窓ガラスがカタカタと音を立てている。
 室内は暖房が効いていて過ごしやすい温度になっているが、外は木枯らしが吹いていた。

 今日は仕事納めの日で、退社時間が近付いていた。
 そのためか、いつもより皆がそわそわと落ち着きがないように見える。
 かく言う自分もそうなのだが、は口元を僅かに上げて微笑した。

 退社時間になると一人また一人と上司や同僚に挨拶を済ませ、帰宅していく。
 も例に洩れず帰り支度をしている所だった。

 名を呼ばれて振り向くと、グレイのスーツを着たの同僚が立っていた。
 緩くウェーブのかかった胡桃色の髪は肩より少し長めで、髪と同じ胡桃色の瞳を持つの親友であるめぐみだ。
「めぐみ?なにかあったの?」
 いつも明るい笑顔の親友が困った様子をしているのに気がつき、問いかける。
「ちょっと相談があるの。いい?」
「え、ええ。構わないけど」
 一体どうしたというのだろう?
 たいてい相談をするのはの方で、めぐみは相談に乗ってくれることが多い。
 今まで相談事をされなかったわけではないが、それにしては深刻そうな顔をしている。
 よほど困ったことがあるのかもしれない。

 上司と同僚たちに挨拶を済ませた二人は職場を出て、駅前から少し離れた場所にある喫茶店へ足を運んだ。
 会社の近くにはよく利用する喫茶店もあるし、駅前にもいくつか喫茶店がある。だがどの店も人の出入りが多く、落ち着いて話のできる店ではなかった。
 今いる喫茶店は大通りから外れており、人の出入りは激しくない。更にテーブルとテーブルが離れており、静かなクラシック音楽がかかっているので、隣の席の会話はさほど聴こえない。
「実はね、相談っていうか…お願いしたいことがあるの」
 カップに入ったブレンドコーヒーをスプーンで混ぜながら、めぐみが言った。ミルクの白とコーヒーの黒が混ざり、マーブル模様が出来ていく。
「お願いって、私に?」
 突然のことに驚き、は口元にカップを運んでいた手の動きを止める。
 めぐみとは高校時代からの友人だが、お願いをされたことは片手で足りるほどしかない。彼女はお願いをするよりもされる側が多いことが理由のひとつだ。
「うん。にしか頼めないの」
 真剣な瞳で言われて、は暫しの沈黙のあと頷いた。
「私でできることならいいわよ」
 大事な友人が困っているのを見て放ってはおけない。
 けれど、お願いされてもできる事とできない事がある。
「ごめん、言い方が悪かったわ。どうしてもって事じゃないのよ。話を聞いてがいいと思ってくれたらでいいの」
 困ったように微笑むめぐみには訝し気に首を傾けた。
 お願い事で自分にしか頼めない事で、引受けても断ってもいい話。
 皆目見当がつかない。
「私の叔父が宮司をしてるのは知ってるでしょう?」
「ええ、隣街の八幡様の…だったわよね」
「そう。その神社でね、年明けが忙しいから毎年バイトを雇っているの。それでね、採用が決まった人が二人辞めてしまったらしくて、欠員が出てしまったのよ。今日は27日で元旦までもう日がないし、新しい人を探している時間がないでしょ。私が手伝うとしても、あと一人足りないの。だから、に頼めないかと思って。期間は元旦から三日まで、バイト料も出るわ。…どうかしら?」
「いいよ。引き受ける」
「ホント?」
「うん。特に予定もないからいいわよ」
「ありがとう、




 聖夜の恋人 〜 meet again 〜




 柔らかな太陽の光が空から地上へ降り注ぐ。
 けれど、こう寒くては温かいとは言えない。
 元旦から晴天に恵まれるのはよいことだと思うが、寒いものは寒い。
 身体を動かしていれば温かくなるだろう。10分程前までは、そう思っていた。
 しかし―――。
、そういう格好も似合うね」
 めぐみは背中の中程まである長い黒髪を緩やかに束ね、白い着物に赤い袴姿の親友を見つめた。
 成人式や大学の卒業式などで親友の着物姿を何度も見ているが、は和装がよく似合う。
「そう? ところでめぐみ」
「なに?」
「あなたは着ないの?」
 参拝者が増えてくるから準備をして欲しい。
 そう言われて、はめぐみに八畳ほどの広さの部屋に連れられてきた。
 そして、めぐみが着替えてと言うので、差し出された着物に袖を通した。
 彼女も巫女装束を着るものと思っていたから、何も言わなかったのだが、着替えてみれば巫女姿なのは自分だけだった。
「私は裏方だから」
「私も裏方だったはずよね?」
「私も努力はしたのよ?でも、あのコすごいんだもの」
「確かにアレはすごかったけど、巫女は私でなくてもいいんじゃない?」
 先程、すれ違い様に見た少女のことが脳裏に浮かぶ。
 面接の時はごく普通の女子高生が当日になったら金髪になっていて、それを注意された少女は、怒鳴り散らして帰ってしまった。
 その場にいた人々は唖然とし、人員が減ったことに溜息を零していた。
 数日の間に何があったのかは不明だが、それよりも札やお守りを授与する巫女が減ってしまったことの方が問題だ。
「私は髪が短いし茶色いから巫女さんは似合わないのよ。でも、は長い黒髪だし、和装が似合うし、ぴったりだと思わない?」
「全くもう…」
 胸の前で指を組んでお願いと縋るような瞳をされたら、引き受けるしかない。
 それに、めぐみが和装を苦手なことも知っている。
 巫女装束なんて一生のうちに着る機会はこの先ないかもしれないし。


「破魔矢を1本と交通安全を2つお願いします」
「破魔矢1本と交通安全2つですね。2300円お納めください」
 参拝を終えた人たちが社務所で破魔矢やお守りを求めにくる。
 お守りの種類や色が多くて大変だが、昼過ぎになってようやく慣れてきた。
 隣の人が神社の巫女で、混む前にテキパキと色々教えてくれたからだ。
さん、交代します」
「ええ、お願いします」
 大学生くらいの女性と仕事を交代して、は社務所を出た。
 本堂の裏手にある離れが休憩室になっている。
 多くの人で賑わっている境内を歩いてそこへ向かっていると、小さな鳴き声が聴こえた。
 は足を止めて、耳を澄ませた。
 もしかして迷子?
 境内の隅で泣いている男の子がの瞳に映った。
 回りの人は遠巻きに男の子を見ているだけで、声をかけようとはしていない。
「どうしたの?」
 視線を男の子と同じ高さにして、優しく声をかけた。
 すると涙に濡れた大きな瞳がを捕らえた。
「…っく…いない、の…」
 は涙を堪えて懸命に言葉を紡ぐ男の子の頭をそっと撫でた。
「名前はなんていうの?」
「……じゅんや」
「じゅんや君ね。ここへはパパとママと来たのかな?」
 そう訊くと、小さな頭が横に振られた。
「おにいちゃんとおにいちゃんのともだち」
「そっか。お兄ちゃんと来たのね。お兄ちゃんの名前はなんていうの?」
「えいじ。ほっぺにばんそうこはってるの」
 頬に絆創膏を貼ってる【えいじ】っていう名前の人、ね。
 小さな男の子を連れてくる位だから、中学生か高校生くらいかしら。
 デパートとか海じゃないから、アナウンスで迷子のお知らせなんてできないし。
 探すしかないわよね。
 でも、迷子になったら動かない方が見つけやすいわよね。お兄ちゃんの友達も一緒ってことは、手分けしてじゅんや君を探してるかもしれないし。
「お兄ちゃんがじゅんや君を探してくれてると思うから、一緒にここで待ってよう?」
 参拝者の列から離れた所にいるし、巫女姿の隣に小さな子というのは目立つだろう。
「おにいちゃんきてくれる?」
 首を傾けて不安そうに言う男の子には優しく微笑んで。
 うん、と頷いた。
「もちろんよ。だから、お姉ちゃんと待ってよう?」
「うん…あっ」
 頷きかけて、男の子が声を上げた。
 男の子の視線を追うと、ベージュのコートを着た男性がこちらへ走ってくるのが瞳に映った。
「え…」
 瞳に映った人影にの呼吸が止まる。
 あの人はあの日―――イヴの夜に一緒にいてくれた人。
 もう逢うことはないと思っていた。
 あの日の出来事は聖夜の贈り物だったと思い、忘れようとしていたのに。

 優しい声と穏やかな笑顔
 甘いキスと熱い抱擁
 忘れられると思っていたのに
 それなのに

…」

 幻じゃない。
 空耳じゃない。

「周助……あなたが保護者?」
 口にしたい言葉を全て飲み込んで、は不二を見つめた。
 見られている。それだけで心臓が跳ねて、身体中が熱くなる。
 そんな自分を理解していながら、冷静に振る舞おうとした。
「どっちかと言うと、僕は保護者の連れかな?」
「あ・・・」
 言葉の間違いに気付き、の口から小さな声が漏れた。
 男の子の兄の名前は『えいじ』。
 周助は『えいじ』という人の友達だ。
、もう少し純也君を見ててくれる?英二に連絡するから」
「え、ええ」
 の動揺とは反対に、周助は落ち着いている。
 あの時のことを成りゆきだった。それで忘れようとしているのだから、周助が忘れていても責められない。
 …バカみたい。私が言ったんじゃないの。

 ――今日のことは忘れて

 自分で言った言葉を思い出し、はそっと溜息を吐き出した。
 その仕種は周助の視界の隅にしっかり映っていたが、はそのことに気がついていなかった。
「……うん、真横だよ。そこで待ってる」
 電話を終えた周助は、男の子の頭をぽんぽんと優しく叩いて微笑んだ。
「もうすぐ英二が来るよ」
「うんっ! あれ?おねえちゃんどこいくの?」
 そろりと逃げるように踵を返そうとすると、高い声が耳に届いた。
「おにいちゃんがきてくれるまでいてくれるって」
「……」
「いてくれないの?」
「ううん、いるわ。お兄ちゃんが迎えにくるまで」
 今にも泣き出しそうな顔で言われて立ち去ることなどできない。
 周助の真っ直ぐな視線が熱くてどうしようもなくて、逃げたかったけれど。
「寒い?」
 穏やかな声が耳に届いたと同時に、ふわりと周助の香りに包まれる。
 温かなぬくもりのするそれは、彼が着ていたベージュのコート。
「僕は寒くないから」
 色素の薄い瞳を細めて、周助は優しく笑う。
「ダメよ。あなたが風邪引いちゃう。私は寒くないから」
 そう呟いた柔らかな唇に、長い指が優しく触れる。
は嘘つきだね。唇がこんなに冷たいじゃない」
「でも、本当に平気よ」
「僕が抱きしめて温めてあげる方がいい?」
 そう言った周助の瞳も口元も、少しも笑ってはいなかった。
 本心から言っているのだろうか。
 だとしても、頷けるわけがない。
「……そういうことは好きな人に言うものよ」
 呟いて、は瞼を閉じる。
 泣いてしまいそうになる。けれど、こんな所で泣くわけにはいかない。
「えいじにいちゃん!」
 二人の会話を遮るように男の子が大きな声を出した。
 頬に絆創膏を貼った男性がこちらへ走ってくる。
「純也!不二!」
「英二。早かったね」
「うん、全力疾走してきたから。 迷惑をかけてすみません」
「え?いえ。見つかってよかったです。じゃあ私はこれで失礼します。 純也君、お兄ちゃん来てくれてよかったね」
「うん!おねえちゃん、ありがとう」
 男の子の声に笑顔で答え、は周助へ視線を向けた。
「ありがとう、周助」
 コートを脱いで周助の手に渡し、は周助と目を合わせることなく走り去る。
「仕事中だったのかにゃ?悪いことしたなあ」
 申し訳なさそうに眉を顰める菊丸の耳に、周助の切羽詰まったような声が届く。
「ごめん、英二」
「ほえ?」
「急用ができたから先に帰らせてもらうよ」
 言うが早いか、周助はコートを手にしたままのあとを追って走り出した。



 早く離れなきゃ
 一緒にいたらもっと好きになる
 これ以上好きになってしまう前に
 早く――

!」
 僅かに走って本堂の裏手まであと少しという所で、腕を掴まれた。
 参拝者や関係者の姿はなく、いるのは二人だけ。
「離して…」
「嫌だ。離したくない」
 掠れた声が耳に届くと同時に背中から周助に抱きしめられていた。
 薄れていた感触がの身体に甦ってくる。
 男性にしては細めな身体なのに、見た目以上に強い力。
「お願い…離して」
「逃げないって約束してくれるならいいよ」
 囁かれて、抱きしめている腕の力が僅かに強くなった。
 「い…言ってることとしてることが違うわ」
「そうだね。でも僕はを離したくないんだよ」
 周助の身体が僅かに離れたと思った瞬間。身体の向きを変えられて、彼と向かい合う形になった。
 周助の腕は逃がさないと言うかのように、の細い腰に回されている。
「わ、忘れてって言ったわ」
 熱い視線から逃げるように、は視線を逸らした。
「僕は承諾してないよ」
「…ただの……なりゆきだわ」
「僕は君が成りゆきで好きでもない男とキスできる人だと思っていない。あの時は本当にが愛しくて、が欲しいと思った。だからキスしたんだ。僕は好きな女性にしかキスしないし、したいと思わない。それでもなりゆきなの?」
「…周助」
 なりゆきのキスじゃないって信じていいの?
 あなたを好きでいていいの?
「僕が欲しいのはだ。君しかいらない」
 真剣な眼差しに、の頑なだった心が溶けていく。
「あなたが……周助が好き」
 黒い瞳の縁に涙を溜めて、は周助を見上げた。
 優しく微笑む彼が瞳に映る。
「好きだよ、
 ほのかに赤く色付いた頬を大きな手で優しく包み込む。
 甘いキスを柔らかな唇に落とした。
 角度を変えて何度も繰り返されるキスに、身体から力が抜けていく。
「…んっ…しゅ、…誰かに見つかっ……」
「大丈夫、誰も来ないよ。だから」
 もっと君に触れさせて――。
 囁かれた言葉は熱く、触れる唇は言葉以上に熱い。
 与えられる熱に思考を溶かしながら、は潤んだ瞳で周助を見つめた。
「……離さない、で…」
「離さないよ。約束する」
 潤んだ黒い瞳を見つめて囁き、細い身体をぎゅっと抱きしめる。
…君をこうして抱きしめたかった」
「周助…」
 甘えるように胸に顔を埋めるに周助は愛おしそうに瞳を細め、耳元へ唇を寄せる。
「僕は独占欲が強いから覚悟してね?」
 は瞳を瞠って不二を見上げた。
 頬を赤く染めて頷くと、フフッと笑う声がして、甘くて蕩けるようなキスが唇に降りてきた。


 新しい日が始まる今日から、二人の新しい日を始めよう。

 来年も隣にいるのがあなたでありますように――。




END

BACK