ささやかなこの願い




 校舎の最上階にある生徒会室で生徒会の仕事をしていたは、不意に耳に届いた音に顔を上げた。
 窓を叩く小さな音がし、そちらに目を遣ると窓が水滴で濡れていた。
 校庭を見渡すことのできる窓を叩く雨は、少しづつ強さを増していく。窓が水滴がわからなくなるほど濡れるのに、さほど時間はかからなかった。
 は掛けていた椅子から立ち上がり窓辺へ近づいた。窓越しに見上げた空は暗く、暗雲が立ち込めている。
「…困ったなあ。傘持ってきてないのに」
 は眉を寄せて溜息をついた。
 朝は多少曇天ではあったが、雲の隙間から太陽が射していたから降るとは思わなかった。ロッカーに置き傘をしていたらよかったのだが、そう思っても後の祭りだ。
 仕事――体育祭に全校生徒へ配るプログラム作成が終わる頃には、もしかしたら止むかもしれない。
 もし止まなかったら、それはその時考えよう。校内に傘を持っている友人がいるかもしれないし。
 今すぐに帰宅するわけでないのだから、仕事を片付けてしまおう。
 そう考えては仕事を再開した。


 両面刷りされた用紙を二枚重ねてホチキスで閉じるという、単純かつ地味な作業を開始してから十五分程経過した頃。
 生徒会室の扉がノックされた。
「はい、どうぞ」
 応えたは一拍後、驚きに目を丸くした。黒い瞳に映ったのは、生徒会長――手塚国光の姿。
「やはりここにいたか、
 声にわずかな安堵が混じっていたような気がして、は瞳を瞬いた。
 もしかしたら何か用事があって、探させてしまったのだろうか?
「…それを手伝おうと思ってな」
「えっ!?」
 手塚は声を上げたにかすかに眉を上げた。
「なぜそんなに驚く?」
「だって、手塚く…会長がすることでもないでしょう?ほかにいっぱい仕事があるんだし。それにもう少しで終わるから」
 体育祭や文化祭などを初めとする行事がなくても、生徒会長である手塚にはいろいろ仕事がある。それに、引退したとはいえ、夏の全国大会でテニス部の部長として青学を全国優勝へと導いた彼は部の後輩たちからとても慕われていて、時々部活に顔を出しているのを知っている。
 だから、忙しそうな彼に手伝ってもらうのは気が引ける。
「もう終わっている。それに、それはお前の仕事でもないだろう」
 俺は他の奴に仕事を割り振ったはずだ、と言う手塚には言葉に窮し俯いた。
 彼の言う通りで、これは本来の仕事ではない。だが、終わりそうにないから手伝って欲しいと言われて、は断れなかった。
「その、…手伝って欲しいって言われて断れなくて」
 しどろもどろに理由を口にすると、手塚はふぅと軽く嘆息した。
「大方そんなことだろうと思ったが」
 溜息混じりの声に呆れているのだろうかと、は視線を上げて手塚を見た。
「どうした?」
「え、あ…呆れてるかな、て思って」
「お前には呆れていない。 断れとは思うがな」
 言って、手塚はの左側の椅子に腰掛けた。
「半分寄越せ」
「うん。ありがとう」
 手塚に甘えることにして、は山になった紙の半分と予備に用意していたホチキスを渡した。
 彼は普段からあまりしゃべらないので、が口を聞かない限り会話は始まらない。
 生徒会室にはパチンパチンとホチキスで紙を止める音と、窓を叩く雨音だけがしている。
 ――手塚くんと二人なんて初めてだわ
 生徒会室にはたいがい四、五人いることが多いし、手塚とはただのクラスメイト――はそうではないけれど、彼の方はそう思っているだろう。
 だから二人きりを意識しているのはきっと私だけ。
 落ち込みそうになり、それを振り払うように頭を振ったら手元が狂った。
「――っ」
 手から離れた紙がひらりと落ち、机を滑り床へと落ちる。
「! 切ったのか?」
 手塚は珍しく焦った声を上げ、彼女の右手を掴んだ。傷の具合を確かめ、酷くないことにホッと息をつく。
「あ、あの、手塚くん?」
「念のため保健室へ行って手当てをしたほうがいいな」
「平気よ。少し切っただけだもの。洗ってバンドエイド貼っておけば」
「駄目だ。行って来い」
 否を言わせない口調で言われ、は従った。


 本当に洗ってバンドエイド貼っておくだけで平気なのに。
 そう思いながら、行かなかったら怒られそうなので保健室へ行き手当てしてもらって生徒会室へ戻った。
「ごめんなさい、一人で仕事さ――あれ?」
 扉を開けて室内へ入ると、いるはずの手塚の姿がない。いや、ないのは彼の姿だけではない。先程までテーブルにあったはずの書類もなかった。
 不意に背後で扉を開く音がし、は振り向いた。
、戻っていたのか」
「うん、今戻ったところ。 プログラムがないけど、もしかして終わった?」
「ああ」
 やっぱりとは眉を曇らせた。
「ごめんなさい。一人でやらせた挙句に片付けてもらうなんて。 手伝ってくれてありがとう」
「気にするな」
「気にするわ」
 だって今日は手塚くんの誕生日なのに。
 仕事を手伝ってもらって、手を切って心配させて、片付けまでさせてしまった。
「なぜだ?」
「聞いて面白いことじゃないから、気にしないで」
 は顔の前で軽く手を左右に振りながら笑った。
 言えるわけがない。だからなんでもない顔をして笑うしかできない。
 そんな彼女に手塚は切れ長の瞳を僅かに細めた。
「今朝から様子がおかしいのに、気にしないはずがないだろう」
「え?」
 手塚は驚きに瞳を瞠るとの彼我を縮めた。
 一歩分離れていた距離が縮まり、二人の間の距離はないに等しい。
「指を切った時も様子がおかしかった」
「そんなことないわ。考えすぎよ」
 口を割らないに手塚は嘆息し、刹那瞳を伏せた。
「……雨が強くならないうちに帰ろう。家まで送っていく」
「えっ!?い、いいよ。大丈夫」
「だが、傘を持っていないのだろう?」
 手塚の言葉には瞳を瞠った。
「どうしてそれを?」
「先程お前の友人から聞かされた」
 淡々と言葉を紡ぐ手塚に、また心の中に翳が広がる。
 一方通行の気持ちは辛くて重い。
 一緒にいられて嬉しいのに、それだけじゃ物足りない。もっと確かなものを――気遣いじゃない気持ちが欲しいと思ってしまう。
 は唇を一度強く結んで、それから笑みを顔に貼り付けた。
「まだ残ってる友達いると思うから、入れてもらうわ。だから、いいよ」
 数秒の沈黙後、切れ長の瞳で真っ直ぐを見つめて、手塚は口を開いた。
「…………言っておくが、お前の友人に傘がないと聞いたからではない。俺がお前を家まで送りたいと思ったんだ」
「――っ、でも、遠回りになるじゃない。送ってもらう理由がないわ」
「…迷惑か?」
 瞳を眇める手塚をは思い切り首を横に振る。
「迷惑じゃないけど、悪いから…」
「悪くないから言っている。それに――」
 お前になら迷惑をかけられても構わない、と手塚が優しく微笑む。
「それでも駄目か?」
「…ダメじゃない」
 消え入りそうな声では言った。



 鉛色の空から雨の雫が傘を叩く。
 土砂降りではなくなったが、ざあざあと音がする程度には強い雨だ。
「……雨、止まないね」
「そうだな」
「…少し寒くない?」
「俺は平気だが、寒いならもう少しこちらに寄るといい」
 が答えるより先に右手を引かれ、少し引き寄せられた。
「寒いはずだ」
「え?」
 見上げると、こちらを見ていた手塚と視線が重なった。
「肩が濡れている。なぜ少しづつ離れていく」
「そ、そうだった?」
 無意識に羞恥心が働いたのだろうか。そんなつもりは全然なかったのだが、肩が濡れているということはそうなのだろう。
「で、でも私が濡れないようにしたら手塚くんが濡れちゃうわ」
 これだけの強い雨だ。自分が遠慮してもたかが知れているから気分の問題だけれど。
「俺なら多少濡れても問題ない。それにお前が風邪を引いたら本末転倒だ」
 落ち着いた口調だが、気遣ってくれているのがわかって頬が緩む。
 我ながらげんきんだ。落ち込んだり、浮上したり忙しない。
「……家でお祝い――」
 言いかけて、ハッとした顔で口を押さえた。
 思わず立ち止まってしまったに倣い、手塚は足を止める。
「祝い?」
 怪訝そうな瞳が見つめてくる。
 思わず視線を逸らしてしまったは、しまったと思った。
 気付かれてしまったかもしれない。
「……おかしな遠慮をしていたのはそのせいか?」
 弾かれたようにこちらを見たの姿が答えだった。
「気にするほどのことではないだろう」
 手塚が珍しく困った顔をする。
「でも…」
「ならば今日が俺の誕生日ではないと思えばいいだろう」
「そんな無茶苦茶な…」
 どことなく自棄に見える手塚をは困ったように見た。
 手塚の唇がかすかに動いて言葉を紡いだけれど、雨音に掻き消されて聞こえなかった。
 聞き返す間もなく、ふいと手塚の視線が逸らされる。
「いつまでもここにいたら濡れるだけだ。行こう」
「う、うん」
 追求されなくて助かった。けれど、彼は何と言ったのだろう。
 見上げる視線に気がついたのか、切れ長の瞳が向けられた。
。離れていくな」
「えっ?」
「濡れるぞ」
「あ…うん」
 誤解するような言い方は止めて欲しいな、と思いながらも、優しさが嬉しくて頬を緩める。


 もう少しこのままで。
 弱くなり始めた雨に、しばらく止まないで欲しいと願う。

 ささやかな願いを望んだのが二人ともだったことに、当人たちだけが気がつかなかった。




END



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