「……あぁ、いいよ」 「え? そうなんだ。 分かった、ありがとう」 「うん、応援嬉しかったよ……」 電車はごとごと揺れ、一秒ごとに東京から離れて行く。 車窓は長閑な景色へと変わり、停車する駅の間隔も長く変化する。 それでも脳裏にとめどなく浮かぶのは、大好きな人と彼と取り巻く女の子たちの絵だ。 Temptation 「……着いた」 鞄の中から取り出したICカードの残高が足りるのか少し不安になるほど、私としては長い往路だった。 財布に挟んだ水族館のチケットは二枚。 有効期限にはまだ余裕はあるけれど、今日を逃せば恐らくその日付を越えてしまうだろう。 「ごめん、明日の事なんだけど……」 「うん、聞いた。 菊丸くん達がお休みなくなったって、ぼやいてたから」 「現地解散になると思うから」 「いいの。 不二くん、明日は試合と……終わってもゆっくりして」 「え?」 「……試合、頑張ってね。 私は大丈夫だから、ね」 デートの予定をしていた日曜日は、あっけなく練習試合で流れしまった。 今は全国大会に向けて集中すべき時期だし、父親が勤務する企業経由で貰った招待券の話をした時も、半分は無理と思ってのことだった。 なのに、是非同行したい、何より私と一緒に遠出をしてみたいと微笑んでくれた不二くんに、私はすっかり期待をしてしまった。 破る約束をしない主義の不二くんなら、軽い気持ちで快諾したわけではないことも分かっている。 この程度で拗ねていたら、テニスと学業を両立する不二くんの彼女で居る事は無理だし、これまでも似たような事は何度か経験をしている。 けれど 。 「もう潮時なのかも……」 不二くんと親しくなってから、私たちは喧嘩という喧嘩はしてこなかった。 彼は声を荒げる人ではないし、私も不二くんに対して腹を立てるような出来事もなかったからだ。 唯、最近富に彼は騒がれる事が多くなった。 テニス選手として頭角を現した地区大会から、他校の偵察も執拗に増えたし、テニス雑誌に記事が載りもした。 それに伴い、不二くんの周囲には以前より女の子の姿が目立つようになった。 不二くんはむやみに愛想を振りまく人ではないけれど、用事があって掛けられた声に対して冷たくあしらうようなことはしない。 故に、記念トークのつもりが、そのまま不二くんに纏わりつくような……そう見えてしまう私も嫌なのだけど。 そんな場面はもう日常として当たり前の風景にもなっていた。 「どったの、不二?」 「あ。 いや、」 「心配ないと思うよん」 「え?」 「俺と大石が出るからさ、ダブルス。 でもって今日は不二、敢えてシングルス3だって聞いたよ」 「……え」 「ダッシュで行けば間に合うって! 待ってるんでしょ? 彼女」 含み笑顔に僕は二度、疑問符を返すことになった。 「英二……」 「昨日大石たちと寄り道したらさ、ぼーっと歩いてたちゃんに会ったんだよ。 にゃんかあったなぁーってさ。 ……携帯に出てくれないの?」 集合がかかる直前、もう昨夜の電話から途絶えたままだったメールを確認した所だった。 なしのつぶてのの状況に僕は周囲には気づかれないように、小さく息を吐いた。 ところがそのタイミングで声が滑り込んできた。 英二は、遠慮気味ながら僕の懸念を言い当てていた。 「我慢強いからにゃぁ、ちゃん」 「英二には、そう見えるんだ?」 「んまぁ。 それなりに? 不二絡みで相談受けた身としてはね。 いやいや、別の女の子からだよ、ちゃんはそう言うの言わないよ。 で、ちゃんってさ、不二と話したあと、必ずほっとするような顔するじゃん?」 「……英二、」 「そういう子、って根っから”いい子”なんだって!」 「……」 「へへん。 これは俺の彼女からの請売りだけどねん」 「シングルスよろしくにゃ!」と僕の肩を叩き、相棒の大石のもとへ駆け寄った英二の後方の青空が目に入る。 快晴の休日。 「絶好のデート日和だわ」と、そう出がけに態と僕の耳に届くように母親と話していた姉さんの遠巻きの忠告を思い出す。 「わかってるさ、僕だって……」 僕はもう一度送信ボタンを押し、携帯をしまい、代わりにラケットを掌に乗せた。 ”断ち切る”べきボールを取捨選択することは、別にテニスに限ってのことではない。 風の流れを確認するために顔を上げると、追い風は海の方から吹いてくるような気がした。 「いらっしゃいませ、お1人様ですか?」 「はい、……あ、」 エントランスで従業員にさり気なくチケットの提示を尋ねられた。 頷き差し出そうとしたチケットが風を含み波を打った。 二枚の所持であることを見た白い手袋を纏う指先の動きが止まる。 「お待ち合わせですか?」 「……いえ、」 何とも言えぬ空気が流れた。 俯いた私は自ら”デートをすっぽかされた可哀相な中学生”と暴露しているようなものだ。 「少し、お待ちになりますか?」 「いえ、来る予定はありませんから……」 不覚にも涙が出そうになった。 何て弱虫だと私は自分で自分がほとほと嫌になる。 こんな惨めな気持になる事も分かっていた筈なのに。 それでも今日ここに1人でやって来なければ、私はまたずるずると、不二くんを”待つ”ことになってしまう。 そうならない為に……不二くんと”さようなら”をする為に、私はこの場所を選んだのだ。 憎しみや嫌悪はない。 でも、私はもう……。 そう秘めたる決意を胸に、私は腹部に力を込め顔をあげた。 その時だった。 「あ、すみません! それ一枚、俺です」 別のグループへの声かと思ったそれは、入館を躊躇している私と、そんな客に手をこまねいている従業員へ向けての発言だった。 視界に突如割り込んできた存在に、私は驚きのあまり声がひっくり返りそうになった。 「間に合った! どこかで見かけた姿だなって思ってね。 やっぱりさんだった」 「…………あの、」 「一度会ってるよね? 佐伯だよ。 ここ、俺たちの地元だから。 道案内くらいならできるよ」 「どうなさいますか?」と続いた従業員が一番安堵した表情だった。 状況を全て飲み込めないままも、そうするのが得策だろう。 私は「どうぞ」と佐伯くんへ、彼を招待するかのように呟いた。 「それで今日は……何を見に来たのかな」 「え」 「あ、知ってる? ここのイルカショー。 なかなか見ものなんだよ。 最前から3列目位まではビニールを被らないと全身びしょぬれになるしね」 「そうなの?」 「臨場感なら、都内のそれより断然こっちだね」 流暢な解説をする佐伯くんは、順路に従い水族館の魚たちを案内してくれる。 去年の夏の大会で青春学園と対戦した際、不二くんから紹介された”千葉に居る幼馴染”は、驚くほどに視力がいいらしい。 さっき、遠くからでも私を思い出してくれたのは、彼の記憶力も良好だからだろう。 イルカショーの会場へ抜ける為に、一旦外へ出ると、太陽が青い視界を輝かせるように眩しく君臨していた。 順路に従うと、サラサラの砂に足を取られそうになる。 「手、貸そうか?」 「だ、大丈夫。 凄いのね、ここ。 広いし」 「土地だけはあるかなぁ。 田舎って言いたいんだろう?」 ジョークの上手い佐伯くんの調子に、私は小さく笑う。 佐伯くんは「正直で宜しい」と言い、破顔する。 彼が私に触れたのは、幼子を褒めるような仕草。 頭の上に落ちてくる掌の角度に慣れていない私は、変な声が上がりそうになった。 ぽんぽん、と二度受けた衝撃と同時、佐伯くんは目を細め微笑んだ。 彼が不二くんの笑顔に被る。 ……長い間、私は不二くんだけを見つめて来たのだと、そんな事を改めて思う。 「さしずめ今日は試合? 急に予定を蹴られてしまった、ってところかな」 「……」 「こんなところにさんみたいな女の子が一人出来たら、危険だろ。 不二が認めるとは思えないからさ」 「……佐伯くん、」 視力、記憶力に加え佐伯くんは”洞察力”にも長けているらしい。 流石不二くんのお友達……と、冗談にしきれない私は再び曖昧に笑うしかない。 流れてくる潮風と少しの埃臭さに、妙なリアリティを実感する。 「ねぇさん」 「はい」 「言っていいかな」 「え、何を?」 「不二のこと……やめちゃえば? で。 俺にしておけば?」 水族館に隣接する浜辺の先。 青い海を眺めつつ歩いていた佐伯くんが、足を止めた。 こちらへと身体を向けた彼の目は、笑ってはいない。 「顔で笑って心で泣いて。 そんな事ばかりじゃない? 最近。 いや、不二と付き合ってからずっと」 「……」 「さんと不二が好き合ってることくらい、外野の俺にも分かるよ。 でも、だったら……」 なんとなく次の言葉の予測がついた。 どうしてそんな顔をするのだ。 どうしてもっと幸せそうに出来ないのか。 「俺は、」 「佐伯くん!」 「何?」 「……貴方に……言われることじゃ……ないわ。 ごめんなさい、でも……私は、」 絞り出すように、でも自分でも意外なほどにその言葉は声として口から飛び出していた。 「ご親切をありがとう。 ここの水族館来たかったのは本当だから。 不二くんと一緒なら尚良かったんだけど……」 「俺で悪かったね?」 「違うの、そうじゃなくて」 「……誘惑したくなったんだ」 「え?」 「余りにキミが……さんが不二の奴を想ってるからね。 役に立つつもりが少し……邪魔したくなったよ」 苦笑する佐伯くんは、いつもの彼に戻っていた。 聡明な所が不二くんに似ているとも思う。 「自分で決めてやってきた癖に、いざとなったら意気地がなくて、足が竦んで」 「そうだな。 酷く心細そうな後ろ姿だったよ」 「佐伯くんに助けてもらえて……感謝しています」 頭を下げた私に降ってきた二度目の掌の感覚は、肩へのものだった。 「顔、上げて」という声は、とても優しい。 「別に俺も。 親友のからの依頼だけでここまでダッシュするほど、お人よしではないさ」 「……佐伯くん?」 「キミをこのあたりの不良から守ってやらないと! なんて思っちゃったよ。 格好つけたくなったんだ」 「……」 「時間だ」 「え?」 「ちゃんと話しあってさ。 それでも駄目で、その先でもしも俺を思い出したら……なんてこれはオフレコ、いいね」 腕時計を確認した佐伯くんは「もうすぐ来るよ」と、後方を向いた。 水色の中に、見慣れたテニスウエアの白色が浮かび、私は幻想かと瞬きをした。 けれどそのシルエットは颯爽と近づき、次第に青と赤に縁取られたSEIGAKUの文字も判別できる距離になった。 「……」 「不二……くん、」 夕べも電話で話をしたのに。 学校でなら毎日顔を合わせているのに。 私たちは久しぶりにお互いを見つめているような感覚に陥った。 咳払いをした佐伯くんに、不二くんが我に返る。 佐伯くんは満面の笑みを零した。 「次はテニスコートで会おう!」 「うん、……そうだね」 「さんも。 今度は俺の応援も宜しく!」 「……えぇ、」 背を向けた佐伯くんは、不二くんが登場したよりも速いスピードで去っていった。 彼の姿が見えなくなるのを待ってから、不二くんは私の手を取った。 「ちょっと残念」 「……え?」 「僕を待っている、って雰囲気感じなかったけど。 はすっかり僕の事、忘れてた?」 「そんなこと……っ」 「ふふ。 楽しかったんだね。 佐伯は優しかった?」 「それは、うん、そうだけど」 「口説かれた?」 「え?!」 「……」 「……分からないわ。 アドバイスは貰ったけど」 「そう、」と不二くんは再び佐伯くんが歩いて行った方を見やり、視線を私へと戻した。 「考えていたんだ。 キミからのメールは返ってこなかったし」 「……ごめんなさい」 「僕は振られるのかな? って」 「不二くん!」 「でも、それはとても受け入れられない事だって確信したよ」 「……」 「さっき。 佐伯とが並んでいて。 佐伯にキミの護衛を頼んだのは僕なのに。 僕は後悔したよ、どうして僕がの隣に居ないのだろう? ってね」 不二くんはラケットバックを砂浜に置き、私の身体を手繰り寄せた。 休日の水族館の通り道でも、人通りは少ない場所だ。 躊躇わない彼は、そのまま私に口づける。 「キミは僕が守る。 だから、僕の傍を離れないで」 「……」 「もう誰にも揺れないで。 泣きそうな顔で誰かを見ないで。 ……僕が居るから、僕を呼んで?」 「……いいの?」 「ん?」 「不二くんは。 私で……本当に、」 答えは二度目のキスで封じ込まれた。 長いそれに息が止まりそうになる。 ようやく離れた彼の唇からは「嫉妬かな」と、自問自答するような声が聞こえた。 「イルカのショーでも見ようか」 「不二くん」 「今夜は遅くなってもいい? これからしたいな、とのデート」 手を繋ぎ直すと、ショーを案内する館内放送が流れた。 「急ごう!」 引っ張られるように小走りになった砂浜に、並んだ足跡はとても近い歩幅だった。 end by 千春様(Operaglasses) 夏リクドリームをいただきました。 不二くんがらしくて素敵で何度読んでもきゅんきゅんします。 千春さんありがとうございました! 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