生チョコ気分 日曜日の昼下がり。 両親は親戚の家へ昨日から出かけていて、帰ってくるのは明後日の予定。 だから、今日は気兼ねなくキッチンを占領できる。 キッチンテーブルの上に、金曜日の学校帰りに友人と製菓店で買ってきたカカオ78%のチョコレートと、その他にガトーショコラを作るのに必要な材料、そしてキッチンスケール、泡だて器、ボウル、木ベラ、ケーキの型などの器具を用意した。 明日はバレンタインで、バレンタインチョコを手作りして恋人に渡そうと考えたからだ。 実は今まで一度もバレンタインに異性へチョコレートを贈ったことがなく、今年が初めてである。贈ったことがない理由はみっつ。ひとつは、彼――隣の家の幼馴染である手塚は、たいそうもてる。本人にそういう自覚は全くないが。ふたつめは、校内にはファンクラブまであること。そして、最大の要因であるみっつめは、彼と幼馴染であること。幼馴染としてチョコレートを渡すというのは嫌で、かといって今までの関係を壊してしまうかもしれない告白はできないからだ。手塚に彼女ができるかもしれない不安はあったが、もし告白して否と言われたら、幼馴染という関係さえ壊してしまいそうで、それが怖かった。 だから、ずっと想うだけでいた。 想うだけでいい、と自分に言い聞かせるようにしてきた。 けれどある日――手塚の誕生日に抑えてきた感情が爆発して、ずっと隠してきた気持ちを打ち明けてしまった。いや、打ち明けたというより、打ち明けざるを得ない状況に追い込まれたのだ。 ――俺がお前を好きだとは考えなかったのか 彼に告げられた言葉に驚いて、直後に彼に抱きしめられたのを、覚えている。 ――人の気も知らないで…。…心配させないでくれ 耳元で囁くように言った彼の声の優しさに心が震えたのも。 「……そう言えば、あの時からかわれたっけ」 チョコレートを湯煎にかけて溶かしながらは呟いた。 その時は彼の意外な一面を見た瞬間でもあった。 口数は少なく、表情より瞳で物事を語る。そんな彼があんなことを言ったのは意外だったけれど、それが仕返しだったとわかった時はもっと意外だった。菊丸あたりが聞いたら、「うわー、手塚ってば不二の悪い影響を受けてるにゃー」とでも言ったかもしれない。 ともかく、少しの紆余曲折があったけれど両想いとなり、今に至るわけだ。 甘さ控えめの、どちらかというとビターなガトーショコラを作りながら、は思った。 あの時の気持ちをチョコレート菓子で表現するなら、まるで生チョコ気分だったかも、と。 …触れられて溶けてしまいそうだったから。 翌日の月曜日。 いつもの時刻に家を出ると、門前で手塚とばったり出会った。 挨拶を交わし、二人は並んで歩き出す。一緒に行こうとどちら声をかけるでもなく、自然の流れで。以前と違うのは、幼馴染以上に発展した二人の関係だ。 「今日、一緒に帰らない?」 「…ああ」 手塚は半瞬の間のあと、返事をした。不意に言われて驚いたからだった。 そして気がつく。 約束をして帰るのは初めてだということに。 幼馴染という関係から恋人同士へと関係が進展したのは、四ヶ月程前――十月四日のこと。だが、お互いに奥手、テニス部の面子に言わせれば見ていて歯がゆいほどなので、晴れて恋人となった今も偶然がない限り登下校を一緒にすることはないのであった。 「でね、…渡したい物があるから、うちに来て欲しいなーなんて」 にしては珍しく、少しばかり覇気が欠けた声。 少しばかりいつもと違う表情を見せる彼女に、手塚は軽く眉を顰めた。困惑という言葉が当てはまるような顔をして口を開く。 「それは構わないが」 「ほんと?よかった」 嬉しそうに笑うに、手塚はなぜだと口に出来なかった。 なんとなく。そう、なんとなくなのだが、なぜだと口にしたら彼女が怒りそうな気がしたのだ。別に彼女が怒るのが怖いわけではないけれど、自ら進んで怒らせるような愚行をするつもりはない。 学校に着き、教室へ行く間は何事もなく――が隣に居たので――過ぎたが、教室の自分の席に着いた時、手塚は今日がどんな日であったか知ることとなった。 彼にしては非常に珍しいことに、うっかり忘れていた。今日がバレンタインであることを。 毎年それなりにチョコレートをもらう手塚は、ある程度――教室に不在の間にチョコレートが机に積まれていることなどを覚悟していた。けれど、今年は気が回っていなかった。付き合っている人がいるのにチョコレートをもらうとは思っていなかったのだ。が、大々的にそれが周知のことであるのならば手塚の言も頷けるが、彼ら二人は付き合う前と全く変化がない。だから交際を始めて四ヶ月が経過していても、テニス部の面々や友人たちを除く大半の人たちは、手塚とは幼馴染だという認識しかされていないのだった。 誰と付き合っているかなどあえて口にする必要はないと手塚は思っているし、も聞かれない限り言うことはないだろう。だがそのことに手塚は気がついていないので、どうしようもない。 「今年は去年より少ないな」 「少なくてこの量か。すげぇな」 「テニス部のレギュラーはみんなこんならしいぜ?」 「らしいな」 「俺も一度でいいから山ほどもらってみてー」 などと羨望の眼差しをちらちら手塚へ向けながらクラスメイトが話しているが、当の手塚は淡々とした顔で、クラスメイトの女子からよかったら使ってと差し出され、礼を言って受け取った紙袋に机に積まれていたチョコレートを入れていた。 放課後、待ち合わせた昇降口へ行くとが先に来ていた。 「すまない、待たせたか」 「ううん、私も少し前に来たところだから」 は手塚が鞄と一緒に持っている紙袋へ視線を滑らせたが、一瞬で視線はすぐに彼の顔へ戻った。彼女は何を言うでもなく、表情に変化もなく、いつもそうしているように、歩き出す。 「……」 二人は黙々と歩いていたが、校門を出て300メートル程歩いた頃、手塚の声がそれを破った。 「何?」 黒い双眸を手塚に向け、は首を傾げる。 「言いたいことがあるなら言って欲しい」 は瞬いて、笑った。 「急にどうしたの?」 そう訊いてくる彼女に考えすぎだったかと思ったが、これまでの沈黙がそれを打ち消した。 先ほど昇降口で、は何も言わなかった。訊くこともなかった。表情にも瞳にも変化はなかった。けれど、雰囲気が違った。口にも顔にも出さなかっただけで、態度に出ていた。それがここまでの沈黙が示す意味に他ならない。 「怒っているんだろう?」 「怒ってなんていないわよ」 「なら、なぜそんなに不機嫌にしている」 じっと見つめると、視線に耐えかねたのか、は視線を逸らした。 「………紙袋」 ぽつりと紡がれた声に、手塚は「は?」と声に出さないまでも一瞬だけ間の抜けた顔をし、すぐに気を取り直した。 「見かねたクラスメイトがくれたんだ」 「えっ?」 驚いた瞳が向けられ、手塚は深く嘆息した。 チョコレートにではなく、紙袋を気にしていたのがらしいといえばらしい。しかし、もしかして妬いているのかと思っていただけに、脱力をしても仕方がない。 「全くお前は……」 「だって、紙袋のことなんて忘れてたから。だから…」 去年まではが紙袋を用意してくれていた。 それは助かっていたけれど、けっして嬉しいことではなかったのを、彼女はわかっていないのだろう。 幼馴染以上でも以下でもない関係をずっと続けてきた。好きだと言ったこともない。 だから仕方がないことではあったけれど、喜ぶべきことではなかったのだ。 「助かっていたが、嬉しくはなかったな。……お前からなんとも想っていないと言われているようだった」 の瞳が驚きに見開く。考えてもみなかった、という表情をしている。 手塚が驚いているの華奢な右手を左手で捕まえ手を繋ぐと、彼女は更に驚きを深めた。 「くに、みつ…?」 うわずった声で名を呼ぶ彼女の目元が次第に赤く染まっていく。 「嫌か?」 言葉ではなく態度で、それは示された。彼女は首を小さく横に振って応えた。 「あ、あのね、金曜日、が美味しいって薦めてくれた紅茶を買ったの」 手を繋いでいるということを意識から追い出したいのか、は突然話題を変えた。異論はないので、それに乗ることにする。 「どんな紅茶なんだ?」 「ヨークシャーっていう紅茶。ミルクティーが美味しいんだって」 手塚にあげるのに焼いたガトーショコラと合いそうだと思って買ったのだが、それはまだ秘密だ。 「あ、でも、コーヒーのほうがいい?」 「お前が淹れてくれるのだろう?それならばどちらでもかまわない」 口端を僅かに上げて微笑する。 「――っ!」 言葉に詰まるに瞳をフッと細めて、満足そうな笑みを口元に浮かべた。 「…く、国光っ!」 仕返しだとわかって声を荒げる。けれど、赤く染まった顔で言っても効果はない。 「のせいだろう」 あの時と同じセリフでかわされて、「しらないっ」とは拗ねた子供のように顔を逸らした。 繋いだ手が湯煎にかけたチョコレートのように溶けそうだったけど、生チョコみたいな気分をもう少しという気持ちもあって、家に着くまでそのままだった。 それは計算して狙ったものではなかったが、後日波紋となって現れたのは言うまでもない。 END キミとチョコレート5題「3. 生チョコ気分」/Fortune Fate様 BACK |