「―どうかした?」
その言葉に私はハッと我に返る。
ふと気がつくと、隣で雑誌を読んでいたはずの最愛の恋人・周助が私の顔を覗き込んでいた。
私の心の内を敏感に感じ取って心配してくれている…
そんな周助の優しさが嬉しくて、愛しくて…でも、複雑な思いに胸がズキンと響いた。
いつもすぐ傍にいて、優しさと安心をくれる周助に、つい縋り付いて泣きそうになってしまうのをぐっとこらえて…
私は精一杯の笑顔を見せた。
- Resolution -
春休みに入って間もない週末の今日、久し振りに周助が私の部屋に来ていた。
普段から部活やテニスの練習で忙しい彼の、つかの間の休息の時だった。
1DKの狭いマンションの部屋で、お互いに好きなことをしながら、時折話を交わす。
そんなふうに何気なく、私と周助はただ一緒にいる時間を楽しんでいた。
周助と2人で過ごす時間は、なにも特別なことなどなくても夢のような時間だった。
まもなく新学期が始まると高校3年になる周助は、既に国内のテニスの大会での
経験もかなり積んでいて、そろそろプロ宣言をしようかという、大事な時期を迎えている。
そう…。
周助の将来を決める、大事な時期。それなのに…
どうして今、なんだろう…。
「ううん…なんでもない。ちょっと考え事」
笑顔で首を振って、私は周助の肩に頭を預けた。
「…そう」
周助はそれ以上何も言わずに、そっと髪を撫でてくれた。
そして、黙ったまま私の顔を覗き込むようにしてじっと見つめる。
周助のキレイな瞳に捕らえられて、吸い込まれていきそうな感覚に眩暈がして。
たまらなくなって瞳を閉じたら、唇に温かいものが触れた。
“なんでもない”なんて、どうして言ってしまったんだろう。
たとえ今、そう言ってごまかしてみたって、周助がすでに私の心の中にある不安を
感じ取っていることくらい、わかりすぎるほどわかっているのに…。
遅かれ早かれ、周助には話しておかなければいけない。
それも、わかっているのに。
…だけど、どう言えばいいっていうの?
私自身ですらまだ現実を受け入れるどころか、実感さえわいていない。
夢だったらどんなにいいだろうって、心の中で必死に足掻いてる。
だって、現実として考えるなんて、悲しすぎるもの。
――この4月から、大阪へ転勤、だなんてこと。
転勤の内示が出たのは数日前のことだった。
思いも寄らなかった突然の出来事に、私の心は掻き乱された。
もちろん、独身の総合職の社員であれば年を経るごとに転勤の可能性が
高くなることは承知の上…のつもりだったけど。
こんなに早く…しかも、大阪へだなんて…
もし嫌だと言えばそれは即ち、会社を辞めるということ。
それは会社で働く一社員として、当たり前のことだとわかっている。
だけど…
大阪は遠い…
遠すぎるよ……
「周助…?」
「なに?」
こんなに傍にいて、名前を読んだらすぐに答えてくれる周助の存在は大きすぎて…
このまま離れ離れになるなんて、きっと私には耐えられない…
ずっとこのまま傍にいたいよ…
でも、その望みはもう、叶わない。
もし会社を辞めて周助の傍にいることを選んでしまったら、
私の人生を周助に押し付けることになってしまいかねない。
まだ高校生で、将来を決める大事な時期の周助に対して…
そんなこと…
できる道理がないよね。
「ねえ、私のこと、好き?」
「…え?」
周助は驚いたように瞳を見開く。
そして、すぐににっこりと私を安心させるように微笑んだ。
いつも…この笑顔に私はどれだけ救われてきただろう。
この優しさの詰まった笑顔が、私にだけ見せてくれるものなのだと知ったのは、いつだっけ。
「好きに決まってるだろ?どうしたの?突然。
らしくないね」
「ふふ…ごめん。周助のそんな表情が見たかったの」
「そんなって…驚いた顔ってこと?」
「驚いた表情もそうだし、その笑顔も。なんだか安心する…」
「
…?」
「こうして…ずっと周助と一緒にいられたらいいのに」
フッと周助の表情が曇った…と思ったら、次の瞬間、私は彼の腕にしっかりと抱きしめられていた。
耳元で、優しくて甘い…宥めるような声がする。
「やっぱり何か、あったんだ?」
「……」
「仕事で?」
「……」
苦しくて、胸が痛くて、何も言えずにいると…今度は額に、そして頬に周助の唇が触れた。
「…ん…」
「言ってくれなきゃわからないよ。何か悩んでるなら…」
「…私…」
「ん?」
「桜…見に行きたいな」
「…桜?」
「―それじゃ、行こうか」
…突然の、ワガママとも言える私の言葉に、周助は何も聞かずに笑顔でそう言って…
そしてそのまま私の手を引いて、近くの公園まで連れて行ってくれた。
マンションから歩いて2,3分のところにある、10m四方くらいの小さな公園。
そこには大きなソメイヨシノの木があって、少し遅めに咲き始めた花がまさに見頃を迎えていた。
「わぁ…いつの間にか、もう見頃になってたんだね」
「ああ、綺麗だね…カメラを持って来ればよかったな」
「そういえば、今年はお花見もまだだったよね?」
「フフ…そうだったね」
昼間は子どもたちで賑わうこの公園も、夕暮れを過ぎたこの時間にはもう、誰の姿もない。
私と周助は、仄かな街灯の明かりに照らされて零れんばかりに咲き誇る美しい桜に
しばし目を奪われていた。
「…ねえ、覚えてる?」
私の問いに周助はふわりと微笑んで、頷いた。
「同じだね。初めて会った時も、こんなふうに咲いていた」
「思い出すなぁ…あの時周助に出会ってなかったら、私、今頃どうしてただろう?
そう考えると、なんだか不思議よね」
「クスっ…
は不思議だと思うんだ?」
「そう、なにも接点なんてなくて、普通なら出逢うことなんてないかもしれない周助と、こうして出逢えて、
しかも付き合っているなんて…なんだかとても不思議だなって思うの」
「桜に導かれて、僕と
は出逢った。桜が僕たちを引き合わせてくれたのかもしれないよ?」
「そうなのかも…桜は私たち2人の大切な思い出の花、ね?」
「そうだね…」
ふと、周助の顔から笑顔が消えて、そっと開かれた淡い色合いの瞳に美しい桜の花が映る。
そして、周助の視線が桜から私へと移り…美しい瞳には、今度は迷いを隠せない、
情けない表情の私が映し出された。
今の私は、周助に見つめられるとどうしていいのかわからなくなってしまう。
なにをどう、話せばいいのか…それとも…。
周助は私を見つめたまま、スッと右腕を目の前に差し出した。
そして、おもむろにシャツの袖を捲りはじめる…。
袖の下から徐々に姿を現わすのは、滑らかで細い、それでいて逞しい…よく鍛えられた周助の腕。
私の好きな周助の腕だ。
時にはラケットを握って力強く球を打ち返し…
そして時には優しく私を抱き寄せてくれる…
そんな逞しくてあたたかい、周助の腕。
じっと見つめていると、突然、グッと拳が握り締められて。
そして、静かに周助が口を開いた。
「僕は、いずれ…」
「え?」
見上げると、周助は私をじっと見つめていた。
その瞳の真剣な輝きに、私の心臓はドキドキと音を立て始める。
「この腕で
、君を誰より幸せにする自信がある」
「周…助?」
「たとえどんなことがあったとしても、僕は
を離しはしないし、ずっと守り続ける。
もしも…例えばの話だけど…少しの間、離れ離れになることがあるとしてもね」
「周…どう…して…」
「だから、
は…いつだって君のしたいとおりにすればいい。心配は要らないよ。
僕は君がどんな道を選ぶとしても、変わらず君を守るから」
周助の言葉が、その真剣な眼差しが嬉しくて…私の瞳からは涙が溢れた。
どうして…大切な時に、ちゃんと、欲しい言葉をくれるんだろう。
どうして…いつもこんなふうに私の全てを包み込んでくれるんだろう。
私の方が年上なのに、どうして…?
そう、周助は…
たとえ私が道に迷ってしまっていても、ちゃんと見つけ出して、手を引いて導いてくれる。
周助は私にとって、なくてはならない人なんだと…痛いほど感じた。
「
…?」
「どう…して…?」
「
が何を悩んでいるのか、はっきりとはわからないよ。だけど…顔を見てたらなんとなく、ね」
「私…どうすればいいか、わからなくて…」
私は周助に、転勤の内示が出ていることを話した。
大阪になんて行きたくないっていう気持ち
周助と離れたくないっていう気持ち
そして、いっそ会社を辞めてしまおうかと考えていることも。
周助は黙って私の話を最後まで聞いてくれた。
そして、話を終えて泣きじゃくる私を安心させるように、強く抱きしめてくれた。
「
が思うとおりにしたらいいよ…
の正直な気持ちは?
はどうしたい?」
耳元に、周助の優しくて穏やかな声が響く。
私の思うとおりに…?
自分の正直な気持ち…?
私…私は…
「私は…周助がいてくれないとダメ…なの…」
「
…」
「だから…何もかも捨てて…周助の傍に…いてもいい?」
「ああ、もちろん。僕だって、
にはずっと傍にいてもらいたい。傍にいて、僕を助けて欲しいとも思ってる」
「このまま次の仕事が見つからなくて、足手まといになるかもしれないよ?」
「…足手まとい?
が僕の?」
周助は、可笑しそうにクスクスと笑った。
「そんなこと、あるわけないだろ?心配しなくてもいい。
を守るって、僕はさっきそう言ったよね?」
「でも…周助は…」
「僕は守れない約束はしないよ?それに…」
「それに?」
周助は、今度は少し照れたように笑った。
そして、もう一度耳元に口を寄せてきて、囁いた。
「本当はホッとしてる。僕のほうこそ、
がいないとダメなんだよ…」
私と周助は、お互いに顔を見合わせてクスクスと笑いあった。
空を見上げると、春風がふわりと吹いて、桜の花びらを運んできた。
まるで楽しげに微笑っているように舞い踊る桜の花びらを見ているうちに、
今まで悩んでいたのが嘘みたいに思えた。
仕事よりも、自分自身よりも大切なものが、私にはある。
それは、この世のどんなものにも変えられない、大切なたった一人のひと。
“不二周助” というひと。
彼がいつも傍にいて、私を守ってくれるように、
私も彼の助けになりたいと…
一生かけて彼を守っていきたいと…
心からそう思った。
fin
“Les heureux moments”
50,000 counts Memorial Dream
Thank you so much !!
by Nao Matsuno
2005.4
【Les heureux moments】様、50000Hits Over記念作品を
松野なお様より頂いて参りました。
優しさと強さを兼ね備え、ふんわりと気持ちごと包んでくれる周助くんが素敵ですv
小さな不安をふわっと癒してくれる、幸せなドリームをありがとうございました。
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