永遠の約束1




 二人が出逢ったのは今から四年前の春。
 新緑の季節である5月だった。
 当時周助は青春学園中等部から付属である高等部に進学したばかりだった。
 小さな頃から続けているテニスはすでに彼の生活の一部となっていて、切り離すことなど考えられなかった。ゆえに高等部でもテニス部に入部した。
 そして先日行われた校内ランキング戦で、見事にレギュラーの座を獲得した。テニス部の規則として、レギュラーは二、三年生から選出されることになっているので、一年生でレギュラーに抜擢されるのは珍しいことであった。
 だが周助の実力から考えれば、それも当然のことと言えた。昨年の夏、全国大会で活躍し、優勝を決めたことも記憶に新しい。そして、周助の他に一年生ながらにレギュラーを獲得した人物がいた。彼の友人であり、ライバルでもある手塚国光だ。完全無欠と噂される彼もまた、相当な実力を持つ選手である。


 5月中頃から始まった地区大会の予選を、青学はストレートに勝ち進んでいた。
 シード校である青学は二回戦から準決勝まで危な気なくコマを進めており、一週間後に決勝戦を控えていた。そのため、夜遅くまで練習している日が多くなっていた。どんな強豪校と言えど、練習を怠っていては勝てる試合にも勝てなくなる。ゆえに学校が休みである日曜日にも練習が行われていた。もっとも、毎日ハードな練習ばかりでは体を壊してしまうことも考えられるので、そのあたりはきちんと考慮され、練習メニューは組まれている。
 部活から解放された周助は、夕闇の中を歩いて帰路についた。
 いつものように玄関の扉を開ける。
「ただいま」
 家の中に入ると、そこには姉の由美子と見知らぬ女性がいた。
 由美子より少し背が低く、髪は肩より少し長めの明るいブラウンで、サラッという形容詞が似合う柔らかそうな癖のないストレート。顔は小さく、整った顔立ちの女性だった。
 けれど、美しいというよりどちらかというと可愛い。それが周助の第一印象だった。
 そう感じるのは、彼女の纏う雰囲気のせいだろうか。穏やかで、とても優しい空気。
 そして、一見では黒く見える瞳は、よく見ると深い緑色をしている。その瞳はとても澄んでいて、周助は女性から目が離せなかった。
「周助?」
 訝し気に呼ばれた名前に、周助は我に返る。
「何? 姉さん、どこか行くの?」
 姉が右手に持っているバックに気がつき、取り繕うように訊く。
 由美子は周助を追求することなく、口を開いた。
を送ってくるから、お母さんに言っておいてくれるかしら」
「わかった」
 普段の周助なら由美子の言葉に疑問を持つ筈なのだが、彼の頭の中はそういったことを考える余裕を失っていた。
 が優しい微笑みを浮かべて、自分を見つめている視線に気がついたから。
 見守っているような温かい深緑色の瞳。
 春の日射しにも似た、穏やかな優しい微笑みに眩暈がする。
 捕われた、と周助は思った。
「行きましょうか、
「ええ。いつもごめんなさい、由美子さん」
「いいのよ、気にしないで」
「ありがとうございます」
 は家を出る際に後ろを振り向き、微笑みを浮かべながら周助に軽く会釈した。
 そして由美子とは家を出て行った。
 周助はしばらくの間、二人が出て行ったドアを黙って見つめていた。
 すると、閉まったドアが再び開かれた。
「あら、周助、おかえりなさい。こんなところでどうしたの?」
「いや、なんでもないよ。それより、お腹空いたな」
 周助が苦笑すると、その姿に淑子はくすっと笑う。
「できているから支度するわね」
 周助は二階の自室へ行き、制服を脱いで私服に着替えた。
 その間も周助の頭はの事でいっぱいだった。

 一目惚れとか、そういうものではなく、もっと別の――
 人を惹き付ける魅力とも言える優しい微笑みがそうさせるんだ

 そう結論付けて、周助は自嘲した。
 違う。それは言い訳でしかない。

 きっと、おそらく、僕は彼女を――

「好きになったのかもしれないな」
 宙を見つめて呟いた。
 今までこんな気持ちになったことなど一度もなかった。
 恋をしたことがないわけではない。好きになった子はいるし、長くは続かなかったが、女の子と付き合ったこともある。
 でも、彼女のように一目で心を捕われるような人に出逢ったことは、一度もない。
 それほど周助は惹かれ始めていた。穏やかで優しい微笑みを持つ、という女性に。



 部屋を出て階段を降り、周助はリビングへ向かった。
 リビングへ入り、ガラステーブルの上に周助の視線が止まる。見たことのないCDが一枚置かれていた。
 テーブルへ近づきCDのジャケットを見た瞬間、周助は色素の薄い瞳を見開いた。
「…さん?」
 明るいブラウンの髪は結い上げられていて、耳に小さな赤い薔薇のイヤリングをつけている。
 先程見たばかりの澄んだ深い緑色をした瞳は閉じられ、口元には微かな笑みをたたえている。
 白いドレスを身に纏った彼女は、左手にヴァイオリン、右手には弓を持っている。
 間違いなく先程まで家にいた彼女、だ。
 周助はケースを開きリーフレットを取り出し、中の文章に目を走らせた。
 けれど、リーフレットには彼が知りたい事は書かれていなかった。
 書かれていたのはの簡単な経歴と、CDに収録されている曲についてだけ。
 それも当然かという思いと落胆に、周助は長い息を吐き出した。

 周助はしばらくの間、ジャケットのを見つめていた。
 やがて何かを決心したように、CDをケースから取り出した。
 オーディオにセットし、 スタートボタンを押そうとした指が止まる。名前を呼ぶ声がしたからだ。振り向くと淑子が立っていた。
「お夕飯の用意ができたわよ」
「うん、行くよ」
 先程その場を取り繕うために発した言葉が仇となった。
 自分が空腹だと言ったために、母は夕食の用意をしてくれたのだ。
 それを無視することはできず、 周助は後ろ髪を引かれる思いでリビングを後にした。
 二人が食事を始めてから15分程経った頃、玄関のドアが開く音がした。
「ただいまー」
 車でを青春台駅まで送った由美子が帰宅したのだ。
 廊下を歩く足音が近づいてくる。
 姿を見せた娘に、淑子は椅子から立ち上がる。
「おかえりなさい、由美子。お夕飯は?」
「ええ、頂くわ」
 由美子はリビングのソファにハンドバックを置き、手洗いとうがいをしに洗面所へ行った。
 数分後、戻った姉が右隣に座るのを待ち、周助は切れ長の瞳を向けた。
「姉さん、ちょっと訊きたい事があるんだ」
 由美子は周助がそう訊いてくることを予想していたのか、少しも驚かなかった。
 姉はにっこりと顔に笑みを浮かべて頷く。
「いいわよ。のことでしょう?」
 周助は無言で首肯した。
「私も周助に話があったから、ちょうどいいわ」



 カチャカチャという金属音と水音が聞こえる。母が夕食の後片付けをしている音だ。
「CDは聴いた?」
「聴いてない。聴こうと思ったけどね」
 正確には聴けなかったというのが正しい。
 けれど、どちらにしても彼女の奏でる音を聴いていないのだから変わりはない。
「あれは明日発売されるCDなのよ。が届けに来てくれたの」
「彼女は…ヴァイオリニストなんだね」
 訊きたいのはもっと別の事なのに。
 知りたい事は違うのに。
 周助の口をついて出たのは、本心とは全く違うものだった。
「……ねえ、周助。もう一度、に逢いたいでしょう?」
 その言葉に周助は固唾を飲んだ。
 今のは聴き間違いではないだろうか。
 周助の心情は、そのまま彼の色素の薄い瞳に現れていた。
 彼は瞬きすることも忘れ、姉の顔を凝視している。
 そんな弟の姿に由美子は苦笑した。まさかここまで驚かれるとは思ってもみなかった。
 けれど由美子はそれを口にはしなかった。そのかわりに。
「明後日、彼女のソロリサイタルがあるの。からチケットを頂いたから、行かない?」
「………」
が弟さんと是非ってくれたのよ。どうする?」


 もう一度彼女と逢えるなら

 もう一度彼女と逢えたら

 逢いたい――


「……何時から?」
「文化ホールで夜8時から。部活が終わって家に戻ってからでも間に合う時間よ」
「わかった」
 周助はソファから立ち上がり、リビングを後にした。
 残された由美子はソファに座ったまま、白い天井を見上げる。
「周助」
 複雑そうな表情で弟の名前を呟いた由美子の茶色い瞳は、微かな憂いを帯びていた。




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