受話器の向こうから、涙声が聞こえてくる。 すっかり沈んでしまった夕陽の後、深い闇が夜を連れてくる。 心の色 久しぶりに手塚と再会した夜だった。 携帯への着信が2度。 普段ならもう少し早く気づくことが出来る筈なのに、僕として確認が甘かった。 「油断をするな」という趣旨の戒めが脳裏をよぎる。 そんな親友の口癖は、夕べに限って聞くことは無かった。 恐らく、僕らと同席した手塚にとって”大切な人”のせいだろう。 海外に生活の拠点を移してから、手塚は在京時代より丸くなったような気がする。 それをクラブメイトたちに尋ねれば彼らは揃って疑問を返すのだけど。 さんを見つめる手塚の目はとても優しかった。 と、同時、僕はさんと相対する際、同等のものを伝えらえているのか。 そんな不安が一つ胸に影を落とした。 追い打ちをかけるように、履歴に残ったさんの名前が警告を鳴らす。 僕の意識には、少し寂しそうに俯く彼女のスナップが焼きついたままだ。 不二くんが忙しいのは今始まった事ではないし、これまで電話が通じないことは、何度も経験している。 いざとなれば自宅の固定器にかければいいのだし、そもそも要件はメールで済む内容。 つまり、一刻を争う事は無いことばかりだ。 「……ふぅ、」 中等部を卒業する際に外部受験で青学を離れることになった私は連絡手段を尋ねられ、その時に初めて不二くんとアドレス交換をした。 直接の電話は、それから更に3カ月後。 高等部でもすぐにテニス部のレギュラーを掴んだ不二くんから、私は都大会の案内コールを貰った。 「元6組の子たちも来るよ」という声に、うまく即答できなかった時、私は不二くんを好きになっている事に気が付いた。 憧れだけでは済まない気持ちは、距離のある交友というハンディキャップでどうにか抑えられている感情でもあった。 「メール? ……違うよね」 言い訳とこじ付けと理屈を並べたところで、私はびくともしない携帯の電源を落とした。 「さんはまだスマートフォンにしないの?」と他愛もない会話を思い出す。 お小遣いなら別の事に充てたいし、私は不二くんのように行動範囲も交友範囲も広くないからスマフォの恩恵はないと、可愛げなく答えた自分の声も蘇る。 「そんな事はないと思うけど」 「でも、私の住む場所は電波も問題があるみたいだし」 「……ん」 拗ねるつもりはなくただ現実を説明するだけなのに、不二くんは時折私を見て困った表情になる。 その時も目があった彼は、巧く別の話題にすりかえるタイミングを待っていたような印象。 久しぶりの再会だったのに、なんとなく盛り上がりに欠ける時間になってしまった。 「これから英二たちとご飯だけど、一緒に……」 「私は帰らないと」 「……そう、」 何処に住んでいるのと軽く聞かれたのだから当たり前の地名を挙げればよかった事なのに、私は躊躇ったのち、「きっと不二くんが聞いても分からないよ」と曖昧に回答した。 不二くんはそれ以上追及する人ではない、そう計算しての言葉に自分で嫌悪した。 手を振り旧友たちより一足先に乗車したバスの一番前の席に座り、サイドミラーから不二くん達の姿が消えたころで堰をきったように涙が零れた。 何もかも手遅れで、一人相撲の片想いであると悟った瞬間だった。 「へ? お腹壊した?!」 「っし。 デリカシーに欠けるよ、英二」 「や、だ、だってさ。 昨日はタカさんの店だった訳だし。 え、俺はなんでもないけど」 「お寿司が原因じゃないよ」 「なんで断定できんの?」 「自分の身体の事は、自分が一番分かっているからね」 朝一で英二にテニス部の合同練習を休む事を伝える。 目を丸くした英二は「お医者は?」と彼らしくとても親切に詳細を尋ねてくる。 「大丈夫、薬は貰えると思うから」 「……」 「とりあえず、だから。 大和部長には宜しく伝えて貰えるかな」 僕が英語の辞書でも借りに来たのかとロッカーへ戻りかけ止めたままの姿勢で英二は、神妙な顔で頷いた。 「大丈夫……なんだよね?」の確認の半分はきっと、体調の事だけではない。 僕は笑顔で肯定した。 残暑が殊更厳しいと嘆くと同時、私は東京で過ごさない夏を初めて越えた事を今更ながら考えた。 私の居住区より青春台は暑いのか、涼しいのか。 無理をすれば日帰り可能な距離でも、学生にとってのそれは”永遠”に近い壁だ。 天気図を見て懐かしい場所の予報をチェックする癖も徐々に減り、当たり前に、私は私の生活を進んで行かなければと思うようになった。 携帯のアドレスの”は行”にも、高校で出来た友達の名前が並んだ。 「あれ、着信? お母さんかな」 所属する委員会が予定より1時間遅れの解散となり、私は慌てて校門を抜けた。 あと数十分もすれば、部活動の居残り練習の生徒達は裏門からの帰路となる。 駅までの通学路は日が暮れると途端に寂しくなるのは青学でも同じ懸念ではあったけれど、当時の心配は大したレベルではなかった。 この街に移り住んでから、私は色々な面で度胸が付いたとも思う。 「…………え、」 乏しい外灯の代わりにと思い開いた画面が、周囲より際立った明るい光を放射する。 並ぶ履歴の文字に私は一瞬目を疑い、すぐに納得し、そして昨夜の己の愚行を後悔した。 かけることは無かったのに、しても仕方がない事なのに、すればこのような可能性が生まれてしまうと言うのに……。 ”不二周助” 同じ名前が二行で上下する。 2時間前と1時間前。 何もなければ不二くんも学校だから放課後になったタイミングで折り返してくれたのだろうか。 急用ではなく大した内容もない私のコールを、不二くんは律儀に受け止めてくれた。 「……いいのに、気を遣わなくて」 いつだったか菊丸くんが、不二くんに電話をスルーされたと憤慨していたことがあった。 不二くんは涼しい顔で「誰に対してでもいい電話だったんでしょ?」と切り返した事があった。 呆気にとられた菊丸くんと絶句した私を見た不二くんは、とても不思議そうな顔で「着信の音で分かるよ」と微笑んでもいた。 不二くんは、私からのコンタクトは必ず返してくれた。 「さんは僕以外の元6には連絡していない、って聞いたから」 「……あ、ごめんなさい」 「クス。 そうではなくて。 僕が役立てるのなら光栄だなってこと」 都大会は応援に出向き、夏祭りは辞退した。 暑中見舞いの問い合わせは、返事を書けないことを理由に住所を告げなかった。 合間にメールは2,3通往復した。 手塚くんの活躍と、彼のフィアンセが転校してきたことと、不二くんが2年生で部長になることを承諾した、その報告だった。 「……電話、」 掛け直すべきか、やめるべきか。 不二くんは人が拒む事をむやみに追求することはない。 それが彼としての他人との距離の置き方であり優しさでもあると思う。 私が二度電話をしたから、不二くんもリダイヤルしてくれた。 本当に大事であるのなら、遠慮せずもう一度トライすればいい事。 私は……こんな終わり方もあるのかもしれない、そう自分に言い聞かせるように携帯を閉じた。 二回目のコールは、留守電にさんの消息が残されていた。 3秒と言う表示は本人の応答ではない事に対し、電話を切るタイミングが少し遅れた程度のロスタイム。 無言が定番だ。 普段の僕であれば聞くこともなく消去するメッセージランプを、けれど迷わず指先が触れていた。 「……」 微かに聞き取れたのは、さんの声ではなかった。 何度か繰り返し、僕はその音声を聞き直す。 ボリュームを上げ、頭の中で復唱する。 とても綺麗とは言い難いアナウンスが街の雑踏に紛れる。 せめて市外局番を……と、携帯電話を相手に無茶な問いかけした時だった。 「え、……?!」 弾かれるように僕は顔を上げ、そのまま名前を検索する。 「スマートフォンにすれば調べ物も便利になるよ」と、とってつけたような定説を彼女に語ったシーンを思い出す。 何か共通点をみつけたい、さんの興味がある事を知りたい……随分情けない動機が発端だった会話も、結局彼女に繋がっている事を思い知る。 「あった」 英二には腹痛であると告げたけれど、仮病ではない。 僕は可能性が高いさんが住む街を調べ、彼女が通っているだろう高校を探した。 様々な固有名詞を見つける。 それらは当然ながら僕にとっては初見。 僕は、徐々に痛みを覚えた。 胸がチクリと感じた。 浮かんだ言葉は”切なさ”だった。 僕は……僕の心の色が彼女を考える時に限って変化することに、やっと気が付いた。 「……は、い」 「さん?」 「はい、」 「僕……不二」 「……不二くん」 「やっと繋がった」 「ん、昨夜はごめんね、二度もかけちゃって」 「いいや、直ぐに出られなくて、僕の方こそ」 「た、大した内容じゃないの! つまらないことで」 「……ん」 「だ、だから。 本当にごめんね、不二くん忙しいのに。 今日も私、」 「今、自宅?」 「え? う、ううん。 帰り道、下校途中」 「へぇ、静かだね。 部屋かと思ったよ」 「あ。 何もないところだから。 真っ暗で。 自分の影も見えない位」 あはは、と不二くんが笑った。 真面目に必死に言葉を返す私の台詞は、都心で生活をする不二くんからすれば、単純に面白いことなのかもしれない。 図らずも距離を痛感する瞬間だ。 不二くんはもう自室で好きな音楽でも嗜む頃なのだろうか。 帰宅途中で二度も手を煩わせてしまった挙句、私は三度不二くんのスマートフォンからの着信を受けた。 普段より声がクリアーな気がしたのは、恐らく私の周囲が人気のない田舎道だからだろう。 「何か僕に用だったの?」 「……あ、それは、いえ、あの、何でもないっていうのは失礼だと思うのだけど、」 「僕は、さんに沢山聞きたい事があるんだ」 「え? な、何?」 「でも、とりあえず一つ」 「……は、はい、」 不二くんはそこで、「止まって」と私に命令をした。 「動かないで」と続いた言葉で、足を止めることだと理解した。 「さんの……の心の色」 「……え」 「僕が知りたい事」 「不二くん?」 「僕は、さんの心を色を明るく出来るのかな」 「……」 不二くんの質問の意図は分からなくもないけれど、あまりに文学的で難しくて、勘違いな言葉を回避したい私は息をのんだ。 「ええと」と考える意思表示が精一杯だった。 けれど。 「こっちだよ!」 受話器を通さない声が聞こえた。 「さん、前!」 目を凝らすと、携帯の画面の明るさでぼんやりしてしまう前方に僅かに光が見えた。 上下するライトらしき物体と「分かる?」と言う不二くん……不二くんの声がはっきりと聞こえた。 「動かないで」 「不二くん」 「っ」 数秒もなかった。 衝撃が肩に加わった。 「やぁ」と何度目かの肉声が直ぐそばで聞こえた。 「よかった……ちゃんと、さん、さんだね」 安堵した表情はひとつ汗をぬぐう。 うんともすんとも言えない私は、息を吸う事も吐く事も忘れたかのように呆然とした。 「どうして、え、不二くん、どうしたの!」 「留守電に入っていたから。 さん、最寄駅から電話くれたのでしょ? 夕べ」 「……え! う、うそ。 本当に? え?!」 「僕が出たら、もし電話に出ていたら。 青春台に来てくれるつもりだったの?」 「……不二くん、」 「違うよね、僕がこうしてくれば良かったんだよね?」 「……」 「僕は、会いたかったんだ。 キミに、会いたかったから。 会いたくて仕方がなかったから」 「一緒に帰ろう」と重ねられた掌の熱に頷くと、それと同じ温もりに私の全ては包まれた。 end by 千春様 オペラグラス様10周年記念企画の夢小説リクエストにて、 「不二くんにサプライズしてほしいです」で書いて頂きました。 ヒロインを探す素敵な素敵な不二くんに胸がいっぱいです。ありがとうございますv |