「、これからちょっと出かけない?」 ランチの後、リビングで食後の紅茶を飲みながら、天気の話でもするように気軽に周助が言った。 唐突な提案には一瞬だけ深緑色の瞳を丸くして、ついで嬉しそうに細めて微笑み、ティーカップを置いて頷いた。 「ええ」 周助はプロテニスプレイヤー、はヴァイオリニストで、一緒にゆっくり過ごせる時間はそう多くない。 だからは彼の数日振りのオフに合わせて、今日をオフにする事にした。 そして昨夜から約束通りに二人きりでゆっくり過ごしている。 顔にはださないが疲れているだろう彼を少しでも癒せたらと思っていたし、一緒にいられるだけでよかったから、どこかに出かけることは考えていなかった。 あと数日すればテニスのツアー大会が始まるので、一緒にいられる時間が減ってしまう。ゆえにデートできる時間が取れない事は明確だった。 だから、でかけないかと言われてすごく嬉しい。 けれど、やはり彼の体調が気になってしまう。 「…でも周助、疲れてない?」 深緑色の瞳でじっと見つめてくるに、周助は色素の薄い瞳を細めて微笑んだ。 「昨夜に癒されたから大丈夫だよ」 彼の言葉の意味を悟ったの白い頬が瞬時に赤く染まる。 そんな妻に周助はクスッと笑う。こういうところが年上とは思えないほど可愛い。 「本当に疲れはとれてるんだ。だから心配いらないよ」 周助が言葉を付け加えると、はうんと頷いた。 「一ヶ月以上デートしてないから、今日は絶対にあなたと出かけようって決めてたんだ」 にっこり微笑む周助に、は幸せそうな微笑みを浮かべた。 あなたといる時間 二人が向かったのは、花の美しい庭園公園。 家から車で一時間半程かかる所にあるこの庭園公園は、フランスへ移り住んで間もない頃、二人で訪れた場所だ。 それからもデートで訪れていて、今日で5回目だ。前回来たのは2月末で、スノードロップが一面に咲いていた。 「今年もきれいね」 庭園から周助に視線を滑らせて、彼を見上げながらが嬉しそうに微笑む。 周助は優しく微笑みながら「そうだね」と同意して、彼女の細い肩を抱き寄せた。 緩やかに吹いた風に、鮮やかに色づいた薔薇の花が揺れる。 視界に映るものが薔薇以外ないと言ってもいいほど、赤や白、オレンジや黄色など様々な色の薔薇が咲き乱れている。 香り高い薔薇の花、真っ青な空と白い雲、さわさわと頬を撫でる心地よい風。 手を繋いで庭園を散策しながら、は不意に思った。 考えた事がない訳ではない。けれど、ここでならと思った場所はなかった。 今まで何度も訪れた事があるのに思わなかったのは、色々な事をこなすのに必死だったからなのかもしれない。 今日思ったのは、心に余裕が出来てきたからだろうか。 そうして思う。 周助が隣にいなければ、考える事などなかったに違いない。 自分が思っている以上に、周助を必要としている。 「こういうところで…」 「うん?」 の呟きに周助は首を傾げた。 周助の切れ長の瞳との深い緑色の瞳がぴたりと合う。 「演奏できたら素敵でしょうね」 眩しそうに瞳を細めて、が微笑む。 その笑顔がとても美しくて、周助は色素の薄い瞳を細めた。 薔薇の花に囲まれてヴァイオリンを奏でるは、もっと美しいだろう。 それを独り占めできないのが残念だけれど、それは仕方のないことだ。 繊細な指から生まれる月光のような澄んだ音色は、彼女のファン全ての人たちのものだから。 「そうだね」 周助の言葉に、は花が咲くようにふわりと微笑んだ。 「その時は周助だけに聴いていて欲しいわ」 「えっ?」 柔らかな唇で紡がれた思いもよらない言葉に、色素の薄い瞳が驚きに瞠られる。 「リサイタルとかソロコンサートの音色は来てくださった方へ弾くけれど…」 演奏家じゃない時に奏でる音は全部…周助のものだから。 あなただけに聴いて欲しいの――。 その言葉に、周助の頬が微かに赤く染まる。 彼が照れた顔を見るのは初めてで、思わず小さく笑ってしまう。 いつも素敵な彼も好きだけれど、こういう可愛らしい彼も愛しいと思う。 「…ありがとう、」 すごく嬉しいよ。 細い身体を抱きしめて囁くと、周助はの唇をキスで塞いだ。 「…んっ……ッ」 いきなりの深いキスに、柔らかな唇から甘い声が零れる。 角度を変えて繰り返されるキスにの息が上がった頃、ようやく唇が開放された。 「……は、恥ずかしいじゃない。人がいるのに…」 の抗議に周助は愉しそうにクスクス笑う。 やられてばかりは性に合わない。 「さっきのお返し。あんなに可愛いこと言われたら、我慢できないだろ」 唇の端を上げてフフッと微笑む周助をは睨んだが、真っ赤な顔で睨んでも効果はない。 周助はクスッと笑って、の白い手を引いた。 「そろそろ行こう。遅くなると見られなくなるから」 「見られなくなる?」 「うん。と二人きりで見たいものがあるんだ」 庭園公園から車で30分程行くと、海に出られる。 数日前に見た光景がきれいだったので、と見たいと思って彼女を連れてきた。 遠征から帰る途中、列車から眺めただけの光景を誰よりも愛する人と見たかった。 海岸を散策していると、太陽が傾き始めてきた。 そろそろ、だ。 「、空を見て」 「空?」 「うん、そろそろだから」 周助の言葉の意味がわからなかったけれど、彼の笑顔に何かあるのだとわかって、は足を止めて周助が指差す方へ視線を向けた。 明るいオレンジ色の空が少しづつくすんだオレンジ色に変わり、太陽が沈んでいく時間だというのがわかる。 そして空が藍色に染まり始めたと同時に、雲が黄昏色に染まっていく。 夕暮れから宵になる僅かな瞬間の空の美しさに、は声が出なかった。 海は紫色に染まり、黄昏に染まった空と幻想的とも言える光景を作り出している。 「……すごくきれいね」 しばらくして唇から零れたのは、ありふれた言葉。 美しさを表現できる言葉は色々あるけれど、どんな言葉もこの光景を褒めるには足りない。 「と見たかったんだ」 甘い囁きと同時に、後ろからふわりと抱きしめられる。 その言葉ではわかった。 彼は初めからここに連れてきてくれるつもりだったのだ、と。 もちろん庭園公園がついでということではないのもわかっている。 薔薇の咲き乱れる家で育ったが薔薇をことのほか好きなことを知っているから、連れて行ってくれたのだ。 だから、少し不安になった。 結婚する前も結婚した後も、いつも変わらずに優しい周助に、守ってくれる周助に、何もしてあげられていないのではないか。 一緒に過ごすこと。 それが本当に彼の癒しになっているのか不安になる。 「?」 反応のない彼女を訝しげに思い、周助は抱きしめる腕を解くとの細い身体をくるりと反転させた。 そして俯き加減のの顔を覗き込む。 「どうしたの?」 「…私…周助になにもしてあげられてない」 消え入りそうな小さい声に、周助の色素の薄い瞳が細められる。 「どうしてそう思うの?」 「だって…周助はいつも私にくれるのに、私は周助に何もできてない」 彼女の言葉に周助はふぅと溜息をついて、しなやかな指での顎を捕らえ顔を上げさせた。 すると思った通り、深緑色の瞳が水面のようにゆらゆら揺れて、今にも泣き出しそうな顔をしている。 「僕はといる時だけ、すごく安らぐんだ。この意味わかる?」 そして周助はの答えを待たずに続けた。 「にしか僕を癒す力はないんだよ。世界中でだけが、僕を癒すことができるんだ」 「周助…」 の存在だけが僕を支えて、そして癒してくれるんだ。 だから不安にならなくていいよ。 ぎゅっと抱きしめられ囁かれた言葉に、は周助の腕の中で小さく頷く。 が周助を見上げると、彼は優しい瞳で微笑んでいた。 優しい微笑みに、どきんと心臓が跳ねる。 「愛してるよ、」 「私も…周助を愛してる」 そう言って微笑むに周助は幸せそうに微笑んで、柔らかな唇に甘くて熱いキスを落とした。 黄昏色に染まる空が完全なる藍色に変わり、抱き合う二人の姿を包み込んでいた。 Fin. Thank you for the Fifth Anniversary. 2007.06.18 Anjelic Smile / Ayase Mori BACK |