あなたには感謝している

 けれど―――

 あなたと歩いていくことはできない




 永遠の約束3




 深い悲しみに溢れた音が、静寂な空気に広がり溶けていく。
 先程までの華やかな演奏が嘘のようだ。
 うっとり聴き入っていたスタッフたちの表情は、悲しさを帯びたものへ変わっていた。
 最後の一音を弾いて、は弦から弓を離した。
 刹那の沈黙の後、シンと静まり返った空気にわっという歓声が響いた。
 は深緑色の瞳を和らげて、そっと微笑んだ。
 けれど、誰一人として気がついていない。
 微笑みの裏に隠された彼女の心に。
「…ごめんなさい、曲順を間違えてしまったみたい。大丈夫かしら?」
 緩く首を傾けて、音響担当の男性には声をかけた。
 声をかけられた男性は、手元に視線を向けた。
 数枚の紙をぱらぱら繰って、目当ての紙に目を通す。
 リサイタルのプログラムの曲順を確認すると、彼女が弾き終わった曲は、最後の方に演奏することになっていた。
 明日のためのリハーサルであるし、録音機材を回しているわけではない。
 そう判断して、男性は口を開いた。
「仰る通り順番は違いますが、会場の雰囲気と音響を感じていただくリハーサルです。なので、心配しなくて大丈夫ですよ」
 今回のリサイタルはアメリカで開催されたリサイタルの曲順を入れ替えたもの。
 だから無意識に指が動いてしまったのだろう。
 それが男性の結論だった。
 それに対して周囲の異義はなく、そのままリハーサルは進んでいった。


 リハーサルが終了したのは、正午を僅かに過ぎた頃。
 先約があったのでスタッフたちからの昼食の誘いを断り、挨拶を済ませたは会場を出た。
 そして待ち合わせのレストランへ向かう。
 待ち合わせた時間には少し早いが、約束している相手は来ているに違いない。を一人にする時間がないように、彼女は気を遣ってくれているから。
 それをもわかっているから、自然と早足になる。

 駅から数分離れた場所にある、イタリアンレストラン。そこが由美子との待ち合わせ場所だった。
 由美子は先に着いていて、彼女は柔らかく微笑んでに手を振った。
「待たせてしまってごめんなさい」
 友人の向かいに腰を下ろしながら、謝罪の言葉を唇に乗せた。
 気遣うに由美子は首を横に振る。
「気にしないで。私もさっき着いたばかりなの」
 にっこりと微笑んで、由美子は言葉を付け加える。
「リハーサルお疲れさま」
「由美子さんもお仕事お疲れさまでした」
 優しく気遣ってくれる友人に微笑みながら言った。



 と由美子が食事をしている頃、周助は昼休みの最中だった。
 屋上で弁当を食べようと菊丸が言ったので、二人は屋上にいる。
 心地よい風を肌に感じながら、周助は空を見上げていた。
 食べ終わった後、いつもなら菊丸とたわいない話を食事中と変わらずにしている。
 けれど、今日は―――。
「…不二ってさ、秘密主義だよな」
「そうかもしれないね」
 視線は空に向けたまま、こちらに向けられる気配はない。
 そんな周助の横顔を菊丸は見ていたが、表情からは何も読み取れない。
 何も聞きだせそうにないと思った菊丸は諦めて、友人に倣って空を見上げた。
 真っ青な空に煌めく太陽が眩しくて、菊丸は僅かに瞳を細める。
 時間だけが静かに流れていく。
「………忘れられないんだ」
 不意に静かな声が耳に届いた。
 だが、それが何を差しているかは全くわからない。
 どういう事か菊丸は訊こうとし、やめた。
 友人が言うとは思えない。
 自分にも言いたくない事のひとつやふたつはある。それと似たようなものだ。
 菊丸は自分の考えに納得したように、うんうんと頷いている。
 そんな彼の様子は雰囲気でわかったが、周助は何も言わなかった。
「――春の日射し…いや、木漏れ日みたいなんだよ」
 優しくて、柔らかくて。
 でも、触れたら消えてしまいそうな微笑み。
「…忘れなくていいんじゃん?不二は忘れたくないんだろ?」
 詳しい事は不明なまま。
 けれど、確かにわかる事がある。
 忘れられないということは、忘れられないほど大事なことだ。
 だから、忘れなければいい。
「そうだね…」
 短く答え、周助は色素の薄い瞳をゆっくり閉じる。
 瞼の裏に甦るものがある。
 明るいブラウンのさらりとした髪。
 深緑色の澄んだ瞳。
 春の木漏れ日を形にしたような微笑み。
 そして耳の奥で甦る、月の光を編み上げたような音色。
「……ありがとう、英二」
「べっつに〜。不二の元気がないと張り合いないからさ」
 にかっと笑う友人に周助はフッと微笑し、ゆっくり立ち上がった。
 チャイムが鳴っている。あと10分で昼休みが終わる。
 菊丸が立ち上がるのを待って、並んで歩き出す。
「あーーーっ!」
 屋上から出て教室に向かっている途中で、不意に菊丸が叫んだ。
 階段じゃなくてよかったと思いながら、周助は訝し気に眉を顰める。
「英二、急に大声で叫ばないでよ」
「次ってリーダーだよな?」
「うん」
 周助が頷くと、菊丸は両手で頭を抱えた。
 そんな菊丸の姿に周助はやれやれとばかりに溜息をつく。
 彼が発するであろう言葉が予想できる。
「宿題やったのにノート忘れた」
 がっくり項垂れる友人の肩を、周助はあやすようにポンと叩く。
「もう時間ないから諦めなよ」
「不二、見せて…はくれないよな?」
 話をしている間にも足は動かしていたので、二人は教室に着いていた。
 そして、昼休みが残り5分であることを告げるチャイムが鳴り響く。
 菊丸は諦めたように肩を落とし、教師に差されない事を願いながら、元気なく自分の席に戻った。
 友人が席に座ったのを確認した周助は、誰にも気がつかれないほど小さな溜息をついて、窓際の席へついた。



 らしくなくていい

 優しい微笑みに捕われてしまったから

 きっとあなたを――

 あなたの微笑みを僕に――




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