昨夜の夜中に降り出した雨は、朝になっても上がらなかった

 止むことなく振り続ける雨は、私の心を映しているように

 彼の前で泣くことのできない私のかわりに泣いているように見えた




 大切な人〜you still love〜 3




 彼との別れは4日後に迫っている。

 学校へ続く道を傘を手にして歩く。
 一人で登校するのはどれくらい久しぶりなんだろう。

 昨日2人で過ごした時、何度も言い出そうとした。
 でも、言えなかった。

「………
 掠れた声で私の名前を何度も呼んでくれるところも。
「……愛してる」
 甘く囁いて、深いキスをしてから愛してくれるところも。
「大丈夫?」
 気がつくと彼の腕に包まれていて、髪を梳きながら訊いてくれるところも。
「……ん、平気」
 そう答えると、微笑んで頬に優しくキスしてくれるところも。

 なにもかも初めての時からかわらずに彼は優しい。
 彼に抱かれながら、何度も願った。
 このまま時間が止まればいいのに…、と。

 プロポーズはとても嬉しかった。
 望んでもらえてることが、心の底から嬉しかった。
 だけど、頷きたくても頷けなかった。

 こんなに周くんが好きなのに、傍にいられなくなるなんて。
 私自身の決断で。


 ずっと周くんの傍にいたい。
 彼の腕に抱かれて、なんの不安もなく、眠りたい。
 プロテニスプレイヤーになるという周くんの傍にいて、彼を支えたい。
 ずっと隣にいて、彼を見守りたい。

 留学するという私の決断は正しいの?正しくないの? 


 学校が近づくにつれ、雨足はだんだん激しさを増していく。
 雨にすべてが流されて、白紙になってしまえばいいのに。
 そう考えて、自嘲する。

 不意に名前を呼ばれて振り返る。
「周くん…」
「おはよう。……何かあった?」
「え?どうして?」
「元気がないね。具合でも悪い?」
 そう言いながら、周くんは大きな手を私の額にあてた。
「熱はないね」
 色素の薄い瞳が心配そうに私を見つめる。
 何か言わなくちゃと思うのに、声が出ない。
 黙ったままいたら、ますます心配をかけるだけなのに。
「大丈夫?」
 その言葉に頷く。
「……大丈夫。ちょっと寝不足なだけ…」
「寝不足?」
「うん。昨夜の雨すごかったでしょ?雨音でなかなか寝つけなくて」
 どうして本当の事が言い出せないの?
 嘘をつきたくないのに…。
「確かに昨夜の雨はすごかったけど、本当にそれだけなの?」
 そう訊かれて、心臓がドクンと早鐘を打つ。
 もしかして、気づいてるの?
 そんな私の考えは、彼の思いとは全く違っていた。
「……プロポーズ、迷惑だった?」
 思いがけない問いかけに、私は思いっきり頭を振った。
「そんな訳ない!すごく嬉しくて、夢かと思ったくらいなのに」
 そう言うと、彼はほっとしたように微笑んだ。
「よかった。がプロポーズを受けてくれたのは夢じゃないね」
 嬉しそうに言われて、否定なんてできない。
 周くんに抱きついたのは嬉しかったからだけど、それだけじゃない。
 そんなことは言えない。
 ずっと周くんの傍にいたいけど、いられない。

 大切な人なのに。
 大切な人だから。
 愛してるのに。
 愛してるから。
 言いたいのに。
 言えない。

「周くん」
「ん?」
「あなたが好き。ずっと周くんだけ、大好きだから」
 これだけは揺るがない真実。
 何があっても、変わらないから。
「僕もを愛してるよ。必ずを迎えにいくから、もう少しだけ待っていて」
 彼の優しさに心が震えて、私は涙を堪えることができなかった。
?ほら、そんなに泣かないで」
 傘を手放して泣き出した私を周くんは抱き寄せてくれて、傘の中へ入れてくれた。
 片腕でそっと抱きしめられ、溢れる涙は彼の唇に優しく拭いとられた。
「ごめんなさい。…制服濡れちゃったね」
「かまわない。を守ることができればいい」
 何も言葉にできなくて、周くんの広い胸に顔を埋めた。
 嬉しくて、切なくて、涙が止まらない。

 激しさを増していく雨音を遠くに聞きながら、しだいに意識が薄れていく。
 朦朧とする意識の中で感じていたのは、大好きな周くんの体温。
 そして、私の名前を呼ぶ声だけだった。



 瞳を開くと、心配そうな顔をしている周くんが映った。
「……周くん?」
「気がついた?」
「ここ…」
「保健室だよ。急に意識を無くしたから、どうしようかと思ったよ」
「ごめんなさい」
 謝って、ハッとする。
「ホームルーム始まっちゃったよね?」
「もうとっくに予行練習もホームルームも終わったよ」
「え…?」
「さっき遠山先生がそう言いに来た」
 言いに来たって?
 私の言いたいことがわかったのか、周くんは私を安心させるように私の前髪を梳いた。
「倒れた君を一人にしておけないだろ。だから、君の傍についていたいって言ったんだ」
「ずっと…?」
「うん。が心配で式の練習どころじゃないよ」
「ごめんなさい。心配かけて」
「謝らなくていいよ。僕が付き添っていたかったんだから」
「周くん…ありがとう」
 ベッドから体を起こすと、保健室のドアがガラッと音を立てて開かれた。
「あ、さん。気がついたのね」
 保険医の先生に私が答えるより早く、周くんが口を開いた。
「ええ、たったいま」
「そう、よかったわ。一人で帰れそうかしら?」
「僕が家まで送っていきますから」
「それなら安心ね」
 私は先生にお礼を言って、保健室を出た。



 家までの道を2人でゆっくり歩く。
 土砂降りだった雨はすっかり上がり、青空が広がっていた。
「雨上がったのね」
「昼ぐらいにね」
 アスファルトは雨のなごりの水たまりを残していて、時々足下から微かな水音がする。
「ねえ、。明日何か予定ある?」
 明日と明後日は、日本で過ごせる最後の土日――。
 予定があるとすれば留学の準備くらいだけど、あとは手荷物をそろえるだけだから。
「何もないわ」
「よかった。君を連れていきたい所があるんだ。いいかな?」
 私は迷うことなく頷いた。
 もしかしたら言えるかもしれないという思いと、もっと周くんといたいという思い。
「どこに行くの?」
「フフッ。それは明日のお楽しみだよ」
 楽しそうに笑う周くんにつられて、自然に私も微笑んでいた。
「晴れるといいね」
「きっと晴れるよ」
「うん」

 その夜、明日晴れるように祈りながら眠りについた。




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