ベッドに寝転がり瞳を閉じると、春の日射しのような微笑みが浮かぶ。 あんなに優しく笑う人を見たことがない。 「…さん…か」 名前を呼ぶと、心の中が温かくなる。 こういう想いを、感覚を、何と呼ぶか知っている。 周助はベッドから起き上がり、リビングから持ち出したCDをオーディオにセットした。 明後日は彼女のソロリサイタル。彼女の奏でる音を初めて聴くなら生演奏でと思っていたが、今直ぐに彼女の奏でる音を聴いてみたくなった。 人を好きになると、その人の事をどんな些細な事でも知りたくなる。 いつだったか、誰かがそう言っていたのをふと思い出した。 今の自分は、まさにその状態だ。 そんなことを考えながら、リモコンのスタートボタンを押す。 「――っ」 スピーカーから流れ始めた音色に、周助は固唾を飲む。 ぞくりと背筋が粟立ち、全身に鳥肌が奔った。 ジャズやクラシックをほぼ毎日聴いているが、これほどの演奏を聴いたことはない。 月の光を思わせるような美しい音色は、心の奥に心地よく響く。 柔らかく優しい音は、彼女の微笑みを音色にした様で。 表現力もさることながら、その技術は一流としか言いようがない。 高度な技巧を必要とする曲を弾くだけでも驚くことだが、それに心を乗せて弾く。 それが容易いことではないのは、例え奏でたことがない人間でも想像がつく。 永遠の約束2 「不二、何かあったのか?」 朝練の休憩時間に水飲み場で顔を洗っていると、後ろから声をかけられた。 周助はタオルで水を拭きながら振り返った。 色素の薄い瞳に心配そうな表情をした大石が映る。 周助は僅かに瞳を瞠って、ついで秀麗な顔に苦笑を浮かべた。 上手く隠していたつもりだったが、常に仲間を気遣うチームメイトには気がつかれていたらしい。 そしてそれは大石だけでなく、手塚もらしい。声をかけてはこないが、視線が語っている。 「ちょっと、ね」 「俺でよければ相談に乗るぞ」 「ありがとう、大石。でも、たいした事じゃないんだ」 「そ、そうか」 立ち入ることを拒むような笑みを向けてくる周助に、大石は頷くことしかできなかった。 こういう態度のチームメイトを見るのは初めてだが、自分が触れていいことではないのだと察して、ちょうど休憩が終了になったこともあり、足早にコートへ戻った。周助は大石の後ろ姿を見送って、彼とは別のコートへ移動する。 カラーコーン練習はレギュラーのみ行われる練習で、その他の部員は別メニューとなる。 順番にコートに入り、球出しされたボールの色と同じ色の三角コーンへ当てる。瞬時の判断力と技術が必要とされる練習だ。 球出しされるボールを次々にコーンへ当て、10球全てを成功させた周助はコートから出た。 「…らしくないな」 次のレギュラーと交代してコートを出ると、先に終えていた手塚が周助に声をかけた。 練習にミスはないが、いつもはもっと集中して部活をやっている。 そのことに気がついていた手塚は、声をかける機会を窺っていたのかもしれない。 周助は色素の薄い切れ長の瞳を手塚に向けた。 「僕もそう思うよ」 6日後は関東大会の決勝がある。 それに向けて集中しなくてはならないのは、わかっている。 だが、心ここに在らずの状態から抜けだせずにいるのだった。 昨夜聴いた彼女の音色が、彼女の微笑みが消えない。 こんな事は初めてで、けれど嫌ではない。 早く明日になればいいのにという想いが心を占めている。 「…わかっていても、か」 「自分でも驚いているけど…ね」 淡々とした口調の手塚に、苦笑ぎみの声で周助は答えた。 それきり会話は途切れ、時間は過ぎていった。 始業開始20分前を告げるチャイムが鳴り、それと時を同じくして部長の声がコートに響き朝練が終了した。 「なあ、手塚と何かあったのか?」 ジャージから学ランに着替えた周助は部室を出て、クラスメイトの菊丸と教室に向かっていた。 菊丸は隣のコートで練習をしていたから、周助と手塚が話している姿を見ていたのだろう。 「何かというか…部活を真面目にやれ、って注意されただけだよ」 本当の所は違うが、あながち嘘でもない事を唇に乗せて、周助はクスッと笑う。 彼の笑顔に隠された真実に菊丸は気がつかず、呆れたような顔をした。 「そんなんでケンカしてちゃダメじゃん」 「ケンカとは違うんじゃない?」 「そうかあ?似たようなもんだと思うけど」 「似てないよ」 菊丸と話しながらも、周助は頭の片隅で別の事―――の事を考えていた。 周助が一時限目の授業を受けている頃、は文化ホールの控え室にいた。これから明日のリサイタルのリハーサルがあるからだ。 始まるまで時間があるので、はロビーの自販機で購入した缶コーヒーを飲んでいた。 ヴァイオリンの手入れは先程終わりすることがなく、手持ち無沙汰を紛らわせるために。 不意にバッグの中の携帯が鳴り、メールの着信があることを告げた。 携帯を取り出して、届いたメールを開く。 メールの差出人は友人であり良き相談相手である、不二由美子だった。 「……ふふっ、よかった」 一人ごちて、は由美子にメールを送信した。 直後、控え室のドアをノックする音がした。 「さん、リハを始めるそうです」 「はい」 ドア越しに届いた男性の声に返事をし、は椅子から立ち上がる。 そして、ヴァイオリンケースを持ち、控え室をあとにした。 本番と同じように、ステージは明かりを弱めたライトで照らされている。その中央へは歩いていく。 白い手でヴァイオリンと弓を構え、深緑色の瞳を閉じる。 まだ音色が出ていないというのに、彼女の周りの空気が清麗さを帯びていく。 「これが・・・」 音響担当の男性がごくりと息を飲む。ベテランの彼は、これまで数えきれない程の音楽家を見てきた。その中には巨匠と謳われる人物もいた。その巨匠と謳われる人物と同様のオーラが、彼女にはある。 噂は噂に過ぎず、自分の目で確かめなければ真実はわからないと思っていたが、このような形で判明したことに、ここにいる大半の者は驚きを隠せなかった。 細い指が弦を押さえ、ゆっくり弓が動く。 モーツァルト作曲【アダージョ ホ長調 K.261】の甘くしなやかな美しい旋律が、の手で奏で紡がれていく。静かに、それでいて深みのある音色は、まるで彼女自身のようだ。 弓が弦から離れたと同時に、拍手が沸き起こった。 は驚いたように深緑色の瞳を丸くし、ついで瞳を細めるとはにかむように微笑みんだ。 その微笑みが多くの人を魅了することに気がついていないは、再び愛器を構える。 会場の片隅で見守る人影に柔らかく微笑みかけ、明日のリサイタルで演奏する曲をヴァイオリンで奏で始めた。 が微笑みかけた男性が奏でられる多彩な音色に耳を傾けていると、微かな足音が近付いてきた。 「智宏様」 「時間か…」 智宏と呼ばれた男は呟いて、背をもたれていた壁から離した。 そして秘書を伴い会場から静かに出ていった。 は男の後ろ姿をほっとした顔つきで見送っていたが、その変化は刹那に過ぎなかった。 一息吐いて、弦に弓を当てる。 …智宏さん気づいているの?それとも…… 静かな空間に愁いを帯びた悲しい旋律が響く。 だが曲目リストにある曲なので、の演奏のに込められた真意は誰一人として気がつかない。 NEXT>> BACK |