、それが勘違いだとわかって、その時頭の中で何かが外れた。そんな気がする。
 もっともそれは後々に冷静になってみて思った事で、今の手塚に分析する余裕など無い。
「手塚先輩。お誕生日おめでとうございます」
 はにかむように微笑んで差し出された二つの紙袋を受け取る。
「ありがとう。…
 手塚は瞳を細めて僅かに微笑んで、の華奢な手を取った。 




END



BACK